86話 彼らを自由にするのが目的です
「アクアベア…とフレイムワイバーン…って言ってたっけ。」
「ああ。アクアベアは、基本的には森の中にある湖が住処となっている魔獣だ。」
「熊なのに?!」
横たわり、わずかに呼吸をしている魔獣。
ロウキが「アクアベアとフレイムワイバーン」と言っていたなと思い、口に出すと、
ロウキはアクアベアについて教えてくれた。
「見た目はまぁ、熊…だがな。
やつの本来の毛並みは水そのもののように透き通っている。
歩くたびに足元から水が湧き、波紋が広がり、それがとても綺麗だ。
目は深海のような青で、見た目に反してとても優しい目をしている。
だが、怒りに触れれば、水が荒れ狂い嵐を呼び、津波を起こすこともある。
それでも、子どもや弱き者には寄り添うことができる、珍しい熊だな。
さらに、湖だけでなく陸でも暮らすことが可能。だから森の中にある湖が、基本的な生息地なのだ。」
「そんな熊…初めて聞いた…」
「こやつは優しいが故に、捕まってこのような姿にさせられたのかもしれぬな…」
名前だけ聞くと恐ろしそうな熊だけど、ロウキの話を聞くと、見た目に反してとても温厚な性格だと知った。
だけど、その温厚さが仇となって、あの男に捕まってしまったのだろうとロウキは言った。
優しさのある魔獣は、時として不利になり、犠牲になってしまうものなのだと痛感した。
「こやつのことではないが、安易に魔物に優しくして、それが仇となり人間の犠牲になることもある…。
ヨシヒロよ、よく覚えておけ。」
「…うん。そうだな…。分かった。」
優しい魔獣について考えていた時、ふいにロウキから警告を受けた。
俺が手を差し伸べた野生の魔物が、他の人間に懐き、
その結果、実験台にされたり、強制契約させられたり、辛い思いをすることもある。
そういう可能性を自覚しておけというものだった。
ロウキに言われた瞬間、前世の記憶がよみがえった。
飼うつもりもない、飼えない状況でただ餌付けをして、
その結果、傷つけることを企む人間に連れていかれ、虐待され、最悪命を落とす。
それと同じことだ…。
そう思うと、安易に手を出してはいけない。
手を出すなら、最後まで責任を持つ。
改めて、そう誓った瞬間だった。
「ロウキ、もう1体はフレイムワイバーンって…火属性のワイバーンってことだよね?一般的なやつ。」
「そうだな。ワイバーンは本能のまま生きている奴らで、意思疎通は難しい。
従魔契約が成功すれば、それなりに言うことは聞くが、扱いには注意が必要な魔物だ。」
「そんな別々の子たちを、こんな風に…なんでっ…」
アクアベアともう1体について尋ねると、俺でも聞いたことがあるワイバーンだった。
ロウキによれば、本能のまま生きているワイバーンとの意思疎通は難しく、
たとえ従魔契約をしたとしても、扱いには気をつけなければいけない魔獣とのことだった。
「どちらにしても…もう…難しいだろうな…けど…」
「どうするのだ?」
「主?どうするの?」
「あるじさま…その方々はもう…」
「ヨシヒロ様…」
魔獣の説明を聞いた俺は、何の関係もない魔獣たちを、自分の欲望のままに改造して苦しめて…。
本当に人間って、なんてつまらない生き物なんだろうと痛感した。
この子たちはもう助かる確率は少ない。
それでも、少しでも楽にしてやれたら。
そんな思いで魔獣に近づき、そっとその体に手を添えた。
そして、あの魔法を唱えた。
「Angelic Hand…!」
ポワアアアッ―
「どうか…この子たちに、癒しの手を…」
アンジェリックハンドを唱えると、聖なる光が彼らを包み込み、
一瞬、目を開けられないほどの眩しさに襲われた。
光はすぐにおさまり、ゆっくりと目を開けると、そこには、先ほどまで1体だけだった魔獣が、2体となって現れていた。
どちらも、ゆっくりと呼吸をしている。
今にも止まりそうな、そんなかすかな呼吸音が、胸を締めつけた。
「グルルッ…」
「ワイバーン…?」
「グルッ…」
そんな様子を見ていた時だった。
ワイバーンが、か細い声で何かを伝えようとしている気がして、顔を覗き込んだ。
その目は、まっすぐに俺を見ていた。
だから、そっとその頭を撫でた。
すると頭の中で、何かが聞こえた。
あまりにも小さな声。
俺は呼吸を浅くして、意識を集中させた。
【ころ…して…らくに…して…】
「えっ…」
【ころ…して…】
「でもっ…助かるかもしれないじゃないか…!」
【ねむ…らせてくれ…】
「……っ」
ワイバーンは俺に、「殺してほしい」と訴えていた。
もう楽にしてくれ、楽になりたいと。
そんなことを言われて、素直に「はい」と言えるはずもなく、
どうにか魔法で治せないのかエマに問いかけた。
けれど、俺の期待する答えは返ってこなかった。
【申し上げにくいのですが…魔物同士の融合は、神の怒りに触れた行為。
融合された時点で神の裁きとして呪われ、たとえ肉体を引き剝がせても、
その呪いは誰にも解呪不可能なのです。】
「そんなっ…この子たちは、何も悪くないのにっ…!」
エマから告げられた、あまりにも残酷な運命。
俺は、自分の無力さを痛感した。
目の前で苦しんでいる子がいるのに、助けてやれない。
「殺して」と言うしかないワイバーンの気持ちを想うと、
涙が溢れて止まらなかった。
「ごめんな…ごめんなっ…俺たち人間のせいでっ…ごめんっ…」
ポタッ―
ポタッ―
・・・ピカッ―!!
