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君と会うまで、世界は無音だった  作者: わる
第2巻 - 居場所となった声
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第28話「帰り道の小さな寄り道」第一部

「ねえ……どうするつもり?」


 好奇心に満ちた女性の声が、朝の鋭い空気を切り裂いた。


 前を行く秋山真琴は、心臓破りの坂道をものともしないエネルギーで歩いている。両手を後ろで組み、リズミカルに、そして楽しげに身体を前へと弾ませていた。


 朝日が彼女を完全に包み込んでいる。普段は落ち着いた色合いのとび色の髪が、強烈な光を吸い込んで鮮烈な赤に輝き、坂を吹き抜ける風に合わせてサラサラと揺れていた。頭頂部でまとめたお団子ヘア。サイドと襟足を遊ばせたその髪型は、彼女のうなじの曲線を際立たせ、どこか無防備で優雅な雰囲気を醸し出している。


 彼女がわずかに顔を巡らせ、そのみどりの瞳が彼の視線と絡み合った。そこには甘やかな光があった。背後を歩く少年の周囲に張り巡らされた永久凍土を、なんとかして溶かそうとするような優しさ。


「まだ、わからない……」


 三浦竜斗の返事は、機械仕掛けのように重苦しく引きずられたものだった。


 彼女とは対照的に、その足取りは単調で重い。ズリッ、ズリッ。脚を動かすたびに、彼だけ重力が強く作用しているかのような疲労感が漂う。背負った鞄に入っているのは教科書だけではない。猫背気味のその肩には、学用品よりもはるかに重い、目に見えない何かがのしかかっている。表情はいつも通り――疲弊し、無気力で、視線は灰色のアスファルトの染みに吸い込まれていた。


 ヒュゥゥゥ……風が二人の間を通り抜け、斜面を覆う木々の草いきれと湿った土の匂いを運んでくる。カツ、カツ、カツ。乾いた靴音が、坂道を登る他の生徒たちの話しノイズと混ざり合う。竜斗にとって、それは耳を塞ぎたくなるような日常の交響曲だった。


「でも、運動部のマネージャーっていいじゃん!スポーツの部活だよ!すっごく……なんていうか、男の子って感じ!」


 真琴は両手を前へ突き出し、その概念そのものを抱きしめるように高らかに宣言した。その声はよく通り、二人の間の空間をビリビリと震わせる。


「僕はサッカーなんてやらないよ……」


 竜斗はボソリと呟く。視線は地面に縫い付けたままだ。彼女の熱量を受け取ることを拒絶している。


「わかってる、わかってるってば……」


 彼女はケラケラと笑い、手の甲を額に当てる大げさな仕草でおどけてみせた。


「ただ、その……」


 竜斗は足を止め、顔を上げた。坂の頂上に鎮座する校舎。校門が制服の波を次々と飲み込んでいく。その光景――変わることのない日常の象徴――を目にした瞬間、胃の腑がキリリと痛んだ。


「そのせいで、放課後にやってることを……やめたくないんだ」


 声は小さかったが、そこには重い意味が込められていた。


 タッ。真琴の弾むような足音が止まる。彼女はくるりと振り返り、竜斗を正面から見据えた。一瞬浮かんだ困惑はすぐに消え、鋭い洞察の色へと変わる。彼女は竜斗の虚無的な黒い瞳を覗き込んだ。大半の人間がただの『無関心』や『退屈』として片付けるその奥に、真琴は彼が必死に無気力という殻の下に埋葬しようとしている感情を見つけた。


 ――『罪悪感』。


「そっか……」


 彼女の声からキンとした響きが消え、ビロードのように柔らかい音色に変わる。だが、瞬きの間にメランコリーは霧散した。真琴は再び歩調を早め、自信に満ちた笑みを唇に刻んで彼を追い越していく。


「どうしたの?」


 突然の態度の変化に、竜斗は警戒心を滲ませた。


「三浦くんこそ……」


 声色が、悪戯っぽく跳ねる。クルッ。彼女はきびすを返すと、器用に後ろ向きで歩き始めた。坂道を背中で登りながら、彼を見下ろす形になる。後ろで組んだ手に身体を預け、上体を彼の方へ傾けた。その翠の瞳が、いたずらっぽく煌めく。


