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君と会うまで、世界は無音だった  作者: わる
第1巻 - 僕が忘れたくない雑音
23/29

第23話「僕の人生の脚本の『エラー』」

 ヒュオオオオオ……


 山の冷気が、見えない刃となって顔を切り裂く。激しい温度差だった。外気は凍えるように冷たく、頬や唇の感覚を奪っていくのに、三浦竜斗の頭は燃えるように熱かった。極度の疲労と、全身を巡る血液の奔流が、彼の内側を灼熱の炉へと変えていた。


 タッタッタッタッ!


 彼は走っていた。急な坂道を、ただひたすらに。肋骨を内側から叩く心臓の鼓動は、痛みを伴うほど不規則だった。ハァ、ハァ、ハァ……乾いた空気を吸い込むたびに、喉が擦り切れるように痛む。冷や汗が背中に張り付く不快感。足の裏から太ももにかけて走る鋭い痛みが、一歩ごとに筋肉を焼き尽くしていく。


 ただの夏の夜のはずだった。静寂があるべきだった。


 しかし、耳に届くのは木々を揺らす風の音と、遠くの家々から漏れる微かな生活音だけ。家族の話し声、テレビの電子音。彼が探している音――あの特定の「音」は、どこにもなかった。


 脳裏に、あの映像がフラッシュバックする。リビングに立ち尽くしていた秋山真琴。彼女の瞳が彼を捉え、そして伏せられた瞬間。そこにあったのは、彼女には似つかわしくない、深く暗い陰りだった。そして、彼女は逃げ出した。


(なぜ、あの光景がこんなにも僕を突き動かす?)


(なぜだ?)


 その問いが、走る足音と同期してこめかみで脈打つ。


(なぜ……今これをしなければ……僕のこれまでの全てが、無駄になるような気がするんだ?)


 駆け上がっているこの坂道は、見慣れた景色だった。両脇に静まり返った家々が並び、その奥には深い森の壁がそびえ立つ、長く続くアスファルトの道。疲労で霞む視界を無理やり上げると、坂の頂上、夜空を背景に黒いシルエットが浮かび上がった。


 学校だ。


 そして、彼の目はついに探していた「音」を見つけた。


 校門の前。コンクリートの縁石に座り込み、街を見下ろしている秋山真琴。広大な闇に包まれた谷間に対し、彼女の背中はあまりに小さく見えた。


 ハァ……ハァ……ッ


 数メートル手前で立ち止まる。肺が痙攣し、呼吸をするたびに胸が焼けるようだった。彼女は動かなかった。彼の荒い呼吸音など聞こえていないかのように、その緑色の瞳は、眼下に広がる人工的な光の絨毯に釘付けになっていた。


 呼吸を整え、竜斗はゆっくりと歩き出した。ズルッ……靴底がアスファルトを擦る音。彼は彼女の近くに座った。いつものように、彼と世界を隔てる計算された距離――「安全圏」を保って。体は離れているが、同じ沈黙を共有できる距離。


 彼女は膝を抱え、その上に顎を乗せていた。竜斗は両手を後ろについて体重を預け、空を仰いで息を吐いた。


 フゥー……


 目の前には、夜景が広がっていた。見慣れた景色だ。彼が自分の家の丘から、毎日夕暮れ時に見ているものと同じ。家の灯り、規則的に並ぶ街灯、商業施設の光のブロック。それらが静止した光の海を作っていた。


 ヒュオオオ……


 聞こえるのは風の音だけ。冷たく、一定の音程で丘を吹き抜けていく。数分間、二人は身じろぎもしなかった。走った直後のアドレナリンが引いていくにつれ、現実の寒さが襲ってくる。汗で濡れたシャツが冷たい湿布のように背中に張り付き、体が震えた。


 誰も横を見ようとはしなかった。互いの表情を確認したいという衝動が、開いた傷口のようにズキズキと疼いているのに、彼らはそれに屈することを拒んでいた。


 だが、場の圧力が、無気力な少年に重くのしかかる。彼は体を前に倒し、背中を丸めた。鉄仮面のような無表情にヒビが入り、隠しきれない困惑が漏れ出す。


(……で、どうすればいいんだ?バカみたいに必死に走ってきて、いざ隣に座ったら、言葉の一つも出てこない……)


 沈黙が痛い。重い。先に視線の戦いに負けたのは竜斗だった。彼はうつむき、足元の小石やアスファルトの粗い表面を見つめた。この氷のような空気を壊すための言い訳を、論理的な欠片を、地面から探し出そうとするかのように。


 だが、何を?


