第2話「聖域の侵略者」
森の湿った匂いをふわりと運んでくる夜風が、竜斗の顔を叩いた。日中、あれほど容赦なかった夏の太陽も、ここ松本を囲む山々では、夜になると肌を刺すような寒さをもたらす。高度と孤独を常に思い出させるかのように、頬は火照り、鼻の先がピリピリと痛んだ。
彼が登っていく坂道は、暗闇の中にぽつんと続く、急で寂しい道だった。片側には、得体の知れない囁きを放つ影の壁のように森がそびえ立ち、もう片側には、手入れの行き届いた庭が夜に飲み込まれ、しんと静まり返った大きな家が点在している。街灯はまばらで、門の前だけゆらゆらと揺れる光の水たまりを作り出し、道の大部分は深い闇にどっぷりと浸かっていた。
歩き疲れた足が重かった。彼はいつものように足を止め、振り返った。眼下には、遠い光の絨毯のように街が広がっている。山々の黒いシルエットの間に佇む、静かで穏やかな輝き。それはほとんど取るに足らない、ありふれた光景だった。だが彼にとって、これは一つの儀式だった。太陽が人工の光に降伏した頃、いつも立ち止まるひととき。遥か遠くから眺めるそれに、奇妙な安らぎと、どこか所属しているような感覚を覚えるのだった。
竜斗はリュックのストラップをぐっと握り直し、再び歩き出した。最後の坂は少し緩やかになり、道は木々の間に消える前になだらかになる。そしてそこ、森の入り口に、彼らの家はあった。中心部から遠く離れた、どこか場違いな古風な造りの家。この場所は、近くの駐在所で森林警備隊員として働く賢進の仕事の都合だった。
磨かれた石の低い塀、土に埋め込まれた不揃いな敷石の小道、そしてその奥に、木製の玄関ドア。家の中から明かりが漏れていた。(もう八時過ぎか…)と彼は思う。(咲はもうとっくに帰っているはずだ。)
「ただいま…」
その言葉は、玄関の虚空に囁くように、か細く響いた。
上がり框に腰を下ろして靴を脱ぐと、嗅ぎ慣れた匂いが鼻をくすぐった。カレーだ。紛れもない、試行錯誤の匂い。
「咲、料理の練習か?」
スリッパを履きながら、誰もいない廊下に問いかける。
右に曲がって台所へ向かうと、その光景が彼の推測を裏付けた。そこにいたのは、妹の咲。大きな黒い鍋の前にじっと立ち尽くしている。カレーの匂いがぷんぷんと濃く漂っていたが、竜斗の注意を引いたのは、彼女の凍りついたような表情だった。
「ち、違うからっ!」彼女は両腕をぶんぶんと振り回し、大げさに否定した。
「僕には、どう見てもその通りにしか見えないけどな…」彼は感情のこもらない声で返し、カウンターに買い物袋をどさっと置いた。
「家庭科の授業で!そう!そうなの!カレーを作って学校に持って行くの!」咲は声を震わせ、必死の無実を装って目をカッと見開いた。
「普通、カレーは授業中に作るんじゃないのか?」竜斗は冷静に反論した。
「特別授業なの!本当だってばー」
グゥゥゥゥ。
彼女の胃から響いた盛大な裏切りの音が、台所の静寂を破り、その嘘を真っ二つに断ち切った。
彼は彼女を横目で見る。咲は一瞬彼をギロリと睨みつけた後、捕まったのがよほど悔しいのか、ぷいっと顔をそむけた。
「チッ!!!」
「やっぱりな…」と彼は呟いた。
「兄さんが遅いのが悪いんだから!もっと早く帰ってくればいいのに!」
「…ごめん」
その言葉は、呼吸と同じくらい自然な防御メカニズムとして、ただ反射的に口から出た。家に入ってから、彼の表情は一切変わっていない。目も顔も、相変わらず空っぽで、生気がないままだった。
竜斗は鍋に近づき、きれいなスプーンを取ってルーを一口味見した。
「…別に、そんなに悪くない」彼は言った。「あとは僕がやるから、もういいよ」
「むぅ…」彼女はまだ不満そうに頬をぷくーっと膨らませ、唸った。
