Instrumental
音楽室から流れ出るピアノの音色に、伊藤克仁は廊下を歩く足を止めた。
静かでいて切なく、何処か温か味のある曲調だ。
空いたままの引き戸から、何気なく中を覗き見る。目に飛び込んできたのは、ピアノを弾く男子生徒の後姿だった。
窓辺から夕陽が差し込み、曲に茜色の彩りを添える。
克仁の目頭が熱くなった。視界が滲んで歪み、気付いた時は止めどなく涙を流していた。
無意識に鼻を啜る。
男子生徒が驚いた顔で、こちらを振り返っていた。ピアノを弾く手を止め、椅子からすっと立ち上がる。
男子生徒は何処か清冽な空気を纏っていた。
端整な造形の顔だ。黒髪のやや長めな髪形、凛とした涼しげな目許、黒の瞳、すっと通った鼻梁、形のいい唇。標準を越す身長は、姿勢正しくすらりとしている。
引き戸の前で佇む克仁に、男子生徒が歩み寄ってきた。学ランのズボンのポケットから、きちんとアイロン掛けされたハンカチを取り出す。
彼は無言でハンカチを克仁に差し出した。
思いも寄らない男子生徒の行動に、克仁は驚き戸惑いを見せる。自分に対して、男子生徒が普通に接してくるからだ。
克仁は誰もが恐れをなす、校内一の不良生徒である。
顔の造形は標準そのものだが、黄色に近い金に脱色した髪、人を威嚇するように吊り上がったやや太めの眉と目許、鋭い眼光を帯びた赤茶の瞳が印象的だ。男子生徒と五センチほどしか差のない身長と体格をしている。
しかし、誰もが恐れをなすのは、彼の外見からではない。校内と校外から出回る数々の噂からだった。極悪非道・残酷非道・歩く殺人鬼・狂犬など、上げれば限がない悪名ばかりだ。噂に対して、克仁は否定も肯定もせず野放しにしていた。
暫く待っていても反応のない克仁に、男子生徒が彼の片手を持ってハンカチを手渡す。
「わ、悪ぃ……」
視線をハンカチに落として、克仁がぶっきらぼうに礼を告げた。
男子生徒が首を左右に振る。視線を落としたままでも、克仁は彼の雰囲気で何となく察した。
ハンカチで涙を拭い、克仁が顔を上げる。
「これ、洗って返すから。学年とクラス、名前を教えてくれねぇか?」
克仁の申し出に、男子生徒が頷いた。だが、口を開くことはない。ピアノの隣にある黒板に立って、すらすらと文字を書き始める。
白いチョークを持つ長い指が、『一年A組音羽奏太郎』と綴った。
克仁は首を傾げる。
(何で喋らねぇんだ?)
男子生徒・奏太郎は、克仁の疑問を察したようだ。黒板に『口が利けない』と解答を書き出した。
「そっか」と、克仁があっさりと頷く。
「俺は、一年D組伊藤克仁」
口が利けない奏太郎を気にした風もなく、自分の名前を名乗った。
今度は奏太郎が驚き戸惑いを見せる。克仁をまじまじと眺めた。
「何だよ? 俺があの伊藤克仁だと知ってビクついていんのか」
克仁が皮肉げに唇の片端を吊り上げる。相手を挑発するような笑みだ。しかし、何処か寂しげなものが漂っている。
奏太郎は首を振って否定した。黒板消しで文字を消し、新たに文字を書き始める。
『君は同情の目で俺を見ていない。だから、驚いた』
「ふーん。……俺は他人に同情を掛けるような、暇も余裕もないんでね」
克仁が正直に答えれば、奏太郎が頷く。
再び、奏太郎が黒板にチョークを滑らせた。
『君は何故、泣いていた?』
奏太郎の質問に、克仁が躊躇いを見せる。
暫くの逡巡の末、拗ねたような顔でそっぽを向いた。
