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君と会うまで、世界は無音だった  作者: わる
第2巻 - 居場所となった声
26/30

第26話「白い部屋の温もり」第三部

 森田先生との「謁見(えっけん)」が、ようやく終わった。


 疲れ切った太陽が山の端に隠れようとし、空を錆色と紫のグラデーションに染めている。校内はすでに静まり返っていた。生徒たちの群れという名の喧騒は霧散し、残っているのは幽霊のような残響だけ。今の世界を構成しているのは、遠くから聞こえる運動部のくぐもった掛け声と――


 キュッ、キュッ……


 体育館の開いた窓から漏れ出す、ワックスの効いた床をゴム底が擦る甲高い摩擦音だけだった。職員用駐車場でさえ、今はただの灰色の空白だ。


(永遠に続くかと思った……)


 竜斗はそう毒づきながら、下駄箱の金属製の扉に手をかけた。


 ガチャン。


 乾いた金属音が、静かな昇降口に不釣り合いなほど大きく響く。秋山さんは、カラオケに行くと言っていた。たぶんもう着いていて、あの騒がしい連中と笑い合い、マイクを握りしめて薄暗い部屋を照らしているんだろう。だから彼女は……


(待て待て待て!!)


「無感動」な少年の思考プロセスが、暴力的な急ブレーキをかけた。靴紐を結ぼうとしていた手が、空中で凍りつく。意識の深層から、認めたくない不快な感覚がボコボコと湧き上がってくる。


(なんで僕……彼女に待っていてほしかったなんて、思ってるんだ……?)


 カァァ……


 竜斗の顔が唐突に熱を帯びた。耳まで赤くなるのが自分でも分かる。誰もいない廊下の空気が、急に薄くなった気がした。この矛盾が、苛立たしい。


「別に……望んでたわけじゃない……」


 虚空に向かって呟きながら、彼の左手が無意識に動く。ポリポリ……彼は、左耳を掻いた。


 ブンと頭を振って彼女の残像を追い払い、彼はいつもの帰路についた。


 ザッ、ザッ……


 学校の坂道を下ると、砂利が足元で乾いた音を立てる。バス停へ向かい、市街地のターミナル行きのバスに乗り込む。バスを降りると、都市の喧騒が彼を包み込んだ。足はオートマチックに、あの場所へと向かう。オタクたちの聖域、コレクターズショップの前へ。


 急いでいるはずなのに、彼の目は意志を裏切ってショーケースを横目で盗み見た。


 彼女は、そこにいた。走る少女のフィギュア。完璧に造形されたプラスチックが、純粋な陶酔の瞬間を切り取っている。鮮やかな青と白の勝負服、絶対的な勝利を示して空に突き上げられた腕。見えない風になびく茶色のポニーテール、そして頭上のウマ耳と、ふわりと揺れる尻尾が、ターフのアイドルの姿を完成させていた。


「帝王のシンボル」。


 だが、通りの向こうでは夕焼けのオレンジ色がすでに支配権を握っている。立ち止まっている贅沢は、今の彼にはない。竜斗は無理やり視線をコンクリートに戻し、足を速めた。


(放課後は用事があるから、といつも言ってるけど……)


 自己防衛的な言い訳が、頭の中でループする。


(周りは僕がふらふら遊んでいるか、あるいは人付き合いから逃げるための適当な口実だと思っているだろう。もしくは、咲の世話を盾にしていると)


 まあ、どっちも当たらずとも遠からずだ。


 ザワザワ……


 景色が微妙に変わった。無機質なコンクリートが、意図的に整備された風景へと移り変わる。咲き誇る花々でさえ、ここの重い空気を明るくしようと無駄な努力をしているように見えた。手入れの行き届いた庭園が横に広がっている。


 そこには日常を生きる人々がいた。夕飯や仕事の話をして笑う、私服の人々。そして、彼らに混じって、真昼の幽霊のように彷徨う者たちがいた。


 白衣を着た人々だ。


 竜斗は、庭園の前にそびえ立つ広い石段の前で足を止めた。顔を上げる。巨大な建物の曇りガラスが、沈みゆく太陽の業火を反射し、冷たいファサードをどこか威圧的なものに変えていた。


(でも、僕には本当に、毎日やってることがあるんだ……)


 最後の思考が、重い(いかり)のようにストンと落ちた。


(僕はここに来る。毎日、欠かさず)


 ウィーン……


 迷うことなく石段を上がり、自動ドアをくぐる。三浦竜斗は、消毒液と空調の冷たい匂いに満ちた「病院」という名の異界へと、吸い込まれていった。


◇ ◇ ◇


「無感動」な少年は、東病棟の廊下を進んでいた。


 ツンッ……


 臨床的な臭いが、許可なく鼻腔を侵犯してくる。アルコール、エーテル、そして工業用消毒剤が混ざり合った攻撃的な混合臭は、服の繊維にまで染み付いているかのようだった。過剰なまでに磨き上げられたリノリウムの床が、天井の蛍光灯を反射している。皮肉なことに、それは学校の体育館のワックスの輝きを思い出させた。どちらも、規則と反復に支配された場所という意味では同じだ。


