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第18章「ボトルの軋み」第二部

 ランプの薄明りが、輪の中心にあるペットボトルをかろうじて照らし、毛足の長いラグにくっきりと歪んだ影を落としていた。竜斗は喉の渇きを感じ、その空気の重さが胃をキリキリと締め付けた。


(ごめん…)


 思考が浮かんだ。静かな謝罪。他の誰でもない、自分自身への。


(ごめん!)彼はギュッと目を固く閉じた。顎の筋肉が強張る。(でも、困難な選択には、強い決意が必要なんだ!)


 閉じた瞼の裏の暗闇が、揺らぐ。鮮やかな色の閃光。ウマ娘のフィギュアのイメージが、彼の心に再び浮かび上がった。疾走する姿、ひるがえるスカート、その明るくエネルギッシュな笑顔が、まるで彼の葛藤を嘲笑(あざわら)っているかのようだ。


「「はちみー!!」」


 彼女の声が、快活で、ありえないほどの活力に満ちた声が、彼の記憶に響き渡った。それはオタクの(とき)の声であり、この絶望的な社会的状況において、彼の唯一の、そして哀れな勇気の柱となっていた。


「あたしが最初!」


 武が説明を終える前に、由美の甲高い声が遮った。彼女は前のめりになり、オレンジ色の鮮やかな髪が肩に流れ落ちる。その手はすでにボトルに伸びていた。


「おっ!由美ちゃん!!」真琴が、その突然の行動に驚きの声を上げた。


 由美の目には、捕食者のような決意が燃えていた。これは絶好の機会。三浦武を追い詰めるために仕組まれたシナリオ。このチャンスを無駄にはしない。


 彼女の指がプラスチックに触れると、竜斗の意識は再び過去へと飛んだ。ザー…と部屋の雑音が遠のき、数時間前の、あの陰謀の記憶が鮮明に蘇る。



「それで?作戦は?」颯太の穏やかな声が、数時間前のキッチンに響いた。「女子があんなゲームに参加したがるとは思えない。南さんは言うまでもない。あの子はシャイすぎる。それに、俺たちの下心にも気づくに決まってる」彼は現実的に首筋を掻いた。


 武は、自信過剰とも言える低い笑い声を漏らした。「心配するな、我が友よ、颯太くん」


「いつから貴族になったんだ…?」颯太が疲れたように言った。


「すべて計画通りだ!」武の目がギラリと燃え、満面の笑みがその顔に張り付いていた。



 由美がボトルを回した。


 カサカサ、とプラスチックが毛足の長いラグを擦る音だけが、部屋に響く。重い緊張が、まるで毛布のように彼らを覆い、酸素を奪っていく。竜斗はゴクリと唾を飲んだ。その音が、この息苦しい静寂の中で反響した気がした。


 ボトルがクルクルと回り…武を通り過ぎ…真琴を通り過ぎ…南を通り過ぎ…


(誰に…)


(止まるんだ?)


 ボトルは速度を落とし、ゆっくりと揺れ、そして止まった。先端は、颯太の方向を真っ直ぐに指していた。


 緊張した笑み、ほとんど引きつったような表情が、山本颯太の顔に浮かんだ。彼はいつもの冷静な仮面を保とうとしたが、一筋の冷や汗がこめかみからツーッと流れた。


「それじゃ、山本。真実?それとも挑戦?」由美の声は、蜜と毒そのものだった。その挑発的なトーンに、颯太は目に見えてビクッと震えた。


 彼は再びゴクリと喉を鳴らし、喉仏(のどぼとけ)が不規則に上下する。彼の声は少し震え、いつもより一オクターブ高かった。「ちょ、挑戦で」


「えええー…」由美はそう声を伸ばし、危険ないたずらっぽい笑みを浮かべた。


 まだ座ったまま、彼女は膝を曲げて足を上げ、颯太の目の前に突き出した。彼女は真っ白な短い靴下を履いていた。「あたしの足にキスして」


 その視線は、まるでサディスティックな女王様のようだ。自らの力に酔いしれ、下僕(げぼく)倒錯(とうさく)的な命令を下している。


 真琴と武の口が、ポカーンと完璧な「O」の形に開いた。真琴は友達の大胆さにショックを受け、武は明らかに嫉妬(しっと)でギリギリと拳を握りしめている。


 南は「ひゃっ!」と小さな悲鳴を上げ、両手で目を覆った。だが、指はわずかに開かれ、眼鏡の下からチラッと覗いている。彼女の肌は()でダコよりも赤く、熱を発しているかのようだ。