「お前の曲だよ」
奏太郎が目を丸くする。
克仁はそっぽを向いたままで、言葉を継ぐ。
「男が泣くのは格好悪ぃけど。お前の曲を聴いて、気付いたら泣いてたんだよ」
ぶっきらぼうだが、克仁にとってそれが正直なところの感想だ。
ちらりと奏太郎を見やれば、彼は目を細めてこちらをじっと見ていた。目が合えば、綺麗な笑みをみせる。
愛想笑い、諂い、嘲笑いはあるものの、克仁はあまり他人から純粋な笑顔を向けられたことがない。その為に、彼は思い切り頬を赤く染め上げた。
「俺、もう行く。ハンカチは今度持ってくから!」
気恥ずかしさからか、克仁は早口に告げると、音楽室の前から走り去ってゆく。
入学式から六ヶ月――秋が深まる頃合いに、二人の少年は何気ない出会いをした。
それから一ヶ月の日数が経つ。
克仁は、奏太郎にハンカチを返せないでいた。
奏太郎を恐れたからだ。ほんの一時の接触でも、克仁にとって彼は未知の存在となった。
人は慣れないものを目の前にすると、自我を失い混乱することがある。克仁は正にそれだった。
「はあ……」と深い溜息が吐き出される。
今日も、学校での一日が過ぎてしまった。
返せずじまいのハンカチをブレザーのポケットに入れたままで、ズボンのポケットに手を突っ込み川沿いの土手を歩いてゆく。歩く後姿は、どう見てもチンピラ風だ。
唐突に、克仁は背後から肩を叩かれた。振り返れば、鈍い音と共に顔面に強い衝撃を受ける。
よろける身体をどうにか踏み止まらせ、克仁は距離を空ける為にその場を飛び退いた。
口内部分が切れ、流れ出る血を唾と一緒に吐き捨てる。
「不意打ちとは、卑怯じゃねぇか」
冷笑を浮かべ、鋭い眼光で相手を睨み据えた。
学ラン姿の高校生が六人、剣呑な目で克仁を睨み返している。
克仁が相手より先に動いた。自分を殴ってきた近くの男に、強烈な飛び蹴りを喰らわす。男はまともに受け、身体をよろめかせ地面へ仰向けに転がった。男の顔を、克仁が止めとばかりに踏みつける。
「ほら、テメェらも掛かってきな」
不敵な笑いを張りつかせ、克仁は残りの男たちを挑発した。
それが、乱闘への引き金となった。
残りの男たちが、一斉に克仁へ飛び掛かる。克仁は器用に男たちを避けながら反撃してゆく。「多勢に無勢」の言葉を物ともしない強さだ。しかし、途中で光り物を出されれば話は別になる。
「!」
鋭利な折り畳みナイフが、克仁の脇を掠めた。ナイフに気を取られ、避ける間もなく背後から羽交い絞めにされる。
身動きの取れなくなった克仁に、男たちはやりたい放題だ。殴る蹴るの暴行を繰り返す。
克仁が暴行を受けながら反撃の機会を窺っていると、こちらに駆け寄る足音が近づいてきた。
視線を向ければ、足音の主は奏太朗だった。
克仁が驚きで目を見開く。
(何やってんだ、あいつ。まさか、俺を助けようとしてんじゃねぇだろうな?)
心の中で危惧すれば、案の定だった。
奏太郎は通り過ぎることなく、男たちの前で立ち止まる。
男たちが、奏太郎を睨みつけた。
「何だ、てめぇ。邪魔しようってのか?」
何を言われたところで、口の利けない奏太郎が答えるはずもない。男たちに怯えた様子もなく、無言で頷くだけだ。
男たちが下品な笑い声を上げた。
「そんななよっちい面して、俺たちとやり合おうってのかよ。馬鹿な奴。こいつを助けたって、何もいいことないのによ」
(全くだぜ!)