「袋にポッキー、入ってるぞ」
「やったぁ!」
猫が鳥に飛びかかるように、咲は竜斗がカウンターに置いた袋に飛びついた。彼女の小さな手は、約束されたお宝を探して、犬が穴を掘るような勢いでビニール袋の中をガサゴソとかき回した。
彼は一瞬、後ろを振り返って彼女を見た。彼女の頭上では、壁掛け時計が八時半近くを指している。(そろそろ賢進も帰ってくる頃か…これを仕上げてしまわないと)竜斗は心の中で思った。
「咲、風呂はもう入ったのか?」
「うん!」彼女は口をもぐもぐさせながら、チョコレートをほとんど噛まずに飲み込んで答えた。
「おい…全部食べるなよ。夕飯が食えなくなるぞ…」
「食べるもん!」彼女はそう言い返すと、お菓子の箱をぎゅっと掴み、居間へとタタタッと走っていった。台所には、鍋がグツグツと静かに煮える音だけを残して。
◇ ◇ ◇
台所の時間は、竜斗の動きに支配され、まるで独自のペースで進んでいるかのようだった。彼の動きは、いつもの無気力さとは著しく対照的な、熟練の域に達するほどの効率の良さだった。ヤカンのお湯はぐつぐつと沸騰し、研がれた米の上に注がれるのを待っている。野菜はトントンと小気味良いリズムを刻み、ためらうことなくまな板の上を滑る包丁によって切られていく。咲が作りかけたルーをかき混ぜていると、スプーンが不揃いで雑に切られた豚肉の塊をすくい上げた。
その夜、初めて竜斗の無感動の仮面に、目に見える反応が走った。彼の下唇が、ほとんど知覚できないほどぴくりと痙攣した。
竜斗は肉の塊を掬い上げ、余分なルーを拭う。フォークで肉を押さえ、彼は再びそれを切り始めた。今や豚肉の切り身は細く、正確で、均一だった。たとえ一度無礼を働かれた豚肉であっても、せめて立派な最期を与えてやることができる、とでも言うように。
米が炊きあがり、主な具材が煮える頃、彼は冷蔵庫を開けた。かがんで野菜室を引き出す。居間からは妹の笑い声が聞こえ、安らかな気持ちがすっと胸に広がった。彼は自分が酷使されているとも、利用されているとも感じていなかった。それは日常であり、彼の責任ではあるが、重荷ではなかった。心の底では、もし必要なら、咲も彼女なりに助けてくれるだろうと分かっていた。
冷蔵庫から野菜の袋を取り出しながら、彼は居間に目をやった。遠くに見える咲のシルエットは、テレビの光に釘付けになっている。彼はネギ、パセリ、そしてピーマンをタタタタッとリズミカルに刻み始めた。現行犯で捕まるのを恐れるように、彼はもう一度ちらりと見た。彼女がソファの上で向きを変え、彼の視界から消えた瞬間、竜斗は動いた。とんでもない速さで、彼は刻んだ野菜をざっと煮えたぎる鍋に流し込んだ。
人参、じゃがいも、大根。咲はこれらに文句は言わない。だが、彼女が「苦い野菜」と呼ぶ他の野菜は、彼女の天敵だった。だからこそ、竜斗はいつもそれらを密かに彼女の食事に混ぜ込むために、ほとんど目に見えないほど細かく刻むのだった。
だが、任務はまだ終わっていない。今、彼は自身の犯行の証拠を綺麗さっぱりと隠滅する必要があった。彼はさっとまな板と包丁を洗い、彼の小さな捜査官がそれらを目にする前に、残りの野菜を冷蔵庫にしまった。
玄関のドアが開く音がして、彼はびくっと肩を揺らした。
「うわー、すげぇいい匂いだな!!!」
賢進の男性的でよく響く声が家中にこだました。
「お父ちゃん!」咲が叫び、彼女の足音がだだだっと木の床を鳴らして、居間から玄関へと向かう軌跡を物語っていた。
「おかえり…」竜斗もまた、布巾で手を拭きながら玄関へ向かった。
