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君と会うまで、世界は無音だった  作者: わる
第1巻 - 僕が忘れたくない雑音
22/29

第22話「恋の雑音」第三部

(なぜ? なぜだ?)


 その問いが、空っぽの思考の壁に反響し、絶望的なループを描いていた。


(なぜ、胸がこんなにも締め付けられる?)


 それは物理的な痛みだった。鋭く、息が詰まるような圧迫感。まるで見えない手が肋骨を鷲掴みにし、肺から空気を無理やり絞り出そうとしているかのようだった。


(なぜ?)


(僕は……見たくないのか?)


 世界からBGMが消失していた。音が現実からデリートされたのだ。思考の流れさえもミュートされ、後に残ったのは剥き出しのパニックという生々しい感覚だけ。


 竜斗の手が、無意識の防御反射のように動いた。心臓の上のシャツをギュッと強く掴む。そこから広がる痛みを、物理的に抑え込もうとするかのように。


 武のリビングルームは、静止した舞台へと変貌していた。


 数秒前まで「計算された無関心」という仮面を被っていた夏川由美は、その落ち着きを完全に失っていた。彼女の目はゆっくりと見開かれ、驚きの痙攣(けいれん)でオレンジ色の髪が一房、ハラリと顔にかかる。強気な少女の装いは崩れ落ち、その下にある純粋なショックが露わになっていた。


 部屋の隅では、南千尋が崩壊寸前だった。悲鳴が喉に引っかかり、恐怖で押し殺されている。彼女の両手は顔を覆っていたが、病的な好奇心と恐怖が指をわずかに開かせ、その隙間から迫りくる惨劇を覗き見ていた。


 そして山本颯太……これまで動じなかった戦略家、心理ゲームの支配者にも、ついに亀裂が入っていた。その冷静な表情は砕け散り、純粋な信じられなさが顔を覆う。彼が仕組んだことではあったが、その実行を目の当たりにすることは、彼の冷徹な計算さえも超えていたようだ。


 竜斗にとって、遠近感は歪んでいた。


 目の前の光景は、双眼鏡を逆から覗いたように何キロも先にあるようで、同時に、顔に押し付けられるほど痛々しく近くにも感じられた。


 目が熱い。視線を逸らしたい。どこか暗く安全な場所へ逃げ込みたい。だが、サディスティックで絶対的な力が彼の焦点を固定し、その接近の1ミリメートル単位までもを目撃することを強制していた。


 そして、彼女の顔が見えた。


 秋山真琴は、過剰な力で(まぶた)を固く閉じていた。そこにファーストキスのロマンチックな予感など微塵もない。その表情は、避けられない折檻(せっかん)を待つ、母親の平手打ちを覚悟して縮こまる子供のそれだった。


 反対側から、武が迫る。ゆっくりと。冷酷なほど確実に。彼の顔が二人の間の空間を侵食し、彼女の安全圏を、苦痛に満ちたセンチメートル単位で食い荒らしていく。


 フカフカのラグの上で形成されたその小さな円の中で、三つの心臓が狂ったようなリズムで、胸を突き破らんばかりに脈打っていた。


 社会的圧力と混乱した欲望に突き動かされる武。恐怖と恥辱に縛り付けられた真琴。そして竜斗……彼自身が名付けることを拒絶する何かに囚われたまま。


 誰も同じことを感じていない。三つの不協和音が、完全なる静寂の中で衝突しているだけだった。


 その時、静寂が破られた。


 音が現れた。


 だが、それは竜斗が求めていた音ではなかった。単調な蝉の鳴き声でも、雨音でもない。彼の正気を繋ぎ止めるための、どのホワイトノイズでもなかった。


 それは、ノイズだった。


 甲高く。耳障りで。金属的な。


 キイイイイイイイイイイ――


 まるで古いテレビの砂嵐の音量を最大にして、頭蓋骨の中に埋め込んだかのようだった。電気的で静的な唸り声が、頭の内側を引っ掻き回し、歯と骨を振動させる。


 あのノイズ。眠れない夜に彼を苦しめる音。世界が静かになりすぎた時に、彼を襲う亡霊。


 それは、彼のトラウマの周波数そのものだった。


 ノイズが耳に侵入し、病院の無機質な冷たさ、空っぽの家の孤独、そして子供が背負うべきではない責任の重さを連れてくる。


 彼が人生をかけて逃げ続け、無気力とルーティンの裏に隠してきた音。今、震えて縮こまる真琴の姿を前に、その隠れ家は消滅していた。


 ノイズがすべてを飲み込む。


 距離はもうない。二人の唇が衝突するまで、あと数ミリ。


 視界の端で、竜斗は自分の拳が心臓の上の布地を握りしめる感触を感じた。指の関節が白くなるほど強く。理性を失った絶望の中で、肋骨の中から脈打つ臓器を引きずり出し、物理的に痛みを止めようとするかのように。