「ねえ、三浦くん……」


 真琴の声が、静寂を切り裂いた。いつもの爆発するようなエネルギーはない。風に溶けてしまいそうなほど、柔らかく、静かな声だった。竜斗は虚ろな目を上げた。彼女はまだ街の灯りを見つめている。月の光が、彼女の横顔を淡く照らしていた。


「ここからの景色……三浦くんの家から見えるのと、よく似てるね」彼女の唇に、穏やかで、どこか悲しげな笑みが浮かんだ。


「ああ……」彼は街に視線を戻した。肩の荷が少し降りた気がした。「ほとんど同じだ……角度が違うだけで……」


「そういう見方も……あるね」彼女は呟き、その笑みは少しだけ軽く、あどけないものになった。


「そう考えると……あたしの家も、ここから見るとそんなに遠くないのかも」


 竜斗は左を向いた。闇の中を目で追い、隣の山の斜面にへばりつくように輝く光の集落を探した。森の漆黒に囲まれた、光の孤島。真琴も彼の視線を追い、同じ光を見つけたようだった。


「確かに」


 彼女の視線が下がり、その山と現在地を結ぶ見えない線をなぞった。森に飲み込まれそうな麓の家々、そして街の境界線となる薄暗い通り。「あたしの家も、そんなに遠くないよ」彼女は腕を伸ばし、人差し指で眼下の街のどこか一点を指した。


 竜斗は彼女が指差す先を目で追った。無理だ。遠くの光は滲んで混ざり合い、木々の梢が住宅街を隠している。黒い屋根は夜に溶け込んでしまっていた。彼女がどこを指しているのか、見当もつかない。


「……そうかもな」確信のないまま、会話を途切れさせないためだけに彼は答えた。


「もうあたしの家の場所、忘れちゃったの?ひどーい……」真琴が呟いた。わずかにこちらを向き、頬を膨らませてみせるが、いつものような勢いはない。


「いや……僕は……」彼はすぐに視線を逸らした。首筋が熱くなるのを感じる。声に力が入らない。「一度、車で行っただけだ……そんなすぐに道や場所を覚えるなんて、不可能だよ……ごめん」


「『ごめん』、か……」


「え?」


 竜斗は真琴を見た。だが、彼女はすでに、また街の灯りへと顔を戻していた。


 しかし、何かが変わった。ピタリ……それまで絶え間なく吹き付けていた風が、止んだ。丘の上の空気が凪ぎ、完全な静寂が世界を包み込んだ。


 外の世界の音が消滅したその真空の中で、新しい音が支配権を握った。鈍く、重く、そして狂おしいほど速いリズム。互いの肋骨を内側から叩く音。


 **ドクン。ドクン。**


 互いの生命が脈打つ音が、あまりに鮮明に二人の耳に届いていた。無気力な少年は、街の灯りを見ようとしなかった。彼の視線は囚人のように、隣に座る彼女の横顔に縛り付けられていた。


 遠くの光が、闇の中に真琴の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせる。その瞬間、再びあの現象が起きた。世界のボリュームがゼロになったのだ。風の音、遠くを走る車の走行音、電気の唸り……すべてが消失した。


 だが、今回は違った。その静寂は、いつもの彼を苦しめるホワイトノイズも、耳をつんざくような静電気の音も伴っていなかった。その空白を満たしていたのは、たった一つの、重く、一定のリズムを刻む音だけだった。


 **ドクン。ドクン。**


 彼自身の心臓が肋骨を叩く音。大きく、強く、否定しようのない音。


「秋山さん……」掠れた、低い声が彼の喉から漏れた。


 シンクロするように、彼女の声もまた、静寂を破った。


「三浦くん……」


 言葉が空中で衝突した。二人は動きを止め、口を半開きにしたまま、重い網のような気まずさに捕らえられた。


「先に言っ……」


「そっちか……」


 またしても、言葉が重なり、止まる。


 パニック!竜斗の脳内回路がショートした。


(何を話せばいい?何を言うべきなんだ?こんな経験、僕のデータベースにはない。僕の人生の脚本に、こんなページは存在しないんだ。僕は背景の一部、モブキャラBだぞ……そんなキャラクターに、こんなシチュエーションでのセリフなんて用意されているはずがない!)