「ただいま!おっと!」賢進は靴を脱ぐ間もなく、娘からの固くて力強い抱擁に迎えられた。咲が彼を離すと、彼は竜斗に目を向けた。賢進の視線が、じっと少年に注がれる。彼はまるで犯罪現場で決定的な証拠を分析する探偵のように、少し首を傾げながら身を乗り出した。「竜斗、今日何かあったか?」
その突然の問いに、竜斗はどきりとした。賢進がこのように単刀直入な質問をすることは滅多にない。そして今回は、まるで竜斗の空っぽの仮面を見透かすかのように、彼の口調はよりオープンで、好奇心に満ちていた。正直なところ、それは不思議なことではなかった。
「別に…今日、学校で何人かと話しただけだから…」少年は賢進の視線を受け止めながら答えた。いつものように、彼の表情は空虚だったが、その佇まいには何か変化があった。
「そうか!」賢進はにっと笑い、その大きな手を少年の頭の上に置くと、わしゃわしゃと力強く髪をかき混ぜた。竜斗は不快感を示さず、文句も言わず、身を引くこともしなかった。ただ、その仕草を受けながら、じっと立っていた。「今日はなんだか嬉しそうだな!」賢進は、大きく暖かい笑顔を顔に浮かべたまま言った。
(不思議じゃない…結局のところ)その考えが竜斗の心に浮かんだ。静かな確信だった。(あの人は、僕の父親、なんだから)
◇ ◇ ◇
「んんーっ!うめぇ!」賢進の声が台所に響き渡り、夕食への満足感をこれでもかと示していた。「福実の飯を思い出すなぁ!」彼は竜斗の方向にスプーンを向けながら叫んだ。
「まあ…料理を教えてくれたのは、母さんだから…」竜斗は小声で答えた。一瞬、若く、笑顔の母親が、彼の小さな手を導いて米を研いでいた光景が、彼の胸をじんわりと温めた。
賢進は、穏やかで心から安堵した笑みを浮かべた。
「ねえ、お父ちゃん…」咲の声が、平和なひとときを断ち切った。「お母ちゃんはいつ帰ってくるの?」その問いは、ただ純粋に母親を恋しがる幼い少女からの、無邪気なものだった。
しかし、竜斗にとっては、その言葉は石のようにずしりと落ちてきた。彼のスプーンが陶器の皿に当たって**カチャン!**という甲高い音が静寂を破った。一瞬、温もりを宿していた彼の視線は再び空っぽになり、もはや見えなくなった食べ物に固定された。それは、彼が毎日鍵をかけておこうと努力している記憶への扉だった。
「先生方は、もうすぐ良くなるって言ってたぞ、お嬢ちゃん」賢進は、娘に対して決して笑顔を崩さず、優しく穏やかな声で答えた。咲はただこくりと頷き、食事に戻った。だが賢進は知っていた。彼はこの話題が、特に竜斗に与える重圧を空気で感じていた。
彼は少年に目をやり、その視線が普段よりもさらに空虚になっていくのを見た。(学校で誰かと話した、と彼は言った…)賢進の思考が頭の中で響く。(あの子はほとんど誰とも話さない。これは彼が本当の友達を作るチャンスなんだ!今、彼を落ち込ませるわけにはいかない)彼は皿の上にスプーンを置き、ふぅっと深呼吸をし、少年を元気づけるための言葉を整理した。「竜斗…」彼が話し始めたが、遮られた。
「賢進」
竜斗の声が同時に響き、年上の男を驚かせた。「え?」と賢進が反射的に漏らしたのが全てだった。竜斗はテーブルの上に腕を置いており、その前腕にはほとんど目に見えないほどの震えが走っていた。向かい側では、咲がルーの中に巧みに隠されたピーマンとネギのかけらにも気づかず、豚肉を食べていた。
竜斗の目が賢進の目をとらえた。そしてその中には、いつもとは違う熱があった。炎が。「お願いします、僕も一緒に働かせてください!」
竜斗の声は固く、そこにいる誰もが今まで聞いたことのない決意に満ちていた。普段は物静かで無気力な少年が、今や威圧的でさえあり、その存在感は、咲の手からスプーンが滑り落ちて**カシャン!**と音を立てて皿に落ちるほどの、突然の力で場を満たした。彼女は父親と同じくらい、信じられないという顔で彼を見ていた。