 武と真琴の間の空気は、人肌の熱で飽和して振動していた。湿って震える互いの呼吸が、残されたわずかな空間で混じり合う。


 圧倒的な物理的近さ。だが、その肉体的な親密さは、この瞬間に二人の間に口を開けた感情的な深淵(しんえん)とは、あまりに残酷な対比を描いていた。


(見たく……ない……)


 脳からの命令は明確だったが、体は反乱を起こしていた。竜斗は自分の瞼と戦い、闇を求めた。だが、磁石のような悪意ある力が目をこじ開けさせ、この惨事の目撃者となる運命を彼に宣告していた。


 最後の瞬間。行為が完遂されるコンマ一秒前。竜斗の勇気が尽きた。彼は視線をラグへと落とした。


「んむ?」


 くぐもった、困惑に満ちた呻き声が、目の前の少年の喉から漏れた。


 その異質な音に、竜斗は再び顔を上げた。そして目にした光景に、彼の目は限界まで見開かれた。


 武がゆっくりと瞼を開く。その瞳は混乱で曇っている。目の前には、まだ全力で目を閉じたまま、パニックに顔を歪める真琴がいた。


 武の唇にある感触は、確かに柔らかかった。だが、温度も質感も間違っている。それは口ではなかった。


 手のひらだった。


 最後の最後に、真琴は手を上げ、彼の唇と自分の唇の間に絶対的な物理障壁を作り出していた。彼女は武の口をしっかりと手で押さえ、軽く突き放していた。


 リビングの時間が凍りついた。


 由美と颯太は顔面蒼白で、血の気が引いていた。顎が外れんばかりに下がり、口を完璧な「O」の字に開け、言葉を失っている。


 部屋の隅で、南はもう内気さを装うことさえ諦めていた。指は大きく開かれ、両手で額を覆いながらも、その目は恐怖と魅惑がない交ぜになった光景を(むさぼ)るように見つめている。


 そして、世界が減圧された。


 フゥ……


 無気力な少年から、軽微な、ほとんど気づかれない吐息が漏れた。


 頭の中の金属的なノイズが、唐突に止んだ。その代わりに、現実世界のシンフォニーが戻り、祝福のように彼の耳を満たした。


 **ブゥゥゥン……**という冷蔵庫のモーターの単調な唸り。ヒューヒューと窓ガラスを叩く夜風の音。クラスメイトたちの喉で詰まるショックの音。


 すべてのありふれた雑音が戻り、竜斗を現実という安全圏に繋ぎ止めた。


「ごめん、武くん……」


 真琴が震える声で呟いた。彼女は視線を逸らし、彼の顔に浮かぶ失望を直視することができなかった。


「でも、あたし……ファーストキスは……好きな人としたいから……」


 その告白は、重く、決定的な事実として宙を漂った。


「あ……」


 武が絞り出せた音はそれだけだった。その瞬間、魂が口から抜け出ていくのが見えるようだった。


「わ、悪かったな……」


「い、いいよ!」


 武が後退し始めた。その動きは遅く、機械的で、バッテリー切れのロボットのようだ。ズルズルと、真琴もラグの上を這って下がり、礼儀が許す限りの最高速度で彼との物理的距離を広げた。


 その気まずい沈黙を、鋭い声が切り裂いた。


「好きな人って、誰よ?」


 由美だった。一音一音から毒が滴り落ちている。嫉妬と、傷つけられた庇護欲が混ざり合った苦い響き。


「あ! 今のは勢いで! その……!」


 真琴はほとんど叫ぶように言い、声がパニックで裏返った。彼女は両手を激しく振り回し、吐き出した言葉を掴んで口に戻そうとするかのように足掻く。絶望がその表情を支配していた。


「武くんを傷つけたんだよ、真琴ちゃん!」由美は容赦なく追及の手を緩めず、友人を追い詰める。「誰がそんなに幸運なのか、言えばいいじゃない?」


「も、もうやめた方がいいと……」南が消え入りそうな声で割って入ろうとし、小さく震える動きで否定のジェスチャーをしたが、その社会的火災を鎮火するには無力だった。


 武は、周りの議論など耳に入っていないようだった。


 その顔は完全なる敗北に染まっていた。彼はそこに座り込んだまま、廃墟と化した古代文明を眺めるかのような、虚ろで遠い目を虚空に向けている。隣で颯太が友人の肩に手を置いたが、公衆の面前での拒絶という深いトラウマから彼を引き戻すことはできなかった。


