第19章「ボトルの軋み」第三部
音が、消滅した。
気まずく、重苦しい沈黙がリビングを満たす。まるで空気が凝固してしまったかのようだ。ラグの上に転がるペットボトルの飲み口は、ピタリと動きを止め、無感動な少年の胸元を無慈悲に指し示していた。
全員の視線が彼に突き刺さる。真琴の大きく見開かれた目には驚愕が、南の縮こまった姿勢には隠しきれないパニックがあった。対照的に、武と颯太の二人からは、ビリビリとした期待の電流が走っている。
(ああ、そうかい。僕が注目の的ってわけだ。まったく、悪夢のような状況だな)
だが、その緊張感の中で、異質な視線が一つあった。夏川由美。オレンジ色の髪の少女は、驚きも焦りも見せていない。彼女の唇がゆっくりと吊り上がり、満足と悪意を混ぜ合わせたような笑みを形作る。
「三浦くん……」
ゾクッ……
由美がその名を呼んだ瞬間、背筋に冷たいものが走った。甘ったるく、それでいて毒を含んだその声色は、まるで蛇のようだ。
竜斗の胃袋がグルンと不快に裏返る。頭の中で、武と颯太の薄汚い計画の歯車がギシギシと回り、最悪のシナリオを映し出していた。あいつらが何を求めているのか、想像するだけで虫唾が走る。ましてや、この少女の慈悲にすがるなど。
(どうせくだらないことを要求される。僕の尊厳に関わるようなことを)
彼はコンマ一秒だけ思考した。正直、プライドや世間体といった抽象的な概念はどうでもいい。そんなものはただの重荷だ。
(だが、他人の娯楽のためにタダで恥をかく義理はない。僕にだって限度はある)
「真実か、挑戦か?」
彼女は問いかけた。その一音一音に、致死量の毒を塗りたくって。
竜斗の思考回路がチリチリと焼き切れるほどの速度で回転する。冷徹に、論理的に、最小のダメージで済むルートを探して。
(『真実』を選べば、彼女に白紙委任状を渡すようなものだ。くだらない質問か、プライバシーの侵害か。それに、僕は嘘をつくと耳に手が行く癖がある……すぐに見抜かれる)
逃げ場のない視線が部屋を彷徨い、武の目と衝突した。彼はワクワクと膝の上で拳を握りしめ、勝利の笑みを必死に噛み殺している。計画通りに進んでいると信じて疑わない、純粋な喜びの表情。
竜斗は重い息を吐き出した。プライバシーの侵害か、身体的リスクか。選択は苦渋だが、明白だった。
「……挑戦で」
諦念の混じった囁きが漏れた。
反応は劇的だった。武と颯太が座ったまま飛び上がり、勝利の視線を交わす。顔を覆っていた南が、指の隙間から恐る恐る眼鏡越しに覗き込む。真琴は信じられないものを見るように、ただパチクリと瞬きをした。
(手加減してくれよ……夏川さんに、ほんの少しでも慈悲があるなら……たぶん)
「それじゃあ、三浦くん……」
ツーーッ……
冷や汗が首筋を伝い、背中へと冷たい軌跡を描く。胃袋がキュッと結ばれたように痛む。数時間も硬い床に座り続けたせいで、足は痺れ、尻からは鋭い痛みが信号を送っていた。
(尻が痛い。帰りたい。なんでこんなこと受け入れたんだ?)
