7息抜き
更新が遅くなってしまいすみません。
喧騒に包まれた教室。朝のHRが始まる前の日常の光景を目に映しながら、頬杖を突きつつあくびをかみ殺す。
窓から差し込む朝の陽光がまぶしい。それに眠い。
しばらく机に突っ伏して眠ろうかと思ったところで、視界の端を見覚えのある人が通りすぎて、僕は思わず息をのんだ。
とっさに身構える僕に気づいたからか、彼女は足を止めて目をのぞき込んでくる。不思議そうに細められた目で、何を探ろうというのだろう。
ただ、すぐに気になったのは、目の下に濃く表れた隈だった。
瞳の奥にあった熱はすぐに消え失せて、彼女は興味なさげに僕から視線を外して歩き去っていく。
後姿を呆然と見送れば、彼女の友人が声をかけに行く。
「おはよう」
「おはよう……って、どうしたのよその隈?」
「ちょっと眠れなくて」
怖そうな女子が梓さんの眉間をぐりぐりと押す。ああいや、心の中であっても河野さんと呼んでおくべきだろうか。女子との距離感がいまいちよくわからない。
……まあいいや。
血の気が引いた青白い顔の梓さんを見て、怖そうな女子――綾瀬さん?が梓さんを椅子に座らせる。
だるそうに背中を丸める梓さんの姿に、昨日ぶつかってきた人物の姿が重なる。やっぱり、昨日の女子は梓さんだったのだろうか。今日もすごく体調が悪そうだ。
休んだほうがよかったんじゃないかな。無理して学校に来る必要はないと思うけれど、梓さんはつらそうにしながらも、ぽつりぽつりと綾瀬さんと言葉を交わしていた。
昨日、何かあったのだろうか。熱があるとか風邪気味だとかいうよりは、疲弊したような印象のある梓さんを横目で見ながら、考えた。
何か、例えば――
ふいに、ドクンと心臓が一度、強く脈打った。
大丈夫だから落ち着いて――なだめるように告げれば、心臓のリズムはゆっくりと正常に戻っていく。
ただ、喧騒が急激に気持ち悪く感じられるようになった。こみ上げる吐き気を抑えながら、周りに気づかれないように視線はそのままで周囲を観察する。
僕は、その輪に入ることができていない存在。異物。この集団の中で、僕ははみ出し者、異常な存在。
そして、そんな状態になっていることを、良しとはしてくれない。
かと思えば、積極的に誰かに話しかけようとすると体が上手く動かなくなるのだから、難儀なものだと思う。
「もう少し融通が利いてもいいと思うんだけどね……」
「なんか言ったか?」
「ん?ううん、なんでもないよ」
前の席に座っていた陸上部の坊主頭の男子に首を振って返し、僕は再び窓の外へと視線を向けた。
いつの間にか空は曇天に覆われていて、太陽は姿を消していた。今日はずいぶんと上空の風が強いみたい。
雨の気配がすると思えば、すぐにぽつりぽつりと、雫が空から降ってきた。
今日の部活は屋内かよ――前の席の生徒がぼやく声が聞こえた。
日光浴ができないのが残念でならなかった。
単調な日々。代り映えのしない日々。何の役に立つかもわからない時間。
そして、ありふれた日常の合間にふらりと現れる悪意。
その悪意に彼は飲まれた。悪意に縛り上げられて、生きる気力をなくした彼は、殻にこもり、そして今、僕がここにいる。
そんなおかしな状態だからか、僕には不思議な力があった。
――なんて、それが分かったのは昨日のことなのだけれど。
昼休み。
さっさと弁当を食べ終えるのは体に染みついた習慣。わずかに共有できている記憶にある限り、食事を済ませればすぐに机に伏して狸寝入りを決め込むのが習慣。この教室の喧騒の中で寝られるほど、僕もまた寝つきがよくはない。
どうしようかと無意識のうちに視線をさまよわせる。視線が、一人の少女にとまって。
僕は、自分が梓さんの姿を探していることに気づいた。
僕は一体どうしたのだろうか。昨日からずっと、気づけば梓さんのことを考えている。そして、彼女のことを考えると、不思議と温かい気持ちになった。
恋じゃないの?と、どこかあざけるような声が聞こえた気がした。
恋、とは少し、いやだいぶ違う気がする。
もっとこう、親愛というか、懐かしさというか……考えているうちに、自分でもよくわからなくなってきた。そもそも、僕は恋なんて知らないのだけれど。
こみ上げる異物感を、首を振って追い出す。
机に伏して目を閉じる。狸寝入りではない。もっと楽しくて、自由な時間。
ゆっくりと、自分の体の感覚を広げていく。
幽体離脱、とでもいえばいいのだろうか。ふわりと体から自分という存在が飛び出していくような感覚があり、僕の意識は一瞬大きく世界に広がる。
感覚が広がる。世界と一体になったようで、全能感のようなものが己を満たす。
吹きすさぶ湿った風が、降りしきる雨の一粒が、やけに鮮明に感じられる。
風に乗って、遠くに、もっと遠くに、己を運ぶ。
校舎を飛び出し、敷地内をぐるりと回ってみる。
雨に濡れたグラウンドには人ひとりの姿もない。見下ろす灰色の校舎は、雨でコンクリートが濡れているからかやけに重苦しい色合いをしていて、まるで牢獄のように見えた。
こんな場所に大勢の生徒が入っているなんて、そうと知っていなければ信じられない。
腕を翼のように広げ、塀を超えて学校の外に飛び出す。
雨のせいか、昨日よりもずっと時間がかかったけれど、体を雨粒がすり抜けていく感覚は面白くて退屈はしなかった。
見つけた相手のもとへと降り立ち、その体に意識を滑り込ませる。
