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8文芸部

 湿った廊下をキュッキュッとスリッパが踏みしめる音が響く。あるいはペタリペタリと、教員のサンダルが床を踏み鳴らす音がそこに混じる。


 業後、部活に向かう私の足は重かった。

 普段であれば読書仲間と言葉を交わし、それぞれが書いてきた小説を批評しあう楽しい時間なのだけれど、あまり寝られていないせいか体が重い。

 しとしとと降り続ける雨のせいか、わずかに頭に鈍痛があった。低気圧は頭が痛くなるから嫌だ。まあ、夏の日差しに比べれば雨のほうが幾分かましだと思うけれど。


 降り続ける雨が空中回廊の天井に落ち、歌を奏でる。

 ポンポンタタタン、タン――どこか陽気に聞こえるその音が憎らしくて、足早に廊下を進み、建物の中へと入る。

 いくつもの足音がこだましていた。

 多分運動部の人達だ。雨の日は時々、校舎内をぐるりと走っている。


 入ってすぐにあるマットで靴の水気を拭く。雨の日の校舎は滑る。誰だって一度は経験がしたことがあるだろうけれど、私も雨の日に何度か、それはもう盛大に転んだことがある。

 あの恥ずかしさを経験して以来、しっかり靴裏の水気をとることにしている。

 もっとも、すでにマットはもちろん、廊下も湿っていて、あまり意味がなかったけれど。


「っ」


 つるりと足が滑って、したたかにおしりを打ち付けた。

 転ばないようにと考える時ほど、転ぶものだ。

 勢いよく尻もちをついたせいか、腰がひどく痛かった。それに、少しおしりのあたり、スカートが湿ったような感じがする。

 最悪だ。


 そんな私を見下ろしながら、陸上部と思しき男女混じった小規模な集団が走り去っていく。

 頬がすごく熱かった。


 駆け込むように図書館に踏み入る。その静寂に、少しずつ鼓動がゆっくりになっていく。

 ほう、と息を吐くころには体の熱も消えていた。ここは聖域。運動部の人達が入ってくることはない。


 今日もやっぱり斎藤先輩は図書館に入って少し行ったところの受付カウンターに座っていて、本を開いている。見覚えのある赤い表紙。

 多分、昨日私が床に落としたまま保健室に運ばれて存在を忘れていた本だろう。

 顔を上げた斎藤先輩は、さっと私の顔色を確認し、少しだけ困ったように目じりを下げた。やっぱりまだ、体調が悪いままに見えるのだろう。

 少しだけ迷ったけれど、数少ない部活の日なのだから参加しないともったいない。


「いらっしゃい。今日が部活だったわね」

「こんにちは、斎藤先輩。はい、部活頑張ってきます」

「楽しく部活動をすればいいのよ?」


 空元気を見せれば、斎藤先輩は心配する言葉を飲み込んで、頑張ってとエールを送ってくれた。ぐっとこぶしを握る先輩に強く頷き返して、私は文芸部が使っている長机を並べた一角へと進んだ。


 本棚が並ぶ狭い通路。ぎりぎりすれ違うことができるくらいの狭い道に、今日は珍しく先客がいた。それも、文芸部の生徒ではない。

 立ち止まった私の視線に気づいたからか、その男子生徒は顔を上げ、左右を見回す。目があった。知っている人な気がした。


 その男子生徒は、私の顔を見て、何かに気づいたような顔をして、体を棚に近づける。私が通れるようにしてくれたのだろう。

 それはありがたいけれど、この距離で異性の横を通るというのはためらわれた。

 彼の配慮に感謝しながらも、私は首を横に振って違う通路を通ることにした。

 ふぅ、と小さく息を吐いた彼の気配が、安堵の緑になる。緊張のオレンジはもう見えない。


 どうやら少しばかり人付き合いが苦手な人のようだった。それとも、異性と関わるのが苦手なのだろうか。

 もやしのようにひょろりとした、スリッパの色から三年生とわかる先輩。彼がいた通路の一本隣を通って、文芸部の活動場所へと向かう。


 あ、どうしよう。普段はこの図書館に誰もいないから気にすることなく大きな声で議論を交わすけれど、先輩は気にならないだろうか。


 そんなことを考えているうちに短い本棚に挟まれた通路を抜けて、私は文芸部の活動場所にたどり着いた。まあ図書館で文芸部が活動していることは入り口に掲示してあるし、注意されたら声量を落とせばいいだろう。


