第27話「白い部屋の温もり」第四部
「サッカー部、ですか?」
彼女の穏やかな声には、純粋な驚きが滲んでいた。
ウィィィン……と、機械的な駆動音が微かに響き、ベッドの背もたれがゆっくりと起き上がる。福実は胸元で弱々しく手を握りしめながら、その身体を起こしていた。実用性を重視して短く切り揃えられた黒髪が、窓から差し込む夕陽の深いオレンジ色に染まり、彼女の顔を縁取っている。
病室は重苦しいほどの静寂に包まれていた。ブォォォ……その沈黙を破るのは、昼下がりの蒸し暑さと戦うように冷気を吐き出す、エアコンの無機質な音だけだ。
「ええ、まあ……」
竜斗はボソリと呟いた。疲労が色濃く滲むその視線は、逃げるように窓の外へと逸らされる。
「だが、これは朗報だぞ!」
賢進の声が、狭い病室の中で場違いなほど明るく弾けた。バンッ!と膝を叩き、全身から溢れ出るようなエネルギーを発散させる。その暑苦しいまでの活力は、病室の酸素を奪い尽くすかのようだった。
(……どこが『朗報』なんだよ、全く)
「……それのどこが『いいニュース』なんですか」
竜斗は無気力な声を漏らしながら、義理の父を冷ややかなジト目で見据えた。
「新しい友達ができるチャンスじゃないか!」
賢進は半分叫ぶように言った。まるで奇跡の啓示でも受けたかのような口ぶりだ。
竜斗は言葉を返さず、ただ視線だけで答えた。そこには、生きる疲れ、虚無感、心の壁、皮肉、そして諦め――それら全てが「無表情」というパッケージに詰め込まれていた。
「……すまん」
シュン……その視線の圧力に耐えきれず、賢進は大きな肩をすくめて萎んでしまった。
(はぁ……)
竜斗は重たい溜息を吐き出す。あからさまに罪悪感を浮かべて目を逸らす義父の姿を見ると、口の中に苦い味が広がるようだった。
「私は、悪い話じゃないと思うわよ?」
張り詰めた空気を切り裂いたのは、湖の水面のように静かで、透き通った女性の声だった。男二人は弾かれたように顔を上げ、ベッドの上の女性を見つめる。病床にあってもなお、彼女の言葉には絶対的な重みがあった。
「一度、試してみたらどうかしら?竜斗」
福実は聖母のような優しい笑みを浮かべていた。それは、竜斗がどうしても逆らえない、最強の武器だ。
竜斗は凍り付いたように母を見つめた。脳内では錆びついた歯車がギチギチと悲鳴を上げながら高速回転し、断るための口実や逃走ルートを必死に検索していた。
口が半開きになり、言えない言葉がつかえて顎が微かに震える。ゴクリ、と唾を飲み込む音が、自分自身の耳にひどく大きく響いた。
「でも……僕が学校で何かを始めたら……」
賢進が真っ直ぐに竜斗を見た。そこには飾らない心配の色があった。彼は、竜斗が次に何を言おうとしているのか分かっている。竜斗がただ、ここに来たいだけだということも。
けれど、母はただ微笑むだけだった。竜斗の胸に降り積もった氷を溶かすような、あの暖かな陽だまりのような笑顔で。
「いいのよ、竜斗」
ドクンッ。
竜斗は弾かれたように目を見開いた。説明のつかない圧力が胸を締め付け、呼吸が詰まる。エアコンの音は意識の外へと消え失せた。聞こえるのは、肋骨を内側から叩く痛いほどの心臓の音だけ。
「それでも……僕は!」
「あなたはもう十分、ここで時間を過ごしてくれたわ」
彼女の言葉は柔らかく、しかし決定的だった。遮られた言葉は喉の奥に消える。賢進は横目で竜斗を見ていた。その瞳には静かな諦めがある。二人は話し合っていたのだ。計画していたのだ。竜斗が学校生活に目を向けるべき時が来たのだと。
「これ以上、あなたの時間を奪いたくないの。学校生活はね、あなたの年齢の若者にとって、とても大切な時期なのよ」
クイッと、彼女は弱々しく手招きをした。賢進は心得たように立ち上がり、竜斗が母のそばに行けるよう場所を譲る。竜斗はおずおずと近づいた。まるで優しく叱られる子供のような気分だった。
スッ…… 母の手が竜斗の頬に触れる。その肌は温かく、羽毛のように軽かった。
「時間は減るかもしれないけれど、会いに来てくれるでしょう?でもね、お母さんは、あなたに自分の人生を楽しんでほしいの」
「母さん……」
声が震え、喉が引きつる。
彼女はさらに笑みを深めた。目尻の笑い皺が、愛おしそうに刻まれる。
「大丈夫よ。私の愛しい息子だもの」
ポン。重たい手が竜斗の肩に置かれた。賢進が、頼もしい存在感で背後に立っていた。
「俺が早く上がれる時は、迎えに行くからさ。学校で拾って、そのままここに来よう。どうだ?」
それは休戦協定の申し出であり、妥協案だった。彼はハードルを下げようとしてくれている。障壁を取り除こうとしてくれている。
(……もう、逃げ場はないか)
「……わかった」
竜斗は敗北を認め、力なく頷いた。母の手が頬から離れ、ゆっくりとシーツの上へと滑り落ちる。
「それに、先生は一週間って言ってたんでしょう?もし気に入らなかったら、辞めればいいじゃない」
「ああ、そうですね」賢進が言った
(そうか、期間限定だ。たった一週間耐えて、適当な理由をつけて辞めればいい)
ガチャリ。金属的な音と共にドアが開いた。看護師が入ってくる。その所作はスケジュール通りに動く人間のそれだった。
「面会時間は終了です」
賢進は振り返り、軽く会釈をした。彼はもう一度竜斗の肩を強く握り、妻と意味ありげな視線を交わしてから別れを告げた。
竜斗は鉛のように重い足を引きずりながら、義父の隣を歩く。
「いってきます」
「いってらっしゃい」
二人がドアに近づき、無機質な廊下へと足を踏み出そうとしたその時――彼女の声が呼び止めた。
「ねえ、竜斗」
クルッと振り返る。母はまだ身を起こしたまま、黄昏の光を浴びていた。
「なに、母さん?」
「今度来るとき……真琴ちゃんの話、聞かせてね?」
彼女は恐ろしいほど自然に、悪戯っぽい笑みを青白い唇に浮かべてそう言った。
竜斗の世界が、停止した。
カアアアアッ!瞬時に顔が沸騰し、血液が暴力的な勢いで頬へと駆け上がる。は!?なんで!?
「まだ言っちゃダメだってば、福実!」
賢進が裏返った悲鳴のような声を上げた。
「ぼ、僕……え、あの……」
竜斗の思考回路は完全にショートし、言葉が継げない。
「ふふふふふ……」楽しそうな笑い声が響く。
「あーもう……今言うことじゃないだろう!!」
ガシッ!完全なパニック状態に陥った賢進が竜斗の肩を掴み、ズルズルと引きずるようにして病室の外へと連れ出す。
「また明日な、愛してるよ!!」
バタン。看護師が福実に一礼してドアを閉め、その声を遮断した。世界が隔絶される。
病室には、彼女だけが残された。
彼女は窓の方へと顔を向け、地平線へと沈みゆく夕陽を見つめた。その瞳は息子と瓜二つだったが、今のそこには悪戯な光はなく、穏やかで思索的な色が浮かんでいた。
彼女は短くなった髪の毛先を指で弄びながら、薄暗闇の中で満足そうに微笑んだ。
「真琴ちゃん、か。ふふふ……」