不快感は脈打っていたが、由美の声は筋肉痛よりも遥かに恐ろしい何かを予感させた。
「……あんたは……」
彼女は劇的な「溜め」を作った。室内の緊張が限界点に達する。空気がビリビリと震え、未知への恐怖が膨れ上がる。武と颯太の視線は鋭い刃のように彼女に突き刺さり、竜斗へのトドメの一撃を今か今かと待っている。拳は白くなるほど握りしめられ、ワナワナと震えていた。
竜斗は息を止めた。心臓がドクンドクンと肋骨を叩く。まるで脱獄を試みる囚人のように。
由美は小首を傾げ、瞳をキラリと輝かせ、ついに宣告を下した。
「……あたしにサンドイッチを作んなさい。あんたの家で食べたやつと同じのをね」
シーン……
絶対的な沈黙が訪れた。
「え?」
間抜けな音が、全員の喉から見事な不協和音となって漏れた。
武と颯太の顎が外れんばかりに落ちた。あの淫靡な期待も、性的な緊張も、女子を追い詰める壮大な計画も……すべてが霧散し、あまりに日常的すぎる要求の前に消え失せた。南は眼鏡の奥でパチパチと瞬きし、真琴は口を半開きにして首を傾げた。
だが、竜斗にとって、それは救済のファンファーレだった。
胃の中の固い結び目が、瞬時にほどけていく。窒息しそうだった不安が蒸発し、ただ呆気にとられた空白だけが残る。彼の瞳はいつもの虚ろさを取り戻したが、その奥底で、驚きの火花がチカッと瞬いた。
反応がないことに、由美が態度を一変させる。
「聞こえなかったの?」
彼女は声を張り上げ、防御的な憤慨を見せた。腕を組み、プイッと顔を背け、まるで召使の動きが鈍いことに腹を立てるお嬢様のように鼻を鳴らす。
「お腹空いたのよ、いいでしょ? それに、あれはまあまあ悪くなかったし。それだけ!」
「あ、ああ……」
竜斗は膝に手をつき、ヨイショと体を持ち上げた。精神的な解放感と共に、物理的な解放感が押し寄せる。長時間折り畳まれていた足に血流が戻り、ジーンと激しく痺れた。
背中を伸ばすと、ボキボキッと骨が鳴る。彼は石像のように固まった家主を見やった。
「三浦くん、キッチン借りていいか?」
武はパチパチとゆっくり瞬きをした。深いトランス状態から覚めたのか、あるいは未知の言語を理解しようとしているのか。完璧な作戦が、由美の食欲ごときに敗北したのだ。
「あ……ああ……いいけど……」武の声は空っぽで、顔からは表情が抜け落ちていた。稀代の策士の魂が口から抜け出ているようだ。
「好きに使ってくれ……」
竜斗は緊張の円陣に背を向け、まるで水を飲みに行くかのような気軽さでキッチンへと歩き出した。「死の挑戦」が「軽食の注文」によって解除された事実を、完全に無視して。
由美はラグの上に座ったまま、腕を組み、ふんぞり返って女王のように饗宴を待っている。残りのメンバーはまだポカンとしたまま、肩透かしを食らった余韻の中にいた。
キッチンカウンターの向こうから、竜斗の抑揚のない声が響く。
「夏川さん、クリームチーズがない。構わないか?」
その問いかけには、切迫感のかけらもない。
「好きにすれば……フン!」
由美はツンッと横を向き、ワガママなお嬢様役を貫いた。
「おい、マジかよ……」
武が肺から空気をすべて吐き出し、ソファに沈み込んだ。その声には鉛のように重い失望が滲んでいる。ロマンチックなハプニングや恥じらいの演出をするはずが、料理教室に成り下がってしまったのだ。
「竜斗くん、待って!」
突然、真琴が跳ね起きた。先ほどまでの疲労困憊が嘘のように、電気的な衝動が彼女を突き動かす。その急な動きに、他のメンバーがビクッと身をすくめる。
「わ、私、レシピが知りたい!」彼女が叫ぶ。その瞳の輝きは単なる好奇心を超え、飢えに近かった。
「ただのハムとチーズのパンだろ? 何が違うんだよ?」颯太が頭をポリポリと掻きながら、心底不思議そうに言った。
「でも、クリームチーズって言ったぞ!」武が食い気味にカットインする。憤慨は消え、真剣な分析モードに入っていた。彼は立ち上がり、空中で何かを掴むように手を動かす。「それに……あいつの家で食ったあのサンドイッチ……あれは東京の高いパン屋で売ってるやつみたいだった! オーラが違ったんだよ!」
ゴクリ……
最後には、全員が顔を見合わせた。無言の理解が走る。好奇心――そして食欲――が、他のあらゆる本能を凌駕した。
ドタドタドタッ!