少しだけ抵抗感があって、けれどすぐに、仕方がないなぁと、あるいは好奇心を含んだ気配がして譲られる。
同化を進める。感覚を、体に広げていく。頭から首を伝って胴体へ、手足の先へ。
目を、開く。
「なぁおん」
軒下、ひんやりした土の感覚を感じながら、四肢を使ってゆっくりと立ち上がる。
広がる分厚い雨雲を見上げるその体からは、空はひどく遠く見える。
それも当然のこと。
何しろ、今の僕は地表数十センチのところから空を見ているのだから。
くるりとその場で回って体を確認する。淡い茶色に、濃い縞模様。ゆらりと伸びるしっぽは、僕の歓喜に合わせて楽し気に揺れる。
成功だ。
僕が手にした不思議な力、それは猫の体に宿ること。
意識を体から切り離して、猫になって街を歩く。人間とは違って視線が低くて、かと思えば軽々と跳躍して人よりも高い視界を確保できるのだから面白い。
人という枠組みは窮屈で、だからこそ猫になっているこの時間はひどく愛おしい。
わずかにつながる体の方から、同意と少しの呆れが伝わってきたけれど気にしないことにした。
憑依したのは茶トラ。家の軒下にいるけれど苦しい首輪はない。
野良らしく、やや痩せているけれど体はしっかり鍛えられていた。
昨日憑依したうちの一匹は、甘やかされてでっぷり太った豚のような猫。あの猫は体が重くて、人間の体に意識を戻してもしばらくだるくて仕方がなかった。
……ひょっとしたら、憑依が楽しくていろんな猫に試したのがだるさの理由かもしれないけれど。
すらりとした足で地面を踏みしめて、塀に跳躍。
僕は猫となって道を進む。細い塀の上、屋根、横断歩道、歩道。
正門の隙間に体をくぐらせ、学校の敷地へと入る。
雨に濡れるのが少し不快だったけれど、耐えられないほどじゃなかった。
玄関前にて、「可愛い」と言いながら近づいてきた女子生徒の一人がおもむろに僕へと手を伸ばしてくる。
上から襲い掛かるように迫った手のひらを見て、僕は慌てて飛び退った。
「……あぁん、逃げないでよぉ」
猫なで声。背筋に寒気が走る。
逃げずにいられるものか。いきなり視界を覆うように手を伸ばしてくる相手なんて危機感しか感じられない。
四肢で力強く大地を踏みしめ、女子グループを置き去りにして学校を進む。
どういうわけか学校の壁は凹凸が多くて、一種のアスレチックのようで楽しい。ひょいひょいとのぼれば、気づけば三階。心の中で高所に震える声が上がった。
うるさいなぁ。このくらいは怖くもなんともないよ。いい加減慣れてよ。
臆病風に吹かれる声を無視して、僕はすたすたとバルコニーを歩き、手すりに足をかけて次の教室へと飛ぶ。
本館と呼ばれるこの校舎はとても歩きやすい。特に、壁に突き出したでっぱりの道は、まるで僕が歩くためにあるように思える。
少々物足りなくはあるけれど、ここは雨を避けることができるからいい。
上階のバルコニーが屋根になったそこで、視界に広がる世界をぼんやりと眺める。朝から降り続ける小雨はいまだに止む気配を見せなくて、雨に煙る世界はひどくぼやけていた。
雨に煙るって、なんだか詩的な響きだ。
そのまま、気の向くままになるべく屋根がある場所を進んでいたら、気づけば北館の端に差し掛かっていた。北館二階。すぐ先には空中回廊があって、その先には図書館がある。
右側にはグラウンド。今日は陸上部と野球部がグラウンドを使う予定だったけれど、このコンディションだと室内練習になりそうだ。
走れないのは残念だ。それは数少ない学校生活の楽しみだった。
走るのはいい。自分が風になったような快感があって、速ければ速いほど、僕は自分を縛る様々な鎖から解放された気分を味わうことができる。
開けた視界、周囲のものが勢いよく背後に流れていく。己が風とまじりあうその感覚は、幽体離脱の時の感覚に似ている。
どこまでも行けそうで、踏みしめる強い感覚が、僕が今、確かにここで生きていることを伝えてくる。
それに、全力で走り切った後、見上げる空が良かった。特に、雲の切れ間から覗く青空。
その青さに、惹かれていた。
「……なぅ?」
ふと、視界の中でこそこそと動く影を見つけて動きを止める。視線の先、図書館の窓の奥で誰かが動いていた。確かあそこは長机が並ぶ場所だ。図書館の奥まった場所。
一人の女の子が何かをしている。
毛が逆立った。感じたのは、強い悪意、あるいは害意。
彼女の手の中で、鈍色の輝きが明かりを反射してきらりと光った。
ねちゃりとした笑みを浮かべた女子生徒が、周囲をさっと見回して、足早にその場から去っていった。当然ながら、雨で濡れた窓ガラスの先の先、五メートルほど離れた僕の存在に彼女が気づくことはなかった。
「……?」
よくわからないけれど、あまりいい気はしなかった。
雨足が強くなる。降りしきる雨の音に、予鈴の音が重なる。
ひょいと、校舎の二階、その端から渡り廊下の屋根へ、そして地上へと降り立つ。
毛皮を濡らす雨を振り払ったところで目を閉じる。
ありがとう――心の中で呟いて、意識を切り離す。
猫の体から抜け出して、再び空を飛ぶ。まっすぐ、引き寄せられるままに体の方へ。
ゆっくりと目を開いて顔をあげれば、移動教室の準備をしているクラスメイト達が、一人また一人と教室から出ていくところだった。
僕もまた慌てて準備をして、飛び出すように教室を出た。
また、人間としての時間が始まる。
僕は一体、どれだけの間、こうして過ごすことになるのだろうか。