そう思いつつ、克仁は背後で拘束している男の隙を突いて、顔面に後頭部を強く打ちつける。すると、男は激痛に呻きながら、克仁から手を離した。すかさず振り返り、顔面に痛烈な拳を叩き込む。男は鼻と口から血を流しながら、背中から地面に仰向けで倒れた。
「この野郎!」と叫んで、周りの男たちが克仁に殴り掛かる。
怪我の所為で、克仁は男たちの攻撃を容易く避けることが出来ない。しかし、相打ちになりながら、返すものはきちんと返していた。
一人蚊帳の外であった、奏太郎がふいに動き出す。素早い動きで男たちの合間を縫って、克仁の背後へ横から身を飛び込ませた。
「うっ!」と、男の声が聞こえる。
克仁がちらりと背後を振り返れば、ナイフを持った男の手首を奏太郎が掴んでいた。刃の矛先は、克仁の背中に向けられている。寸でのところで、奏太郎が食い止めてくれたようだ。
奏太郎が掴んだ手首に力を込め、男の腕を捻りながらゆっくりと上げさせる。痛みに呻き耐え切れず、男はナイフを地面に落とした。すかさず奏太郎は、男たちの手の届かない場所へナイフを蹴る。
一同は唖然とした。
奏太郎の端整な顔から窺える、優男の印象が見事に覆されたのだ。
動きの止まった彼らを尻目に、奏太郎は男から手を離して克仁の手を取った。
「あ? おい、何だよ」
戸惑いを見せる克仁をそのままにし、その場を一気に駆け去る。
「待ちやがれ!」と追い駆けてくる男たちを振り切り、奏太郎は克仁を引っ張り何処までも走り続けた。
住宅街にある一軒家の前で、奏太郎が急に立ち止まる。止まり切れなかった克仁は、彼より数歩ほど前へ進んだ。
奏太郎を振り返り、克仁は握られた手を見下ろした。
「……手、いい加減離してくれねぇか」
奏太郎が一つ頷く。しかし手を離す気配はなく、逆に克仁の手を引っ張り一軒家の敷地内に入って行った。
どうやら、ここは奏太郎の家のようだ。石造りの表札に、音羽の文字が彫られている。
玄関の中へ入れば、克仁は漸く解放された。
「お帰り、奏太郎」
手を離された途端に、縁なしの眼鏡を掛けた温厚そうな男が、玄関隣の部屋から顔を覗かせる。
奏太郎が、微笑みながら頷く。
男が奏太郎に微笑み返し、克仁に視線を移した。
「君は奏太郎の友達かな。しかし、随分と怪我をしているようだね」
克仁を心配な面持ちで眺め、男は部屋の奥へ引っ込んだ。そして数分も経たない内に、救急箱を持って部屋から姿を現す。
黒いエプロン姿の男を、克仁はまじまじと見詰めた。
男が不思議そうな顔をする。
「どうしたのかな。傷が痛むのかい?」
そう訊かれて、克仁は首を横に振った。
「そうかい。奏太郎、早く彼を手当てして上げなさい。僕は、夕食の準備で手が離せないから」
男が奏太郎に救急箱を手渡し、部屋の中へ戻って行く。
奏太郎が玄関を上がり、克仁を振り返って手招きをした。
克仁が首を横に振る。
二人は、一ヶ月前に一度会っただけで、決して親しい間柄ではない。
「俺、帰るわ。……それとハンカチ、遅くなっちまったけど返す」
克仁はブレザーのポケットからハンカチを取り出して、奏太郎の前に差し出した。
奏太郎がハンカチへ手を伸ばす。だが、ハンカチだけを取らずに、克仁の手ごとを取って緩く首を横に振った。
「…………」
玄関を上がらなければ、この手を離さない。そんな雰囲気が読み取れて、克仁は渋々と玄関を上がった。そのまま手を引かれ、目の前の階段を上がる。
克仁が通された部屋は、奏太郎の自室のようだ。整然としていて、何処か殺風景なように思えた。
奏太郎が克仁から手を離して、折り畳み式の小さなテーブルをフローリングの床に置く。その上に救急箱を置き、扉の前で佇んでいる克人を手招いて床に座らせた。
克仁の怪我の手当てが黙々と始められる。
奏太郎のなすがままになりながら、克仁は彼の端整な顔を不思議そうに眺めた。
「なあ。二回しか会ったことないのに、何で俺に優しくすんの?」
克仁の言葉に、奏太郎が手当ての手を止める。そして顔を上げ、不思議そうに克仁を見返した。
