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黒き館

作者: あい太郎

ドイツ南部、シュヴァルツヴァルト(黒い森)の奥深く。

かつて修道院だったという古びた館が、観光用に改装された。


名は「ヴァッサーハウス(水の館)」。

その名の通り、館の地下には枯れたはずの井戸があり、かつて僧たちはその水を「聖なる泉」と呼んでいたという。


ベルリンから来た建築史研究家のクララ・シュルツは、その館の調査を依頼されていた。

だが、到着したその日から、妙なことが続いた。


——館の壁が濡れている。

——誰もいないはずの夜の廊下に、水音が響く。

——そして、誰かが低く、何かを唱えるような声が聞こえる。


「……それは、ラテン語?」


クララは耳を澄ませた。

聞き取れたのはただ一語──“Aqua…”

水だ。


その夜、クララは夢を見た。


湿った石畳の回廊。

修道士たちがロウソクを掲げ、列をなして歩いている。

列の中央には、水の入った鉛製の壺。そしてその中で何かが蠢いていた。


「それは聖水ではない……」


声が聞こえた。女の声だ。

だが、誰なのかは分からない。


 


翌日、クララは館の地下に降りた。


かつての拷問室のさらに奥に、塞がれた石の壁があった。

壁には古い刻印が彫られている。


《SILERE, AQUA DORMIT》

(沈黙せよ、水は眠っている)


「……水が眠っている……?」


その言葉に導かれるように、クララは壁を触った。

すると、微かに壁の裏から水の音が聞こえた。

——「滴る音」が、絶え間なく。


その夜、また夢を見た。


今度は少女だった。

髪が長く、濡れていた。何かを抱えて井戸の前に立っている。


「この水に、罪を沈めたの」

少女が囁く。


「でも、水は全部、覚えているの」


 


クララは、地元の歴史記録を調べ始めた。

そして、17世紀のある事件に行き着く。


かつてこの修道院では、**「水の神への儀式」**が密かに行われていたという。

聖水と偽り、井戸に生贄を投げ込む異端の儀式。


告発によって修道院は閉鎖。関係者は処刑された。

だが、「井戸の底から夜ごと声が聞こえる」という噂は、その後も続いていた。


「では、この館は、今でも……?」


その夜、館の雨樋から異音がした。

カチカチと、硬いものが当たるような音。


クララが窓を開けると、雨ではない。


屋根から流れてきたのは、

濡れた指輪、金属製の櫛、そして小さな骨だった。


 


恐怖を押して、クララは再び地下へと向かった。


石の壁に手をかけると、不意に水が滲み出た。

そして、石が音もなく崩れた。


中には、古びた井戸。

闇の底から、気泡がぼこぼこと浮き上がっていた。


「……誰か、いるの?」


クララが呼びかけた瞬間、水面に女の顔が浮かんだ。

濡れた髪、白い瞳。


「思い出して……」

それだけ言うと、顔は消えた。


彼女の耳元に、またあの言葉が囁かれる。


「Aqua… dormit… sed non obliviscitur」

(水は眠っているが、決して忘れない)


 


翌朝、クララは荷物をまとめて館を離れた。

帰り際、管理人の老婆がぽつりと呟いた。


「水の声を聞いたなら、もう戻らないほうがいい。

 一度覚えられたら……最後だから」


クララは言葉を返せなかった。


バスに乗り込んだそのとき、ポケットに何かが入っているのに気づく。


取り出すと、それは濡れた金属の櫛だった。


握った瞬間、指先に冷たい水が滴った。


 


——ヴァッサーハウスでは、いまだに水の儀式が続いている。

 誰が、いつの時代でも。

 そして水は、すべてを見て、すべてを忘れない。

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