 竜斗はただ、信じられないという顔で眺めていた。その疲れた、意志のない目が光景を記録し、さらに冷や汗が額に(にじ)む。(ホッ…僕じゃなくて、本当によかった…)その思考が、彼の唯一の、必死の安堵(あんど)だった。


「りょ、了解…」颯太が呟いた。決意したのか、あるいは運命に身を任せたのか、彼はラグの上をノソノソと這っていった。


 由美の突き出された足の前で止まる。彼はまるで精密機械でも扱うかのように、繊細な手つきで彼女の足首を両手で掴んだ。ゆっくりと、顔を下げていく。彼の唇はプルプルと震え、キスに備えてすぼめられた。顔全体が燃えるように赤くなり、汗が今は川のように自由に流れている。武と真琴は、(まばた)きもせず、固唾(かたず)を飲んで見守っていた。


 あと、数ミリ。颯太の鼻先が、彼女の靴下に触れようとしていた。


「プッ…」


 その音が由美から漏れた。彼女は耐えられなかった。突然足を引っ込めると、ラグの上に倒れ込み、ブハッとヒステリックな笑いを爆発させた。


 南は「はぁー」と深い安堵のため息をつき、目に見えて肩の力が抜けた。真琴と武は瞬きをし、まだ状況を処理しきれず、床でゲラゲラと笑い転げる由美を見ている。


 竜斗は、地獄のような疲労を感じた。どっと、肩と背中に重い倦怠感(けんたいかん)がのしかかる。ただこの光景を目撃するだけで、彼は消耗していた。


 そして颯太は、円の中心で固まったまま、両手を空中に突き出し、存在しない足を掴んだままだった。


「あ…ありえない、本気でやるつもりだったの!!」由美が笑いの合間に叫び、涙が目の端に浮かんでいた。


「俺は、男だ…」颯太が、低く、真剣な声で呟いた。まだラグに膝をついたままだ。


 由美は笑うのをやめ、急に困惑した。真琴は、まだ口を開けたまま彼を見ている。


「男として!」颯太は宣言し、バッと立ち上がった。拳を演劇的に突き上げる。「どんな挑戦でも受けて立つ!」


 数秒前に粉々にされた威厳を、必死に取り戻そうとしていた。


「そうだ、颯太!」武が彼を支持して叫んだ。その目は、彼がそこまで近づけたことへの(ねた)みでまだ燃えていたが。


 真琴と由美は、ただ、疲れ切った顔を見合わせた。


「「男子って…」」


 二人のため息が、完璧に重なった。


 武の部屋の空気は、少し軽くなったようだった。由美の棄権に続いた気まずさと笑いのおかげで、最初の緊張はほぐれていた。颯太は、まだ失われた威厳を取り戻そうとしながら、ラグに座り直した。


 竜斗は、ソファにもたれかかり、社会的カオスの中で静かな島のまま、ただ眺めていた。(始まって早々、もう帰りたい…)