 喉の奥で、緊張が固い結び目を作っていた。それは羞恥心ではない――羞恥とは内気さを意味するが、彼が感じているのは純粋な社会的スキル不足への恐怖、複雑な問題に対する正解を持たないことへの論理的なパニックだった。


 何か話題を。何でもいい。彼は必死に思考を巡らせ、分析的な脳が検知した最初の矛盾に飛びついた。


 彼は自分の膝に視線を落とした。


「なんでまた、苗字呼びに戻ったんだ?」彼は平静を装って尋ねたが、その声はわずかに震えていた。「ここ数日……名前で呼んでくれてたのに」


 パチクリ。真琴は完全に虚を突かれたように瞬きをした。告白か、叫びか、謝罪か。何か劇的な言葉を予想していた彼女にとって、それは予想外すぎる問いだった。


「え? あ……そ、それは……」


 カァァァッ……彼女の顔が急速に熱を帯びていく。彼女は慌てて顔を背け、この猛烈な赤面を夜の闇が隠してくれることに心底感謝した。


「た、武くんのせいだよ」彼女は言葉を詰まらせながら、早口でまくし立てた。「彼もいたし……苗字が同じだから……紛らわしくないように。それだけ!」


「なるほど」竜斗は簡潔に答えた。


(嘘つき!今あんたを名前で呼ぶなんて無理!絶対無理だから!)


 真琴の心の中で、パニックの叫びが木霊する。心臓が痛いほど激しく打っている。話題を変えなきゃ。自分が爆発してしまう前に、注意を逸らさなきゃ。


「ね、ねえ……」彼女の声が震えた。「あんた……気にならないの?」


「何が?」


「あたしが……誰を好きか、ってこと」


 ?竜斗は困惑して瞬きをした。


 その質問は、奇妙な角度から彼を直撃した。実のところ、あの必死の坂道ダッシュの間、その疑問は彼の思考の表層にすら浮かんでこなかったのだ。走るという衝動はあまりに本能的で、そこには恋愛的な好奇心も論理も介在する余地がなかった。


「正直……」彼は眉をひそめ、情報を処理しながら呟いた。「考えてなかった。今、言われるまでは」


(ここで「誰なのか」を聞くのが、戦術的に最善手だろうか?多分、普通の人間ならそうするだろう)


「誰なんだ?」


 問いは、あまりに直球だった。


 ピタッ。真琴がフリーズした。顔の赤みが、さらに一段階深まり、完熟したトマトのようになった。口を開くが、音が出ない。空気が足りない。


「す……す、すきな……ひ、と……わ……」


 彼女の声は尻すぼみになり、最後には聞き取れないほどの囁きとなって消えた。瞳の中のパニックメーターが振り切れる。無理だ。早すぎる。言えるわけがない。


「ていうか、なんであたしがここにいるって分かったのよ!?」


 キィィーン!甲高い叫び声。あまりに唐突で強引な話題転換に、竜斗は思わず上半身をのけぞらせた。


「僕は……」彼は呆気にとられながら、後頭部をポリポリと掻いた。「分からなかったよ。知る由もない」


「じゃあなんで来たのよ!?」


「……衝動だ」彼は認めた。声に出すと、自分がひどく間抜けに思えた。「ただ走ったんだ。君がどこにいるか、ここにいるかも分からなかった。ただ……来なきゃいけない気がして」


 真琴は彼をじっと見つめた。顔に張り付いていた苛立ちは溶け、迷子のような表情に変わっていく。彼女の緑色の瞳が彼の瞳の奥を覗き込み、嘘を探したが、そこにあったのはいつもの飾らない、疲れた正直さだけだった。


「僕は……」彼は声を落とし、街の灯りに視線を逃がした。顔が少し熱い。「君を一人にしておくべきじゃないと、思ったんだ」


 シーン……柔らかな沈黙が降りた。


 真琴が微笑んだ。小さく、悲しげだが、混じりけのない笑顔だった。彼女は再び膝を抱え、光り輝く地平線を見つめた。


「あたしが好きな人はね……」彼女は再び話し始めた。今度は落ち着いた声だった。「あたしなんかがいたら、その人に迷惑かけちゃうと思うんだ」


 竜斗は前を見たまま、眉を寄せた。「そんなことない」


「あるよ」彼女は自嘲気味に笑った。「その人……すごく変なの。いつも疲れた顔してて、世界中の重荷を背負ってるみたい。ほとんど誰とも話さないし。それに、自分のパーソナルスペースに入られるのを、死ぬほど嫌がるんだから」