統率された群れのように、全員がキッチンへと殺到した。
無気力な少年が気づいた時には、彼のパーソナルスペースは完全に侵害されていた。キッチンカウンターの向こうに五人がギュウギュウと身を乗り出し、まるで爆弾処理か心臓外科手術でも見守るかのように、彼の手元を凝視している。
ハァ……
竜斗はため息をついたが、手は止めなかった。
サクッ……サクッ……
まな板の上で、バゲットが外科手術のような精密さで切り分けられ、完全な対称性を持つ二つの半片が生まれた。
カチッ、ボッ!
ガスの青い炎が灯る。
熱したフライパンにバターが触れ、甘美な音を奏で始める。乳製品が溶ける濃厚な香りがふわりと舞い上がり、武の腹が**グゥ〜**と盛大に鳴った。
竜斗はオートマチックに動いた。バターの海にパンを浸し、黄金色に焼き上げる。その横のスペースにハムを並べる。
チリチリ……パチパチ……
肉が焼ける音が、調理のシンフォニーに加わる。
無駄のない動きは、芸術の域に達していた。彼はサッとトーストされたパンを取り出す。表面はカリッと輝く黄金色。熱々の内側に、追いバターをひと塗り。新鮮なレタスをフワッと乗せ、透き通るほど薄くスライスされたトマトを重ねる。そして最後に、湯気を立てる焼きたてのハムを。
彼はフライ返しを持ったまま動きを止め、肩越しに振り返った。そこには催眠術にかかったような観客たちがいた。
「とろけるチーズ、いるか?」
「あ、いや。なくていい……」
由美が夢遊病者のように答えた。彼女の目は、サンドイッチの構築過程に釘付けだった。この無口な少年の意外な手際良さに、完全に心を奪われていた。
数分後。
竜斗の手が、由美の前に陶器の皿を滑らせた。湯気を上げるサンドイッチ。黄金色のパン、鮮やかな緑のレタス、赤いトマトのコントラスト。
由美の瞳がキッチンの照明を反射して輝く。口の中に唾液がジュワッと溢れ出した。視覚と嗅覚への暴力的なまでの刺激。
彼女は両手でサンドイッチを包み込んだ。パンは熱く、指先に伝わる感触は硬質で頼もしい。目を閉じ、口へと運ぶ。
ガブッ!
ザクッ!!
バターで揚げ焼きにされたパンが砕ける、小気味良い音。
フワッ……シャキッ……ジュワッ……
熱々のパンの柔らかさ、トマトとレタスの瑞々しさが脂っこさを切り裂き、最後に焼いたハムの塩気と旨味が舌を直撃する。
脳内でドーパミンが爆発した。味蕾が歓喜の声を上げる。
「なにこれ……めっちゃ美味しいんだけど!!!」
彼女の叫びは本物だった。難しい少女の仮面は、圧倒的な味の暴力の前に粉砕された。
「どうも……」
竜斗はボソッと呟き、すでに背を向けていた。シンクに向かい、汚れたフライパンを洗い始める。
「由美ちゃん、一口ちょーだい!」
真琴の声が、美食の陶酔を切り裂いた。彼女はテーブルに身を乗り出し、獲物を狙う猛獣のように手を伸ばす。
「やだ! あたしの!」
由美は驚異的な反応速度で椅子を回転させ、体でサンドイッチをガードした。
「ケチ! 一口くらいいいじゃん!」
「自分の番になったら作ってもらいなさいよ! これはあたしの『挑戦』なんだから!」
「お、お願いだから二人とも! 三浦くんを専属シェフにしないでぇ!!」
南がオロオロと手を振り回し、震える声でカオスを鎮めようとする。
テーブルで食糧戦争が勃発している間、シンクの方でも無言の戦いが始まっていた。
ヌゥッ……
竜斗は、両サイドから迫りくる二つの気配を感じた。見るまでもない。執着のオーラが肌に突き刺さる。
「竜斗……」
右から、武の低く切迫した声。
「……レシピ……今すぐ教えろ……」
左から、颯太の声。
洗い物をしながら横目で見る。二人の友人の目は、新しい獲物を見つけた捕食者のようにギラギラと輝いていた。そこにはもう、色恋も戦略もない。あるのは原始的な飢えと、隠された力への畏敬の念だけだ。
ハァァ……
竜斗は深くため息をついた。スポンジから泡が流れていくように、平穏な夜への希望も排水溝へと消えていく。
「……わかったよ」