 照明は暴力的と言えるほど白く、すべての輪郭を硬く切り取っている。開け放たれた病室のドアからは、一時停止された人生の断片が覗いていた。埋まったベッド、吊り下げられたテレビの青白い光に催眠術をかけられたような患者たち、隣のベッドの住人と交わされる間延びした会話のさざめき。


 ザワザワ……


 竜斗は、ある特定のドアの前で足を止めた。その病室は他の部屋よりも狭く、圧縮されているように見えた。まるで病院が、ここだけ空間を節約しようとしたかのように。


 彼は腕を上げ、ドアノブの上で手を止めた。廊下は、病と治癒のサウンドトラックで生きていた。乾いた咳、生命維持装置の規則的で絶え間ない電子音、そしてそれらすべてと不協和音を奏でる、廊下の突き当たりのナースステーションから聞こえる看護師たちのくぐもった笑い声。


 ピッ、ピッ、ピッ……クスクス……


 少年の目が細められた。ついに手が金属に触れる。ヒヤリ。冷たかった。


 竜斗はレバーを押し下げ、引き戸を横に滑らせた。


 ガララ……


 途端に、内部に堰き止められていたエアコンの冷気が逃げ出し、彼の腕に当たり、顔を撫でた。保存のために設計された、人工的な寒さだ。


 だが、彼の感覚を支配したのは、光だった。


 カッ!


 西の窓から射し込む強烈な夕焼けのオレンジ色が、室内の薄暗さと衝突していた。竜斗の視界は一瞬、部屋全体を覆う黄金色の輝きに焼かれ、浮遊する埃が金色の粒子へと変わるのを見た。


 目が光に慣れ、像を結ぶ。


 一人の女性が、背もたれを起こしたベッドに座っていた。病院のダボついた検査衣が、彼女の華奢なシルエットを飲み込んでいる。うなじのあたりで切り揃えられた黒髪が、蒼白な顔を縁取っていた。だが、彼女が浮かべている表情は、肉体の儚さを否定する強さを持っていた。


 彼女の微笑みは、外の太陽よりも暖かかった。


「おかえりなさい、竜斗」


 彼女の声は穏やかで、静謐(せいひつ)だった。まるでその部屋の時間だけが、世界の他の場所とは違うリズムで流れているかのように。


 少年は数秒間、彼女を見つめた。その光景が現実であることを確認するように映像を吸収する。一歩ずつ中に入り、背後で静かにドアを閉め、外の世界を遮断した。


 カチャリ。


「ただいま、母さん」


 彼は答えた。その瞬間だけ、いつもの仮面が割れ、稀有で純粋な微笑みが漏れ出した。


「今日はちょっと帰りが遅いな」


 ベッドの脇の肘掛け椅子から響いた男の声が、厳かな空気をぶち壊した。男――賢進は、大げさに心配そうな顔を作って腕時計を睨んでいる。


「面会時間終了まであと数分だぞ。下の守衛がもう目を光らせてる時間だ」


「ごめん」


 竜斗は賢進の隣まで歩いたが、視線は母に釘付けのままだった。


「担任に呼び出されてね。放課後、話が少し長引いたんだ」


 ガーン!


 賢進が目を見開き、口をあけ、コミカルなほどの恐怖の表情を作った。ドラマの種に事欠かない義父の脳内は、間違いなく「停学」、「赤点」、あるいは「校内犯罪」といった単語を想像しているに違いない。


「別に、賢進が考えてるようなことじゃないよ……」


 少年は慌てて、この男の暴走する想像力を断ち切ろうとした。その時だった。くぐもった音が二人の注意を引いた。


「ふふふ……」


 少年の母、福実が痩せた手で口元を覆い、肩を小刻みに震わせていた。青白い指の上から覗くその瞳は、病でさえ消し去ることのできない少女のような悪戯(いたずら)っぽさで輝いている。彼女は視線を天井に逸らし、無実を装った。


「な、何……?」


 背筋に悪寒が走るのを感じながら、竜斗は尋ねた。まだ笑みを隠したまま、彼女は二人に聞こえるような声量で呟いた。


「学校で……普通は『寝室』でするようなことをしてて、捕まっちゃったのかしら……ふふふ」


 シーン……


 重く、気まずい沈黙が一秒間、場を支配した。


「ふ、福実ッ!!」


 バタバタッ!


 賢進が憤慨して叫び、妻の言葉を物理的にブロックしようとするかのように両手を前で振った。男の顔は、窓の外の空と同じくらい赤くなっていた。


 一方、竜斗は一瞬、魂が口から抜け出るのを感じた。彼は母を見、次に賢進を見て、その表情を「工場出荷時の設定」――絶対的な虚無へと戻した。


 スンッ。


「……僕を、なんだと思ってるの……?」


 彼は遠い目をして、抑揚のない声で呟いた。この狭い病室の中で、自分の存在しない社会生活が、実の母親によって「大人のラブコメ」に改変されているという事実を、必死に無視しようと努めながら。

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