「えっ…?なにっ…」
流れた涙が頬を伝い、1滴、2滴とワイバーンの額に落ちた。
その時だった。
ピカッと光り、温かい光が彼らを包み込んだ。
突然のことに驚いて光を見つめていると、
その光は徐々に小さくなっていき、やがてその中からルーナが姿を現した。
ギョッとする俺。
なぜルーナが…?え、何が起きたの?
そう思って戸惑っていると、ルーナは俺の顔を一度見て、
少しだけ微笑んでから、ワイバーンの方へと向き直った。
そして、ルーナは前足をワイバーンの額に乗せると、そっと顔を近づけた。
「月はあなたを安らかな世界へと導くでしょう。お眠りなさい…」
チュッ―
【…かんしゃ…】
ルーナが小さく祈りを捧げ、その額にそっとキスを落とした。
すると、ワイバーンはゆっくりと目を閉じ、その呼吸は止まった。
その瞬間、「かんしゃ」と優しくも切ない最後の声が聞こえた。
「ルーナ…」
「ヨシヒロ様。今、この子は眠りにつきました。大丈夫。もう苦しくないですわ。」
「そ…うか…」
「泣かないで…大丈夫。これは私の役目ですから。」
「ああ…ありがとう…ルーナ…」
祈りを終えたルーナは、俺のそばにやってきて、スリッとその体を擦り寄せてくれた。
その優しさに、再び溢れ出す涙。
俺はこの世界に来て初めて、“死を望む者”を見て、そしてその望みが叶えられる瞬間を見た。
これが、この世界では“当たり前”の光景なのかもしれない。
だけど俺はこの悲しみとやるせなさは、きっと一生消えないだろうな。
そう思いながら、もう1体の魔獣に視線を向けた。
「次は君だね…アクアベア。君は…どうしたい?」
アクアベアもまた、今にも止まりそうな呼吸を繰り返していた。
きっとこの子も、ワイバーンと同じ願いを口にするだろう。
そう思いながら、そっとその額に手を添えた。
すると、閉じていた目がゆっくりと開き、俺の方へ視線を向けてきた。
そして、静かに語りかけてくれた。
【泣くな…人の子よ…】
「アクアベア…?」
【ワシはもう…助からぬのだろう?しかし、それはお前のせいではない。
だから、悲しむ必要はない。】
「やったのは俺じゃないけどっ…でも…」
【いつの時代も、こういうことは起こりうる。それが、たまたま自分だっただけのことだ。】
「そんな言い方っ…」
【もう少し…生きていたかったが…これも仕方がない。
今は静かに眠ることができたら…それだけだ。】
「アクアベア…」
アクアベアは、俺のせいではないから泣かなくていいと言った。
そして、「静かに眠ることができたら」と…。
だけど、「もう少し生きていたかった」という言葉を、聞かなかったことにはできなかった。
俺にはどうすることもできないけど…何か方法はないのか?
そう思いながら流した涙は、アクアベアの透き通った水色の体に溶け込んでいった。
すると、アクアベアの体に突如光が差し込み、目の前でその体が浮き上がった。
そして、俺の目の前で-
パアアアアンッ!!
バシャアアッ…!
「なっ…嘘だろっ…」
俺の目の前で、アクアベアは突然破裂した。
無残にも飛び散る水。
俺の周りは水浸しになり、俺もその水を頭からかぶった。
その光景は、水風船に針が刺さり、勢いよく割れたような。そんな状況だった。
「なんでっ…魔獣が生きたいと願うことは罪なのか?!
望んで神の怒りに触れたわけじゃないのにっ…なんで…」
「もう少し生きていたかった」と願ったことで、神の裁きを受けたのか。
無常にも、アクアベアの命は散ってしまった。
俺は、無限の魔力もアンジェリックハンドも持っていながら、何もできずに呆然としていた。
神は、時に無慈悲だ。
そう思いながら、アクアベアに「ごめんな」と呟き、地面にできた水溜まりへと手を伸ばした―…。