「はいはい」武が、まだ笑いをこらえながら言った。「颯太、今度はお前の番だ」


 颯太の手がボトルに触れた瞬間、竜斗の思考は再び過去へと飛んだ。武が課題を終えた直後、あの馬鹿げたアイデアを提案した、まさにその瞬間に。



「ゲーム?」真琴が尋ねた。その声には明らかな疲労が(にじ)んでいた。「あー、やだ…疲れた。もう帰りたいんだけど」


「えー、なにそれ、真琴ちゃん!」由美が抗議し、すっかり元気を取り戻した様子で友達の腕をブンブンと振った。「楽しいって!ちょっとだけ!」


 突然の友人の変貌(へんぼう)に裏切られたような顔で、真琴は必死に他の静かな二人に視線を送った。


 南は、その視線の重みを感じてキュッと身を縮こませた。「わ、わたしは…」彼女は(ささや)いた。ほとんど聞こえないようなか細い声で。「大丈夫、です…」


 真琴は竜斗を見た。


 彼はただ肩をすくめただけだった。その顔は、無関心の仮面。


「僕は、どっちでもいい」


「あーもう…」真琴は、敗北してため息をついた。彼女はドサリとラグの上に座り直す。「わかったわよ…ちょっとだけだからね」



 竜斗の意識が、記憶から現在へと戻る。


 颯太が、まだ膝をつき、傷ついた誇りを抱えたままボトルを掴んだ。「よし、今度は俺の番だ」そう呟き、グンッとプラスチックを回した。


 ボトルがラグの上でクルクルと回転し、ゆっくりと速度を落とし…由美を指して止まった。


「ハッ!」武が床を叩いて笑った。「呪い返しだ!颯太の復讐(ふくしゅう)だ!」


 由美はただジロリと目を動かし、オレンジ色の髪を後ろに掻き上げた。「どうぞ。どうせあんたに、たいしたことできっこないし」


「真実か挑戦か、夏川さん?」颯太が尋ねた。いつもの穏やかな笑顔に、この瞬間を味わうような意地悪さが混じっている。


「真実」彼女は即答した。明らかに、自分が彼に突きつけた運命を避けている。


「ふぅむ」颯太は、深く考え込むフリをして(あご)を掻いた。「真実……あなたは…人前で盛大にコケて、何でもないフリをしたことがある?」


「はぁ?何よその馬鹿げた質問!」由美はカッと顔を赤らめてフンッと息を吐いた。「あるわけないでしょ!あたし、超運動神経いいんだから!」


「どうだか」真琴がクスクスと小さく笑った。


「どーでもいいでしょ!」由美はチッと舌打ちし、()れたようにボトルを引ったくった。


 由美がボトルを手にするのを、竜斗はぼんやりと見ていた。(彼女が「カモ」か)例の計画の記憶が、鮮明に蘇る。



「由美は俺に気があるんだ」数時間前、武が例の自信満々な笑みで言った。「それを、俺たちの有利になるように使う」


「どういうことだ?」颯太が尋ねた。


「お前は『下心(したごころ)がバレる』って言ったけど、それでいいんだよ!」武が興奮して身振り手振りで説明する。「由美がゲームに乗り気になれば、秋山さんはやらざるを得なくなる!そしたら南さんも、場の空気で受け入れるしかなくなるだろ!」


「天才か!」颯太が叫んだ。


(その作戦、穴だらけだと思うけど)竜斗は、その場でそう思った。(口には出さないけど…)



 現在、由美がボトルを回した。プラスチックがラグの上を滑り、真琴を指して止まった。


「真実か挑戦か、真琴ちゃん?」由美が意地悪く尋ねる。


「真実」真琴も即答し、安全な道を選んだ。


「えー…武くんのこと…カワイイって、思う?」


 真琴は顔をしかめた。「友達だし。次。」


「それ答えになってない!」


「はい、あたしの番!」真琴は(さえぎ)り、ボトルを掴んで回した。押し出されたボトルは滑り、止まり…武を指した。


 武の視線が、一瞬だけ颯太と交錯(こうさく)する。無言の合図。


「真実?挑戦?三浦くん」真琴が尋ねた。


「挑戦だ!」彼は、あまりにも即座に答えた。


 真琴は一瞬考え、いたずらっぽい笑みを浮かべた。「オッケー…じゃあ…『世界が五分後に終わることを伝えるニュースキャスター』のモノマネして」


 由美と颯太がゲラゲラと笑い出した。武は、その馬鹿げた挑戦に一瞬キョトンとしたが、コホンと咳払(せきばら)いをした。彼はピシッと背筋を伸ばし、死ぬほど真剣な表情を作って言った。「こんばんは。たった今、情報筋から、巨大な隕石(いんせき)が…地球に、非常に、非常に、接近しているとの情報が入りました!現在の松本の天気はパニック、ところにより絶望的(ぜつぼうてき)な悲鳴が降るでしょう…」