「え? なんでまた、急にそんなことを?」賢進は、顔に混乱を浮かべて尋ねた。
竜斗はその理由を言うことができなかった。彼女の前では。「…お金を貯めたいんだ。それだけ…」
「あぁ…そうか…」賢進は視線をそらし、再び自分の食事に手を動かし始めた。
台所の空気はずっしりと重くなった。三人は耳をつんざくような沈黙の中で食事をし、空気は羞恥と口に出されない言葉で満たされていた。「うちでは働けない」賢進はついに口を開き、緊張を破った。「森林警備隊はアルバイトを雇わないんだ」
「僕は、学校を辞めー」
「山の麓のあの店があるだろ!?」賢進は少年の言葉を遮り、ほとんど叫んだ。彼は再び竜斗にスプーンを向け、唇には怯えたような笑みを浮かべ、その目には明らかな絶望が映っていた。「それに、竜斗が働き始めたら、咲のご飯がなくなっちまうだろ!なあ!?ワハハ!」
「ちょっと、私一人で何とかなるもん!」咲は、侮辱されたように言い返した。
「もう行ったよ。雇ってくれない。それに街の店は時給が安い」竜斗は、その落ち着き払った返答で賢進のパニックを武装解除した。
「なんでそんなにお金が欲しいんだ、竜斗?」賢進はついに、真剣な声で尋ねた。
「僕は…」言葉が出てこなかった。テーブルにいる二人の男は、その理由を知っていた。だが、それを言うことはできなかったし、言いたくもなかった。ここでは、今この場では。咲の前では。
賢進が一日中働いているのは、選択ではなく、必要に迫られてのことだった。少年たちの母、三浦福実は、何年も入院していた。彼女は自己免疫疾患であるループス腎炎を患っており、高額でほぼ毎日の治療を必要としていた。それは、経済的にも精神的にも、二人の肩に重くのしかかる闘いだった。
賢進は病院の費用を支払うために身を粉にして働いていた。そして竜斗は、家の責任を負うために、自らの青春を放棄せざるを得なかった。死に物狂いで働く賢進を見て、竜斗はいつもそれが不公平だと感じていた。彼もまた、自分なりの方法で助けたいと思っていた。治療費の支払いを手伝いたい、と。なぜなら彼は、誰よりも、母がいつかあの病院から帰ってくると、信じていたからだ。
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教室の開いた窓から入ってくる朝の空気は、ひんやりとしていた。山の冷たい夜の名残で、昼過ぎには約束された熱気にすぐに一掃されてしまうだろう。竜斗が学校の廊下を歩いていると、他の生徒たちの話し声や笑い声がざわざわと彼の周りを流れていく。しかし、彼にとってそれは全てが背景のノイズ、彼が無視することに慣れてしまった、意味を持たない雑音に過ぎなかった。
彼は自分の席、中央後方の壁際に近い席に座った。いつものように、腕を組んで机に突っ伏し、世界から自らを隔離するその仕草で、クラスメイトたちを眺めた。彼の視線はもう一人の三浦、サッカー部の人気者の少年に注がれた。彼は友人たちに囲まれ、昨夜咲が見ていたのと同じアクションアニメの最新話について、身振り手振りを交えて熱心に語っている。妹の興奮した様子を思い出し、竜斗の唇にふっと、ほとんど気づかれないような微かな笑みが浮かんだ。
「…馬鹿みたい」
「誰が?」
「え?」竜斗はびくっとして顔を上げた。腕の中から顔を出すと、そこには秋山真琴が彼の机の横に立ち、上から彼を見下ろしていた。彼女の大きくて表情豊かな瞳は、純粋な好奇心を示していた。
「誰が、何だって?」竜斗は、声に困惑を滲ませながら尋ねた。
