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第17章「ボトルの軋み」第一部

 オープンキッチンの冷蔵庫から、ブーンという低いモーター音が絶え間なく響いていた。外では風がヒューヒューと窓ガラスを叩いている。森の鬱蒼(うっそう)としたざわめきとは違う、クリーンな音だ。遠くで蟋蟀(こおろぎ)がリンリンと鳴いている。太陽はとうに沈み、松本の静かな郊外に夜が訪れていた。


 ここ、三浦武(たける)のリビングルームでも。


 夏川由美と秋山真琴のヒソヒソとした会話が、低い雑音となっている。無理やり緊張を埋めようとする試みだ。反対側では、武と山本颯太が、まるで共謀者のようにニヤニヤと視線を交わしている。竜斗の近くでは、南千尋の息苦しそうな呼吸音が聞こえた。彼女は膝を胸に抱え、キュッと縮こまり、必死に気配を消そうとしている。


 そして、そのすべてを突き刺すように、竜斗自身が唾を飲み込む音。ゴクリ、と。喉が鳴る音が、やけに部屋に響いた気がした。


(もう、学校の課題じゃない) 思考が頭をよぎる。(馬鹿なことをしようとしている、ただの高校生の集まりだ。そして僕は…巻き込まれている)


 武が空のペットボトルを彼らの真ん中に置いた。


「映画なら、こういうのはビール瓶なんだろうけど、生憎(あいにく)ウチにはそんなもんないんで…」武が、自信に満ちた歪んだ笑みを浮かべて言った。


 由美がクスクスと笑い、前のめりになる。隣の真琴は、ヘニャリと疲れた笑みを浮かべるだけだった。彼女の瞳には、竜斗が感じているのと同じ疲労が浮かんでいる。


「さて…」山本颯太が口火を切った。彼は床に座り、腕を後ろについて体を支えている。「誰から始める?」そのいつもの穏やかな笑顔には、いたずらっぽい光が宿っていた。


「俺は――」武の声が空気を満たし始めた。だが、その音は竜斗の耳には届かなかった。彼の精神はプツリと途切れる。ザー…と部屋の雑音が遠のき、数時間前の、鮮明で痛々しい記憶に取って代わられた。


◇ ◇ ◇


「いやだ。絶対にやらない」


 竜斗の声は、普段よりずっと固かった。


 颯太は隣で、純粋に驚いて首筋を掻いた。「うお。竜斗がそんな風に言うの、初めて見たな…」


「なんだよ、竜斗!?!?」武がほとんど(うめ)くように言った。いつもの自信は消え、子供じみた焦燥(しょうそう)が浮かんでいる。「頼むよ、なぁ!!」


「そういうのは、僕の趣味じゃない」竜斗は、感情のない声で繰り返した。


「でも、よく考えろよ、竜斗」颯太が肘で竜斗をツンツンと突いた。あのいたずらっぽい笑みが戻っている。「女子が三人来る…そして俺たちは三人…この家に…二人きり…」彼は肩をすくめ、その意味を宙に漂わせた。


「しかも、この家にはちょうど三部屋ある!」武が、まるで天才戦略家のように付け加えた。「すべて計算済みだ!」


 竜斗はただ彼を睨みつけた。その(うつ)ろで意志のない瞳には、苛立(いらだ)ちが浮かんでいた。彼はゴクリと唾を飲み、首筋に冷や汗が流れ始めるのを感じた。「悪いけど、僕はそういうことしないから…」


 彼は二人を通り過ぎ、リビングのドアに向かった。「じゃあ」


 二歩も進まないうちに、颯太が背後から彼をガシッと掴み、腕を胸に押さえつけた。


「おい!離せ!」竜斗は叫んだ。甲高(かんだか)く、張り詰めた声が静かな部屋に響く。


「お前が叫ぶの、初めて聞いた…」颯太の声は、竜斗の耳元で穏やかに響いた。竜斗はジタバタしたが、簡単に抑え込まれている。


 武が彼の前に回り込み、懇願(こんがん)するように両手を合わせた。「竜斗!!なんだよ、おい?なんで今さら騎士(ナイト)ぶるんだよ?」


 竜斗は抵抗をやめ、視線を床に落とした。「別に、『騎士』ぶってるわけじゃ…」


 二人は困惑して彼を見た。


「ただ、そういうのは、くだらなくて馬鹿げてると思うだけで…」


 竜斗はグッと身をよじり、颯太の拘束(こうそく)から逃れた。彼は一歩前に出たが、立ち止まって肩越しに振り返った。「お前らがやろうとやるまいと、どうでもいい…ただ、僕は関わらない」彼は再びドアに向き直り、歩き始めた。「じゃあ」


「ウマオンナ…」


 颯太の声は低く、ただ空気に放たれた。


 竜斗の体がピタッと凍りついた。


 武は、さらに困惑した顔で彼を見た。竜斗はゆっくりと振り返った。自分の心臓の音がドクドクと耳を打ち始めた。感覚だけじゃない。血管を流れる血の音そのものが、彼の聴覚に届いている。


「お前があのゲームやってるの、知ってるぜ…」颯太がゆっくりと彼に向かって歩き始めた。武の困惑した表情が、恐怖に変わっていく。竜斗の目も。「街中のあの店で、お前を見たことがある…ウマ娘のフィギュアを…もの欲しそうにジーッと見つめてたのをな…」


「お前、そんな趣味あったのかよ、竜斗!」武がショックを受けたように叫んだ。


「いや、僕は…」竜斗は説明しようとしたが、言葉が出てこない。冷や汗がダラダラとTシャツを濡らす。顎がガクガクと震え始めた。彼の視線はあちこちに泳ぎ、今は固く、不気味なほど真剣な颯太の顔に焦点を合わせることができない。


 颯太の重い手が、竜斗の肩に置かれた。その不気味な視線が、彼の目を深く射抜く。「やりたくないことを無理強いするつもりはない…だが、もしお前が俺たちとゲームに参加するなら」


 颯太の声には決意が満ちていた。その目に燃える炎が、竜斗を焼き尽くすかのようだ。そして、まるで彼の言葉によって召喚されたかのように、竜斗の脳裏にイメージが浮かんだ。


 あのフィギュア。


 流れるような栗毛のロングヘア。前髪の真ん中から生えた、一本の白いメッシュ。頭の上の小さなウマ耳と、揺れる尻尾。鮮やかな青と白のショートジャケット、金色のディテールが施されたレイヤードスカート、エレガントなブーツという勝負服。疾走する姿。


 彼が何か月も欲しがっていたそのフィギュアが、颯太の背後にフワリと浮かんでいる。


「約束する。あれを、お前にやる、竜斗!!」


「何が何だか全然わかんねーけど、俺も乗ったぜ、颯太!!!」武が、謎の計画を支持して叫んだ。


 竜斗はブルブルと震えていた。彼は必死に、滅多に表に出さないオタクとしての自分を抑え込もうとした。


 別に、バレても構わない。だが…だが、しかし…


 彼は固く目を閉じた。


「……わかった…」


 その直後に上がった勝利の雄叫びは、耳をつんざくようだった。


「よっしゃあああ!!」


「ハイタッチだ!!」

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