僕の日常だったもの
朝、スマホのアラーム音で目を覚ます。
6時15分。
いつも通りにカーテンを開け、眠い目をこじ開ける。
朝からやることが色々とあるからだ。
「みんなおはよう!」
寝室の隣の部屋の、戸を開けて、愛する家族に挨拶をする。
生暖かい部屋の空気と、湿度が出迎えてくれる。
部屋中に整然と並べられた、ボトル、水槽、衣装ケース。
全てに虫たちが住んでいる。
皆僕の家族だ。
足元に逃げ出していたヨーロッパイエコオロギをそっと捕まえて、タランチュラのケースにそっと入れる。
「ちょっとお邪魔するね。ごめんね、今日ご飯の日だからねー。」
ケースの奥、流木と隠れ家の隙間からこちらを見ているメキシカンレッドニーに小声で言いながら、すぐにケースを閉める。
しばらく警戒した後に、いつも通りイエコオロギに齧り付く姿を少し見てほっこりとする。
「さて、他の子たちも早くご飯にしないと!」
子供の頃昆虫に心を惹かれた人は多いだろう。
優雅に飛ぶ蝶、行列を作る蟻、蝗の後ろ脚の力強さや、蟷螂のフォルム、甲虫や鍬形虫などに心を踊らせたことも。
しかし、多くの人がどこかで、ダンゴムシの裏側を見たとか、害虫と呼ばれる虫に嫌悪感を抱いたとか、そういったことから虫に対しての興味をなくす。
好き嫌いは誰にでもあることで、それは当然の権利だと思う。
ただ、僕。
羽山 蛍は、虫への興味と憧れが尽きず、社会人になってもその憧れを追い続けていた。
夢を叶える為の2LDK。
少し都心から離れたが、会社まで電車で25分。
3年目の給料で、虫たちの生活を守りながら住めるギリギリのラインの物件だ。
ひとしきり朝ご飯の時間を終えて、身支度を整える。
自分の食事はプロ御用達のスーパーの、冷凍炒飯で済ませる。
お弁当は白米とふりかけ、昨日の夕飯の残りの野菜炒めと冷凍の唐揚げを二つ。
「行ってきます!」
時間は7時25分。
少しくたびれてきたスーツを着て、家族に挨拶をして家を出る。
都心に向かう電車はこの時間、5分おきにやって来る。
揺れる電車の中、他人の吐息を間近に感じて、少しぞわりとしながらも、もう慣れたルートを通り会社へ着く。
「羽山さん。再来週の再開発地の案件だけど…。」
「はい、先方へのアポは取ってありますので、あとはプレゼン資料の最終確認とーーー」
都心にある不動産企業。
とにかく夢を叶える為の収入を得るため。
根性と気合い、フィールドワークで野山を駆け回って付けた体力でもって、学歴はそこそこながらもなんとか続いていた。
「お疲れ様ー…。」
20時28分。
もうあまり人の残っていないオフィスで、同僚に声を掛けて帰る。
定時は確か17時だが、その時間に帰れた記憶はあまりない。
最寄り駅まで電車に揺られ、駅近くのスーパーで安くなった惣菜を買って帰る。
閉店2分前に滑りこみ、アジフライと明太ポテトサラダが買えた。
今日は割といい日だ。
と、少しいい気分になる。
帰ったら夜のお世話と、床材の交換は…と、考えながら道を歩いていると、道端にワモンゴキブリを見かけた。
季節は秋の初め。
まだ蒸し暑さも少し残る中で、28℃とちょうど活動しやすい気温。
嫌われ者の代表格のゴキブリ。
ワモンゴキブリは特にその大きさと、単為生殖可能な生命力などから、苦手な人は卒倒するような虫だ。
なんとも首の上に見える模様が綺麗に出ている個体であったせいか、ついじっと見て足をとめた。
近くを通り過ぎたOL風の人が、視線の先を見て、ギョッとした様な顔をして通り過ぎて行った。
流石に管理しているデュビア(アルゼンチンフォレストローチ)ならば兎も角、街中に居るものを捕まえようとは思わない。
家に出て来たならそっと摘んで外に出すのだが…
などと考えながら歩き始めると、急に大きな物音がした。
そして、思わず振り返り、力が抜ける。
Hの字の鉄鋼が僕めがけて降ってきている。
その事を理解するのに0.5秒。
「あ、みんなのご飯どうしよう…」
誰かの叫び声と、大きな音と衝撃の後、視界が真っ白になった。