奏太郎は口が利けないのだから、当然のように返答はない。それを判っていて、克仁はさらに言葉を続けた。
「お前って、自己満足の偽善者? それとも善人ぶって他人を利用する奴? お前が見返りを求めたって、俺は何も返さないぜ」
克仁のやや攻撃めいた物言いに、奏太郎が悲しそうに首を横に振る。まるで、『そういうことじゃない』と言っているようだ。
また言葉を続けようと口を開きかけた克仁に、奏太郎が自分の唇に人差し指を押し当てた。『黙って』と促している。
克仁は唇を一文字に引き結び、奏太郎から視線を外しながら押し黙った。それを見て、奏太郎も彼の患部に視線を移し、手当てを再開する。
二人の間に、沈黙が降り立った。
騒がしいのが好きと言う訳ではないが、克仁は何処か居心地の悪さを感じる。こうやって他人から手当てを受けたり、優しくされたりすることに慣れていないからだろう。
克仁は何をするにしても、いつだってひとりだった。
家族は居るが、両親は共に二つ上の出来た兄ばかりを構い、出来損ないの克仁に冷たく当たるだけで見向きもしない。
それが友情と呼べるのかは曖昧だが、一緒につるむ人間も居る。だが、克仁に諂うばかりで、いざ他のグループと乱闘になり、危なくなれば友人を置いて一目散に逃げる奴ばかりだった。
何の見返りを求めず、他人に優しくする人間は居ない。だから、それに慣れてしまった克仁は、奏太郎の存在に居心地の悪さを感じたのだ。
克仁の手当てが終わったのか、室内に救急箱を閉める音がした。
外していた視線を戻せば、奏太郎が立ち上がって克仁に背を向ける。そして、勉強机から紙とペンを持って戻ってきた。
小さなテーブルを挟んで、奏太郎は床に腰を下ろすと紙に文字を綴り始める。
『俺が何故、君に優しくするのか。それは単にそうしたかっただけだ。君から見返りを求めようとは思ってない。それが偽善者って言うなら、別にそれで構わない。俺にとって、それが普通で当たり前のことだから』
そう書かれた紙を渡され、黙読した克仁は奏太郎を窺うように見つめた。
「……俺にそうしたいなんて、変な奴」
克仁が呆れたように言えば、奏太郎は一ヶ月前に見せた笑顔で笑う。
(本当に変な奴)
やはりまだ奏太郎の笑顔に慣れないのか、克仁は微かに頬を赤らめながら視線を外した。
二度目の出会い。二人の少年は、僅かながらお互いの心を近づかせてゆく。
それから――。
それから、克仁と奏太郎は行動を共にするようになった。
口の利けない奏太郎の為に、克仁は完全にとはいかないが手話を覚え、紙とペンがなくともお互いの意思の疎通を図ることが容易になった。それは奏太郎を知って、数ヶ月後に起きた克仁の変化だった。
しかし、克仁の私生活がそう易々と変わるものではない。遅刻や無断欠席、喧嘩は日常茶飯事に行われ、度を越さなくなったものの顕在していた。その行動は、克仁がひとりになった時に顔を覗かせることが多い。
原因は、克仁自身にも判っていた。
『……家で何かあった?』
喧嘩でぼろぼろ姿の克仁を眺め、奏太郎は僅かに顔を曇らせる。
「別に」
そう憮然と嘯いてみせる克仁に、『ほら、上がって』と奏太郎が家へ招き入れた。
喧嘩をするたびに、あの日以来克仁はこうして奏太郎の家を訪れている。
「おや。伊藤君、随分と暴れたものだね。リビングにおいで、すぐに手当てをしよう」
そう克仁に声をかけてきたのは、縁なし眼鏡の温厚そうな男、奏太郎の父である誠一郎だ。
音羽家は誠一郎が主夫で、誠一郎の妻が一家を支える大黒柱という特殊な家庭にある。最初は驚いていた克仁だが、そういった家庭も存在することを知り、驚くこともなくなった。
玄関隣のリビングルームに通され、促されるままにソファへ座る。
暫くすると、奏太郎が救急箱を持ってやってきた。いつものように、黙々と手当てが施される。
『……伊藤。もう喧嘩は止めた方がいい。君の身体は、日を増すごとに傷だらけになっている』
手当てが終わると同時に、奏太郎は顔を曇らせながら克仁に忠告した。
克仁がこの手話を見るのは、何度目だろうか。彼もまた、何度目かの返答を奏太郎に寄越す。