 竜斗は、その見知らぬ誰かに、奇妙な連帯感を覚えた。


「まあ、スペースを侵略されて怒る気持ちは分かる」彼は真面目にコメントした。


 フフッ。真琴が吹き出した。「あんたならそう言うと思った」


 彼女は再び膝に顎を乗せた。


「でもね……あたしがただ顔がいいからって理由だけで近づかなかったのは、その人だけだった。その人だけが、そういうの抜きで見てくれたの」


 竜斗は横目で彼女を見た。彼女の声に含まれる憂鬱は、手で触れられるほどだった。


「あたしもまだ、その人のことよく分かんないんだけど」彼女は涙声で告白した。「もっと知りたい。理解したい。でも……あたしみたいにうるさい奴がいたら、その人が大事にしてる平穏を壊しちゃうだけだから」


「だから、そんなことない」


 竜斗の声は固く、彼自身が驚くほど断定的だった。


「秋山真琴は、面白い。楽しい」彼は事実を列挙した。まるで技術レポートを読み上げるように淡々と、しかし胸の奥は痛んでいた。「隠してるけど、頭もいい。それに、確かに少し図々しいけど……」


 彼は言葉を切り、唾を飲み込んだ。


「……僕は、それを嫌いじゃない」


 ハッ。 真琴の目が大きく見開かれた。一瞬、呼吸が止まる。


「彼女は、僕にとって迷惑じゃない」彼は訂正した。無意識に出た言葉のミスに気づいて声が上ずったが、無視して続けた。「僕は……今のままがいい」


 彼女の瞳の輝きが揺れた。視線がアスファルトに落ちる。


「今のまま、か……」その声は弱く、失望に染まっていた。


「僕は、君に隣にいてほしい」


 フィルターにかける前に、その言葉は口から飛び出していた。


 ガバッ!真琴が勢いよく彼の方を向いた。唇はショックで半開きになっている。


 竜斗は街を見つめたまま、今は彼女と目を合わせることができなかった。膝の上で拳を握りしめる。


「分からないんだ」彼は始めた。分析的な脳内で渦巻く混乱を、そのまま吐き出した。「本当に理解できない。三浦くんが君に向かっていくのを見た時……胸が痛かった。物理的に、ひどい感覚だった。二度と感じたくない痛みだった」


 彼は深く息を吸い込み、冷たい夜気を肺に満たした。


「でも、君が走って……あの部屋から出て行った時……その痛みはもっと酷かった。耐え難いくらいに」彼は苛立ち紛れに頭を振った。自身の論理的欠陥への苛立ちだ。「意味が分からない。君はこんなに混乱をもたらすし、うるさいし……なのに、どうして……どうして僕は、こんなにもはっきりと、君に行ってほしくないと思うんだ?」


 彼はついに、彼女を見た。


「本当に、分からないんだ……」


 ハァ……彼は敗北したようにため息をつき、左手で汗ばんだ髪をかき上げた。「どうやら、頭がおかしくなったみたいだ」彼は再び、街の灯りに視線を戻した。


 その時、彼は感じた。


 トン……右手への、微かで、温かく、ためらいがちな接触。


 彼女の小指が、彼の小指に触れた。


 誰も下を見なかった。二人とも眼下に広がる煌めく街を見つめ続けていたが、世界の全神経は、その極小の接触点に集中していた。


「あたしはあんたの隣からいなくならないよ、バーカ」真琴が囁いた。その声は、泣き笑いを含んでいた。


 スルスル……彼女の手がゆっくりと滑り、冷たいアスファルトの上にある彼の手を覆った。


「じゃあ……」彼が言いかけると、彼女の指が彼の指をギュッと握った。「僕は、この感情を理解しようと努力する……」


 竜斗は手の甲に彼女の掌の熱を感じた。ゆっくりと、彼は手を返し、掌を開いて彼女の手を受け入れた。指と指が、不器用に、しかししっかりと絡み合う。


「あたしが手伝ってあげる……」彼女が答えた。


 ギュッ。握る力が強まる。繋がれた二つの手が、孤独な丘の上で、二つの異なる世界を繋ぎ止める錨となった。


「頼むよ」


 そして二人はそこに座り、手を繋いだまま、夜の心地よい静寂に包まれて、街の灯りを見つめ続けた。

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