「大事な咲ちゃんを置いていけないもんね。わかる、わかるよ!いいお兄ちゃんだ!」


 竜斗の目がスッと細まる。挑発に対する自動防衛反応だ。


「ああ。授業が終わってすぐあいつの顔を見ないと、死んでしまいそうだよ……」


 砂を噛むような乾いた皮肉。一音一音から冷笑が滴り落ちていた。


「ほら、やっぱりあたしは何でもお見通し!」


 彼女は笑い声を上げ、再びくるりと前を向いた。


「でもさ、三浦くん」


 背中を向けたまま、彼女が切り出した。声のトーンが、また変わる。冗談めいた響きが蒸発し、後に残ったのは深刻で、どこか厳粛な響きだった。その声で自分の名を呼ばれ、竜斗の背筋にゾクリとしたものが走る。


「何が三浦くんをそこまで縛り付けてるのか知らないけど……あたしは、三浦くんが一度くらいチャンスを掴んでもいいと思うんだ」


 彼女は歩き続けているが、その速度は明らかに落ちていた。


「急ぐ必要はないけど、でも……」


 ピタリ。真琴の足が止まった。思考の海に沈んでいた竜斗は不意を突かれ、彼女の横を通り過ぎてしまう。気配が止まったことに気づき、慌ててブレーキをかけて振り返った。


 彼女は坂道の真ん中に佇んでいた。風が、ほつれ毛をフワリと撫でていく。


「あたしは……すごく、そう思う」


 穏やかな笑みが唇を彩っていた。視線は伏せられている。


「三浦くんに、あたしを信じてほしいな」


 彼女が顔を上げ、彼を見た。その微笑みは揺るがない。


 ビクッ。少年の瞳が微かに震えた。彼女のその表情を見た瞬間、昨日の記憶がぼんやりと脳裏に蘇る。目の前の少女に重なるように、病室のベッドで穏やかに微笑む母の姿がフラッシュバックした。


「ぼ、僕は……その……」


 竜斗は視線を逸らし、逃げ口上を探すように、いつもの無気力な眼差しへと逃げ込もうとする。


「無理しなくていいよ、三浦くん」


 彼女の声がそれを遮った。そこには強制も非難もなく、ただ静かな受容だけがあった。


 竜斗は凍りついた。その、優しさは……


 恐る恐る、顔を上げる。朝の光を浴びた真琴の、すべてを許すような微笑み。その光景が、彼の感覚に致命的なエラー(バグ)を引き起こした。目の前の現実がぐらりと揺らぐ。


 その時。福実の声が、まるで隣にいるかのように鮮明に脳内に響いた。


 母さんの、あの穏やかな声。とても静かで。そして、悪戯っぽい声。


『真琴ちゃんの話、聞きたいな』


 ドクンッ。衝撃は即座に走った。母の優しさと、目の前の真琴の存在。脳が勝手に結びつけたそのリンクは、今の彼が処理するにはあまりにも劇薬すぎた。


 緊張で蒼白だった竜斗の顔が、今度はまったく別の理由で自制を裏切る。カァァァッ……!暴力的なまでの熱が首筋から一気に這い上がり、頬を隠しようのない朱色に染め上げた。


「ち、違う……っ」


 声が裏返った。いつもの冷徹さなど微塵もない、ひどく狼狽した甲高い声だった。


「んん~?」


 真琴が小首をかしげ、目を丸くする。だが、その無垢な好奇心は一瞬のこと。彼の顔の猛烈な赤面と、挙動不審な態度を見て取ると――。


「うふふふ~ん……」


 喉の奥から、楽しげな唸り声が漏れた。聖母のような微笑みが、一瞬にして小悪魔的な笑みへと変貌する。それはまるで、新しい毛糸玉を見つけた猫そのものだった。タタッ!彼女は彼の方へ跳ねるように近づき、彼の心の鎧に生じた稀有な隙間へと強引に侵入してくる。


「三浦くん……もしかして、照れてる?」


「ち、違う……!」


 彼は一歩後ずさり、必死に視線を逸らす。無意識に左手が上がり、耳をかく仕草を見せた。


「ううん、照れてる!絶対そう!何考えたの?ねえ、言ってよ!」


 グイッ!迷いなく、真琴が彼の腕を掴んで揺さぶる。


「なんでもないって言ってるだろ!……そ、それより、髪型どうしたんだよっ」


 彼は話題を逸らそうと声を荒げ、いつもの冷淡な態度を取り繕おうとした。だが、顔に張り付いた熱がすべてを物語っている。


「てへへ……三浦くん、気に入った?」


 すぐには答えられなかった。彼は彼女を見つめ、強張った顔の筋肉を無理やり緩めようと試みる。燃えるような羞恥の上に、必死で無関心の仮面を再構築しながら。


「……嫌いじゃ、ない」


「三浦くんってば、ほんとかわいい~」


「……うるさい」

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