一
5年前から、全国に指名手配されている一家殺害事件の『容疑者を見た』という情報が寄せられ、片平慎はとある田舎町の登山道を歩いていた。
きれいな秋空に見事な紅葉で、散歩するには絶好の日和だ。
「このまま散歩したい……」
電車に1時間揺られて、こんなのどかな場所まで来たのだ。
少しの休息くらい、罰は当たらないのではないか。
ここ数日、忙しくてろくに寝ていない片平の脳裏にそんな誘惑が思い浮かぶが、『追っている男が殺人事件の容疑者』という事を思い出し、両手で自らの頬を打つ。
話を聞いた男性によると、確かに「20代後半くらいの男性をたまに目撃する」との事だ。
茶髪のくせっ毛で、聡明そうな男が登山道に向かって歩いている、と。
本当に容疑者の男なのだろうか。
容疑者だったら、この町の山中に身を潜めているのだろうか。
片平は、容疑者になっている大学時代の後輩の顔を思い出して苦々しげに舌打ちをする。
大学の時から、優秀だが何を考えているのか分からず、いつも穏やかに微笑んでいて苦手だった。
苦手──というよりは『警戒』していた。
(出会った時から、いつか何かやらかすんじゃないかと思っていたけど、まさか『殺人事件』とはなぁ……)
片平は傍らの石にどかりと腰を下ろし、深く息を吐く。
片平が警察官になった理由は、後輩である相模宗介が大学3年生の時に両親と兄を殺した事が決定的だ。
両親の刺し傷がそれぞれ数ヶ所なのに比べ、兄の敬介は20箇所も刺されていた。
(よっぽど恨んでいたんだな……)
何故、敬介をそこまで恨んでいたのか。
離れて暮らす弟も、いずれ殺すつもりなのか。
(5年も経っているから、もしかしたら弟を殺す気はないのかもしれないが……)
とりあえず、本人に直接聞いてみないと分からない。
片平は『何年かかっても相模を絶対に逮捕しなければ』と意気込んではいるが、今は疲労困憊と心地良い天気で強烈な睡魔には勝てなかった。
「──あなた、こんな所で何してるんですか?」
頭上から男性の声が聞こえて目を開くと、茶髪のくせ毛に上品な顔立ちの男がじっと片平を見下ろしていた。
「っお前!?」
片平が驚いて距離を取ると、男は不愉快そうに眉間に皺を寄せる。
見れば見るほど、相模そっくりだ。
「何してるっこんな所で!?」
「こちらの台詞ですが」
何故か、男は薄紫色の着流しを着て紺色の羽織を肩にかけている。
「着物ってお前……今度は何をする気だ?茶会にでも参加するつもりか?」
片平が侮蔑のこもった笑みで男を見ると、男は「は?」と顔をしかめた。
「何言ってるんですか、あなた」
男は少しも笑わず、むしろ嫌悪感丸出しで片平に背を向ける。
いつも気持ち悪いほど微笑をたたえていたのに、まるで別人のようだ。
ゆっくりと坂を下る男のあとを、片平は警戒しながらついていく。
「何でついてくるんですか」
「逃がすわけにいかないからな」
「だから……誰かと勘違いしていませんか?」
「するわけないだろ。こんな事言いたくないが、目立つ顔立ちだからな」
男は、大きくため息をついた。
「相模ですよ」
「は?」
「相模宗介ですよ、私の名前」
「知ってる」
「同じ名前なんですか?」
相模は『信じられない』と言いたげに片平を見る。
山を下りてしばらく歩くと、今度は片平が『信じられない』と言いたげに眼前の景色を見た。
まるで時代劇のセットのように、木造の建物に瓦屋根、出歩いている人達は皆着物だ。
映画の撮影かと思ったが、機材を持ったスタッフも何も全く見当たらない。
「何だ……これ……」
男は町の手前の道を左に曲がる。
それからさらに歩き、左手の石段を上っていった。
「宗介」
穏やかで、やや高めな男の声が響き渡る。
声を聞いた瞬間、片平は男に底知れぬ恐怖を感じた。
宗介は足を止めると、警戒したように門前の男を見る。
「……仕事じゃなかったんですか、兄さん」
兄・敬介は、後ろ手を組んで穏やかな笑みを浮かべて階段を下りてくる。
「あぁ、今から行く所だ。仕事に行く前に、可愛い弟の顔を見たいと思ってね」
長い茶髪を一つにまとめ、前髪が一房だけ垂れ下がっている。
髪の長さは違うが、まるで現代の宗介のようだ。
「『妾の子』である弟の顔なんて、見なくてもいいでしょう」
「妾の子であっても、お前は私の弟だ。それに、お前は相模家の名に恥じないくらい優秀じゃないか。私はお前に剣術も学問も勝てた事がないよ」
と、宗介を褒めながらすれ違う。
後ろをついて歩く男は、虫けらを見るような目で宗介を一瞥した。
二人とも片平の事は見えていないのか、気にする様子もなく素通りしていく。
しかし、頭の中で警鐘が鳴り続けている片平は敬介から目を離さなかった。
「──ですか?あの、お兄さん大丈夫ですか?」
女性の声と、揺さぶられる振動で片平は目を覚ました。
「あれ?ここ……」
「あの、具合でも悪いんですか?」
20歳くらいの女性が、片平の顔を心配そうに覗き込んでいる。
片平が辺りを見回すと、登山道の景色だった。
どうやら、石に腰を下ろした状態で眠ってしまったらしい。
(という事は、あれは夢か……)
妙な夢を見た。
片平は片手で額を押さえる。
「具合悪いんでしたら、うちで少し休んでいかれますか?」
「いや……歩き疲れただけだから、大丈夫だ。ありがとう」
片平はにこりと笑うと、石から腰を上げる。
それから来た道を戻って最終電車で警視庁へ帰り、しばらく仮眠をとることにした。