 活動場所にはすでに三人の生徒がいた。私と同じ二年生の男女、そして一年生の女子。

 ただでさえ肩身が狭そうだった唯一の男子である渡木諒也(わたきりょうや)くんは、希望に満ちた目で私のほうを見て、それからより深く肩を落とした。

 ふわりと笑った加瀬(かせ)晴美(はるみ)が、ひらひらと手を振る。

 彼女に手を振り返しながらいつもの席に座る。


「あ、梓。今日は遅かったね……ってどうしたの?なんか、顔色悪くない?」

「ちょっとだるいだけだから、大丈夫だよ」


 そう言えば、渡木くんはどういうわけか恥ずかしそうに頬を赤らめてあらぬ方を向いた。何かおかしな点があっただろうか。

 心配げに私に声をかけてくれた、文芸部部員の一人、同級生の晴美と顔を見合わせて首をひねる。

 全体的に丸みを帯びた体つきの彼女は、けれど一目でわかるほど整った顔つきをしていた。多分、少しダイエットすれば異性にそれはもうモテるだろう。というか、影でモテている。

 以前、男子が「加瀬っていいよな。あの庇護欲をそそる感じ」などと話しているのを耳にしたことがある。庇護欲をそそるとか話していたけれど、その男子は晴美の放漫な胸元を見ていた。まあ別に何も思うところはない。自分の胸元を見下ろして絶望することなんてなかった。

 まだ大丈夫だ。まだ――うん、これ以上余計なことを考えるのはやめよう。


 くいとワインレッドの眼鏡を持ち上げた晴美が、渡木くんへと視線を戻す。私も彼女につられて視線をスライドさせた。


 さらさらしたショートマッシュの髪を揺らす渡木くんと目が合う。彼は逃げるように視線をさまよわせた。

 渡木くんが何を考えているか、私にはよくわからない。一方で晴美の方は渡木くんが何を考えたかわかるようで、やっぱり同じように頬を赤らめながら、鋭い目で渡木くんをにらんだ。


「あ、梓におかしな考えを抱くのはやめて」

「いや、別にそんなつもりは……つまり、アレだろ?それも重いやつ」

「ちょっと!わかっていても口にせずに、自然に支えるのが紳士なの!わかる⁉」

「いや、俺に乙女小説の主人公然とした行動を求められても困るんだけどな」


 ぎゃいぎゃいと言い合う二人を見つめながら首を傾げていれば、これまで何も告げずに座り続けていたもう一人、文芸部一年女子部員の近藤(こんどう)()()ちゃんが、その腕に抱いていたウサギのぬいぐるみを私に向かってずいと近づけてきた。

 ボタンで目が表現された、淡いピンク色のウサギ。何度か見たことがあるぬいぐるみ。黄色い四つ穴ボタンは暗がりでみるとひどく不気味に思えたけれど、恵理ちゃんに抱かれているときにはただ可愛い人形に過ぎなかった。

 いや、恵理と合わさると、彼女が座敷童のように見えてくるから不思議だ。別に、陽子が幼いというわけじゃないし、昔の日本の女の子ってイメージのおかっぱってわけでもない。