 ブゥゥゥン……


 冷蔵庫のモーターが唸っている。


 単調で、周期的なその音だけが、武のリビングルームの気まずい静寂を埋めていた。竜斗にとって、世界が脱線した中で、それだけが唯一の不変だった。


 彼はフカフカのラグの上で身じろぎし、顔をしかめた。足は痺れ、無数の見えない針で刺されるようにジンジンと抗議している。不自然な姿勢で何時間もいたせいで、背中の下部には鈍く不快な痛みが走っていた。


 だが、本当に厄介なのは胸だった。


 心臓はもう、先ほどのような狂ったリズムでは打っていない。減速し、ほぼ正常なペースに戻りつつある。だが、痛みは残っていた。アドレナリンと、もっと重く粘り気のある何かが残した、内なる打撲傷のような余韻。


 彼は深く息を吸い込んだ。芳香剤の人工的な香りと、安いスナック菓子の微かな匂いが混ざり合っている。家に帰りたい。森の静寂が欲しい。武の拒絶がまだ有毒な煙のように漂うこの重苦しい空気から、逃げ出したかった。


「誰が、好きだって?」


 真琴の声が、冷蔵庫の唸りを破った。弱々しく、追い詰められた声。


 竜斗は視線を低く保ち、ラグの幾何学模様に焦点を合わせ続けた。顔を上げたくなかった。見たくなかった。これ以上、関わりたくなかった。


「そうよ……言いなさいよ!」由美が執拗に迫る。その声はまだ毒を含み、獲物を逃がそうとしない。「武くんじゃないなら、誰? 別のクラス? それとも先輩?」


「あたしは……」


 真琴の沈黙は短かったが、重かった。


 そして、脳からのあらゆる命令に反して、竜斗は顔を上げた。


 それは反射だった。


 過ちだった。


 その瞬間、まるで残酷な重力に引かれるように、真琴の瞳が由美から逸れた。床でもなく、窓でもなく。


 真っ直ぐに、彼へと向かった。


 バチッ!


 それは痙攣のような一瞬の動きだったが、永遠に感じられた。


 彼女のエメラルドのような瞳が、彼の瞳と衝突した。そして、そのマイクロ秒の接続の中で、真琴の世界が崩壊した。


 彼女は見た。


 そこに座る竜斗を。いつものように無気力で、疲れていて、遠い彼を。だが、初めて、彼女はそれ以外のものを見た。わずかに上げられた眉に宿る信じられないという色。黒い瞳の中にある空虚。


 そして、パニックに陥った彼女の脳内で、それはたった一つの破壊的な言葉へと翻訳された。――『失望』。


 恐怖がクラスター爆弾のように胸の中で炸裂した。顔から血の気が引き、(ろう)のように白くなる。


(バレた。見られた。軽蔑された)


 恥辱は酸のように内臓を焼いた。部屋の空気が吸えない。有毒ガスに変わってしまったようだ。壁が迫り、天井が落ちてくる錯覚。彼の視線によって暴露され、拒絶された自分の感情の重みに押し潰される。


「あたし……」


 唇が震え、言葉を、言い訳を、嘘を、この裸の視線を隠すための何かを形成しようとした。だが声は喉で死に、恐怖に絞め殺された。


 思考よりも先に、体が動いた。原始的で圧倒的な逃走本能が主導権を握る。


「ご、ごめんなさいっ!」


 叫び声は絞り出され、手負いの獣のような響きを持っていた。


 ガバッ!


 彼女は稲妻のような速さで立ち上がり、(きびす)を返した。自分の足に躓きそうになりながら、床のリュックを無様にひったくり、走り出す。


「真琴ちゃん!?」由美が驚いて叫んだ。


 だが、彼女にはもう聞こえていなかった。


 ダダダダッ!


 フローリングを叩く足音が廊下に響く。玄関のドアが乱暴に開けられ、すぐに叩きつけられた。


 バンッ!!


 閉ざされた音が、外の世界との接続を断ち切った。走り去る足音が夜の闇に消え、リビングは気まずい沈黙の底に沈んだ。


 竜斗は動かなかった。目はまだ暗い木製のドアに固定されていたが、心にはまだ彼女の緑色の瞳が焼き付いていた。最後の一瞬。あの恐怖。彼は手を胸にやり、シャツの生地を強く握りしめた。


 それは単なる痛みではなかった。


 初めて、自分の沈黙が誰かを傷つけたという、圧倒的な確信だった。

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