 そのモノマネがあまりに馬鹿馬鹿しく、南でさえ手の陰で「ふふっ」と小さな笑い声を漏らした。


 竜斗は、無表情でその光景を見ていた。(これが、あいつの言ってた「馬鹿げたゲーム」…計画の第一歩か)



「で?どうやって秋山さんと寝るんだよ?」颯太が、オープンキッチンのカウンターチェアに座って尋ねていた。


「最初は馬鹿げたゲームで盛り上げて、だんだんハードにしていくんだよ」武が説明した。「それで、俺たちの誰かに当たったら、いい感じに…キスするよう挑戦させる!」


「でも、それでどうやって秋山さんと寝るんだよ?キスだけだろ…」


「馬鹿野郎!」武が颯太の後頭部をパシンと叩いた。「キスは第一歩だ!そこからエスカレートさせていくんだよ!それに、親父の日本酒もあるしな!」


「ゲームはやるけど」竜斗の声が会話を(さえぎ)った。「酒はなしだ」


 二人が彼を睨みつけた。だが武は、竜斗の(うつ)ろな顔にある真剣さを見て、フィギュアの約束を反故(ほご)にされることを恐れ、即座に折れた。「わ、わかった…酒はなしだ…」


「お前、カタブツすぎだろ、竜斗…」颯太がコメントした。


「そしたら」颯太は武に向き直った。「もしお前が回して俺に当たったら、俺と夏川さんか、南さんを…」


「任せとけ!」武が、ウインク付きのサムズアップで答えた。


「でも、竜斗はどうするんだ?」


「だよな…」武が考え込む。「南さんはあいつと話すし…由美は、ないか…」


「頼むから…僕を巻き込むな…」竜斗は呟いた。胃がキリキリと痛む。


「もし俺に当たったら」颯太が、自信に満ちた笑みを浮かべて言った。「俺がお前と秋山さんをキスさせてやるよ、竜斗!」


「おい、なんでだよ!!」武が抗議した。


「あいつも、竜斗と結構仲良いだろ!」


「遠慮しとく…頼むから…」



 ゲームは続いた。武が回して南に(真実:「好きな色は?」「あ、青、です…」)、彼女が回して颯太に(挑戦:「手を使わずにスナック菓子を食べる」)、彼が回して由美に(挑戦:「一分間、赤ちゃんの言葉で話す」)。


 ボトルはクルクル、クルクルと回り、馬鹿げた気まずさのロシアンルーレットが続く。しかし、ボトルの口は、まるで磁石が反発するように竜斗を避けていた。彼は部屋の隅で、静かな目撃者であり続けた。彼に当たらない安堵(あんど)とは裏腹に、回を重ねるごとに彼の居心地の悪さは増していった。結局、いつかは自分を指すのだから。


「はい、またあたしの番!」由美が手をこすり合わせ、興奮が最高潮に達した様子で宣言した。


 彼女はボトルを掴み、ビュンッ!と力任せに回した。


 プラスチックがラグの上を高速で回転する。その甲高(かんだか)い音が、竜斗の耳を突き刺した。単調なリズムで打っていた彼の心臓が、不意にドクンと跳ねた。


 ボトルが回る…回る…


 颯太を通り過ぎる。


 真琴を通り過ぎる。


 カタカタと揺れ始め、黒いボトルの口が震えながら速度を落としていく。


 武を通り過ぎる。


 竜斗は、ゴクリと息を飲んだ。


 ボトルは最後にもう一度揺れ、そして――止まった。


 その口は、疑いようもなく、彼を指していた。


 シーン…


 絶対的な沈黙が、部屋に落ちた。すべての視線が、それまで背景の一部でしかなかった少年に、グサリと突き刺さる。


 竜斗の胃が、ヒュッと落ちた。

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