「こんなもん、大したことねぇよ」
克仁の強がりに、奏太郎が深く溜め息を吐き出した。
そうして、いつものやりとりはそこで終わる。しかし、今日の奏太郎は違っていた。
奏太郎が誠一郎を振り返る。
『父さん。俺と伊藤は暫く上に行っているから、母さんが帰ってきたら先に夕食を食べていて』
「そうかい。奏太郎たちの分は、テーブルの上に置いておくから残さずに食べるんだよ」
誠一郎に一つ頷いて、奏太郎は克仁に視線を戻した。ソファに背凭れる克仁の腕を引っ張り上げ、その場から立たせる。そして、有無を言わせず、克仁を引きずるようにリビングルームを出て行った。
「……奏太郎の怒ったところを見るのは、久し振りだなあ」
室内に残された誠一郎が、ぽつりと呟いた。
奏太郎の部屋の扉が勢い良く開けられたと思えば、克仁は室内に押し込まれ、奏太郎が中へ入ってくると同時に後ろ手に閉じられる。
静まり返る室内に、扉の音だけが響き渡った。
奏太郎の普段では窺うことのない、強い視線が克仁を射竦める。
「な、何だよ」
克仁はたじろぎながらも、威嚇するように鋭い眼光で睨み返した。
『――伊藤は、自分で自分のことを格好悪いと思わないか?』
「…………」
奏太郎の手話に、克仁は押し黙るしかない。何故なら、それは克仁自身が思っていたことだ。
『どうして、家族と向き合おうとしない。君は俺と違って、言葉で自由に感情を伝えることが出来るのに』
「……言葉が使えたって、伝わらねぇもんもあるんだよ」
克仁は唸るように言い返した。すると、奏太郎は僅かに眉根を寄せる。
『本当に? 君はやる前から諦めているように、俺には見える』
克仁にとって、それは図星だったようだ。
「家族に恵まれた奴に、俺の気持ちが解るかよっ?!」
そう叫びながら、扉の前に立つ奏太郎の胸倉を掴み、彼の身体を扉に強く打ち付ける。
派手な音が鳴った。
しかし、奏太郎の顔が痛みに歪むことはなかった。間近にある克仁の顔を、静かに見下ろしている。
「あいつらは、俺のことを息子だと思ってないんだぜ。いつも家の中で、伊藤家の息子は兄貴だけだって、冷たい目つきで俺を見てるんだ。お前の居場所はない。だから、出て行けって……こんなの話し合う前に諦めるしかないだろ……!」
克仁が顔を俯かせる。
奏太郎はその身体を抱き締めた。そして、驚きに顔を上げる頬を両手で包み、克仁の瞳を覗き込んだ。
「だい、じょう、ぶ」
恐らくはそう言っているのだろう。奏太郎は自らの肉声で、克仁を勇気づけた。その肉声はやや低く通る声だが、言葉の発音は上手くない。
「……音羽」
目を見開いて、克仁は奏太郎を見詰めた。
奏太郎が克仁に答えるように、ゆっくりと頷いて小さく笑んだ。
奏太郎が克仁から身を離す。
『確かに、俺は君の苦しみを理解することは出来ない。例え同じ境遇でも、それを理解することは出来ないと思うんだ。家族はひとつ一つ、それぞれに違うものだから。――それでも、君は大丈夫だと思っている』
言葉で表そうとしても叶えられない奏太郎は、感情を表情や手話で表してゆく。
それがどんなに大変かを、克仁は手話を覚える時に知った。
言葉の表現は簡単だ。声を出せば、相手に届く。しかし、言葉のない表現は手話を知らなければ、意味不明のものでしかない。
『怖がることはない。家族は必ず解り合える時が来る。君が家族と向き合って、それでも駄目な時は、俺が君の居場所を作るから』
そう手話で伝えて、奏太郎は微笑みながら自分の隣を指で示した。
『俺の隣で、何度も挑戦して頑張ればいい』
「……駄目じゃねぇ時は、どうなんだ?」
ふと克仁がそんなことを訊けば、奏太郎が目を丸くする。
『俺の隣はいつでも空いている。君が来たければ、俺はいつでも歓迎する』
「……有難うな、音羽」
この時、克仁は初めて奏太郎に笑顔を見せた。二人が出会ってから初めて見せる、子供っぽい純粋な笑顔だ。
『君が乗り越えられることを信じている』
その笑顔に向かって、奏太郎も綺麗な笑みを浮かべた。
出会って数ヵ月後。二人の少年は、お互いの心を傍に感じていた。