 小柄で、ふわりとしたミディアムヘアが特徴的な美少女の恵理ちゃんだけれど、彼女は今日も無表情だった。

 キスをしかけるほどに近づいた人形から逃げるようにのけぞれば、まるで腹話術をするようにウサギの手を持ち上げながら恵理ちゃんが告げる。


「あのね、たぶん、月もののことだと思うの」

「……なるほど」


 納得とともに、とてつもなく恥ずかしい勘違いをされていることに私はかっと頭に血が上った。頬がひどく熱かった。


「誤解だからね!」

「大丈夫だって。わかってる、わかってる。姉貴もたまにあるんだよ。大体半年に一回くらいかな。その時には暴君を超えて鬼に変貌するからよくわかるんだよ」

「いや、だから違うのだけど……」


 誤解だとどれだけ言い募っても渡木くんが考えを改める様子はない。というか、お姉さんがいるのか。どんな人なのかまったく想像がつかない。

 スケバンのような見た目をした派手な化粧の威圧的な美人が渡木くんを正座させる光景を思い浮かべた。こんな感じ、なのだろうか。

 一周回って羞恥が吹き飛んで、顔の熱はどこかに消えていった。

 苦々しい顔をしている渡木くんの表情からすると、機嫌が悪い時のお姉さんはさぞかし怖いのだろう。


「……はぁ、もういいや。それで渡木くん、今日は何をする予定なの?」


 小柄な恵理ちゃんと並んでも違和感がないほど小さくて童顔な渡木くんは、私の質問を受けて大きく胸をそらして見せた。少しだけ苛立ったけれど、むしろ可愛らしくもあった。まあ、可愛いなどと言おうものなら蛇蝎のごとく嫌われてしばらく口をきいてくれなくなるのでぐっと堪えた。

 むしろ先ほどの誤解の仕返しにからかうべきだっただろうか。でも本人ではどうしようもない身体的特徴を馬鹿にするのは避けたい。

 別に馬鹿にするつもりは全くないけれど。


 ちなみに、今の文芸部の部長は晴美だ。副部長が渡木くん。

 渡木くんはコホンと咳払いして、もう一人、まだ来ていない文芸部員のことを口にする。


創士(そうし)は遅くなるって話だし、先に言っちゃうか」

「何を?」

「今から言おうとしているだろ。……んん、実は顧問の先生に部誌を発行しないかって提案されたんだ。ほら、来月、創立三十周年の創立記念日があるだろ」

「……そうなの?」

「わたしも初めて知った、かな?」


 顔を見合わせた晴美と私の言葉に、あるんだよ、と渡木くんは地団太を踏んで見せる。そういったふるまいのせいでますます子どもっぽく見えて可愛いなどと言われるのだが、彼には自覚がないらしい。


「ごほん……そういうわけで、今日から我が文芸部は部誌制作を行いたいと思う」

「……あとひと月で?締め切りは?内容は?」

「部誌……うちの妄想が暴露される。嫌ぁぁ」

「我が文芸部?文芸部はわたしの城だからね」

「いや、晴美の城でもないだろ」


 溜息とともに私が具体的な流れを確認し、ウサギのぬいぐるみを変形しそうなほどに強く抱きしめた恵理ちゃんはうるうると涙目をしながら小声で悲鳴を上げる。

 晴美は渡木くんとにらみ合っている。幼いころからの知り合いだという話だけれど、言葉を交わせば二言三言目にはいつもこうしてにらみ合いが始まってしまう。最近は鳴りを潜めていたのに、もう一人の部員である深谷くんがいないと渡木くんが止まらない。

 どうか早く来てくれますように、深谷(ふかや)創士(そうし)くん。そして渡木くんに大人の余裕をもたらしてください。

 そう願いながらも、私の頭の中では恵理ちゃんの言葉がぐるぐると周り続けていた。


 なるほど、妄想の暴露……というか、性癖の暴露になるだろうか。自分というものを極限までさらけ出した小説を部誌に載せるというのは私も嫌だ。詩……の方が盛大な失態をやらかしそうだ。歴史小説とか、推理小説とか、そのあたりなら自分の人間性の暴露にはならないだろうか。

 そう考えたら、なんだか自分がすごくいけないことをしているような気分になった。

 こんな考え、偉大な作家さんたちに申し訳ない。


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