「誰が馬鹿ですって?」秋山は、ほとんど芝居がかった焦れた仕草で腰にぱんっと手を当てて繰り返した。
「いや、別に…僕の独り言だから」彼はそう言って話を打ち切ろうと、再び腕の中に頭を戻した。
「あたしのことかと思った」と彼女が言った。椅子を引くガタッという音がして、彼は再び顔を上げた。彼女は彼の前の席に、こちら向きに座り、彼の社会的な逃げ道を完全に塞いでしまった。
「なんで秋山さ—」彼の言葉は、あまりにも近くにある彼女の瞳を見つけて途切れた。彼女は椅子の背もたれに腕を乗せ、その上に顎を置き、竜斗の空っぽの顔をじっと見つめている。
二人の間の距離は、吐息がかかるほど近かったが、一瞬、誰も何も話さなかった。彼は身を引かず、彼女の突然の出現に対する最初の小さな驚き以外、何の反応も示さなかった。
「誰が馬鹿なの、三浦くん?」彼女はじっと見つめながら言った。
「誰も…」彼は単調な声で答えた。
彼女の目がすっと細められ、その答えを疑っているようだった。一方、竜斗は、昨日みたいに彼女がからかい始めるのを待つかのように、完全な退屈の表情を浮かべた。
「あたしのことかと思った…」彼女は一瞬視線をそらし、再び彼をまっすぐに見つめた。
「またそれか。なんで秋山さんなんだよ?」彼の瞳はまだ退屈さを物語っていた。
「だって、ここの偉大なヒーローさんは、」彼女は楽しそうな声色で始めた。「か弱い乙女たちを救うために、こっそりと暗躍しなくちゃいけなかったんだから」
初めて、秋山は竜斗の本当の表情を見た。それは──恐怖。彼はばっと顔を上げたせいで、視界がぐにゃりと歪み、一瞬、彼の周りのすべてがぼやけて形を失ったように見えた。
「やっぱり!あんただったんだ!」彼女は勝利を確信した、優しくて可愛らしい笑みを浮かべて叫んだ。秋山はぱんっと手を合わせ、自分の恩人を見つけ出したことに対する、低くて誇らしげな笑いが彼女の唇から漏れた。
「僕は、ただやれることをやっただけで…大したことじゃない」彼は、いつもの自分を守るための無気力な状態に戻ろうと努めながら、説明しようとした。
「ねえ、三浦くん。放課後、あたしの友達と一緒に出かけない?」彼女は机のスペースに侵入し、テーブルに腕を、その手に顔を乗せ、さらにぐいっと彼に近づいた。
「ごめん。放課後はやることがあるから」彼は、彼女が自分のスペースに侵入した瞬間に思わずするりと身を引いた。二人の顔の間に安全な距離を保ちながら。
「ふーん…」彼女は机から腕を離し、今度は顎に手を当てて考え込んでいる。「ねえ、三浦くん。あんた、何をするのが好きなの?」
(なんでこの人はこんなに僕に構うんだ?…秋山さんはしつこいな…)
「あたしはただ、友達にお礼がしたいだけ!」
(友達? 僕たちが? ほとんど話したこともないのに…。まあ、彼女みたいなタイプにとっては、少し話しただけでもう友達なのかもしれないな…)
「ええと、僕は…」竜斗が答え始めたが、彼の視野の片隅にある何かが注意を引いた。男子生徒たち。教室の他の男子生徒たちの視線が、ぐさぐさと針のように突き刺さる。
(なんでよりによって僕みたいな冴えない奴が、クラスで一番可愛い子と話してるんだ?)
(正直…あいつらがどう思おうと知ったことじゃないけど…十代の男子なんて猿みたいなもんだ。面倒なことになるのは間違いない…)
「どうしたの、三浦くん?」秋山は、彼の態度の急変に戸惑い、首を傾げた。彼の視線は、普段よりもさらにだるそうなものに変わっていた。
「…なんでもない」
「はい、全員席に着け」先生の声がドアの方から響き、授業の開始を告げた。
竜斗はほっと胸をなで下ろした。(とりあえずは、ゴングに救われた形か)彼は思った。(どうせ後で、あいつらに絡まれるんだろうけど…)