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6日記

一話挿入しました(2023/8/23)

 家にたどり着くまでは、まるで試練のようだった。すべてが揺れ、視界はねじ曲がり、歩くのがやっとな状態だった。

 家の扉をくぐった時点で力尽きて、私は膝からフローリングの床に倒れこんだ。

 扉が開く音を聞いたからか、奥からお母さんの声が聞こえる。少し責めるような声。


「梓、帰ってきたなら挨拶をしなさい」

「……今それどころじゃない」


 もごもごと口の中で呟くも、たぶん、聞こえていない。全く、と言いながら水を出す音がして、ハンカチで手をふきながらお母さんが玄関にやってくる。

 いつもだったらこのまま数分お説教なのだろうけれど、今日のお母さんは私の姿を目にとめて、顔色を変えた――と思う。もはや気を失わないでいるのが精いっぱいで、私はお母さんの顔を見る余裕なんてなかった。


 ぐらぐらと揺れる体が倒れこまないように、私は必死に床に両手をついて体を支える。今倒れれば、今意識を失えば、私の中で暴れまわっている感情が、何とか手繰り寄せた記憶の手がかりが、するりと手の中から零れ落ちて行ってしまうような気がした。

 慌てた声で何かを告げたお母さんが、私に肩を貸してくれた。けれど足に力が入らなくて、私は引きずられるように廊下を進む。


「……ねぇ、お母さん」

「何?どこが痛いの?」


 心配そうな声音で尋ねるお母さんの声は、すぐ近くで聞こえた。お母さんは、こんなに過保護だっただろうか。昔は、男勝りで幼馴染たちと公園で走り回るようなやんちゃな子どもだった私を、お母さんとお父さんは見守るように育ててくれた。おかげで私はのびのびと育った。

 そのことを考えると、今のお母さんには違和感があった。それほどまでに私の体調が悪いのだと言えばそれまでだけれど、心配そうな声の中に、恐れと不安と、それから歓喜のような感情が混ざっている気がした。

 わけがわからない。

 きっと、体調が悪すぎて思考が働いていないんだ。


「私――」


 喉から出かかった言葉を、ぐっとこらえる。それは吐き気を我慢してのものか、あるいは荒唐無稽な話をして笑われることを恐れたからか。

 言えるわけがなかった。「私は記憶喪失なの?」なんて、いったいどれだけ拗らせているのだろうか。

 私はそれ以上何を言うこともできず、ただ黙ってお母さんに肩を貸してもらって自室に向かった。


 お母さんがつけて行ってくれたエアコンの冷風にあたりながら、ベッドの上で天井を見上げながら小さく息を吐く。

 視界は少しだけ元の状態を取り戻していた。

 多くの色が交じり合った気持ちの悪いマーブル模様は薄れ、目の奥の鈍痛が収まっていく。

 ここには私以外誰もいない。ただ、私だけ。

 天井に向かって手を伸ばす。視界に入った私の体は、ほのかに茶色の光を放っているように見えた。


「はぁ……」

 もう一度小さくため息を吐いてから、私は重い体を引きずって記憶の糸口を探し始めた。

 もし私が記憶喪失だとして、お母さんたちがその事実を知らないならば、この部屋に、私の知らない事実が記載されたものがあるはず。お母さんたちが事実を知っていれば、情報は隠されてしまっているかもしれないけれど。

 それは例えば読書記録で、あるいは日記。

 学習机の上に立ててあった大学ノートを手に取り、最初のほうのページをめくる。つたない文字が躍るその中に、先ほどまで読んでいた『はてしない物語』の文字を見つける。書かれている感想は、私の記憶にないものだった。

 その前後に読んだ本を目で追っていく。

 どういうわけか、すべての本のことを忘れているというわけではなさそうだった。読書記録を見返したことはあるわけで、ここに書いてあるから読んだ本として記憶にインプットされているだけかもしれない。けれど、一部の本についてはその感想も、感想を書いたこと自体も、ぼんやりと記憶に残っていた。

 記憶が失われている可能性があるのは、小学三年生の六月頃から四年生の四月か五月あたりまでだろうか。その間、私の読書記録には覚えのない本を含めたいくつかのタイトルが散見された。『草枕』って、そんな本を当時の私は本当に読んでいたのだろうか。


 記憶のある本に共通することは、比較的文字の少ない本だということくらいだろうか。文字が少ないと記憶に残る?……学校で借りて、その日のうちに読み終えて返すなんて図書室の通い方をしたから記憶に残っているのだろうか。

 わからない。けれどひとまず時期は分かった。私が本当に記憶を失っているなら、小学三年生から四年生の約一年。

 いや、「本当に」などと表現したけれど、実際のところ確信があった。私は、何かを忘れている。だって、それを思い出そうとするほどに、私の体調は悪くなり、体が忘れておけと訴えかけてくるのだ。

 一方で、心は思い出してはいけないと叫んでいる。


 私は覚悟を決めて押し入れを開き、カラーボックスにしまっていた過去の日記を取り出した。落書き帳からかわいらしい日記帳、大学ノートとまとまりもあったものではない私の過去の記録をあさる。

 こみ上げる懐かしさが、気持ち悪さを弱くする。目的の時期の日記を探しながら、ついつい気になった冊子に手が伸びてしまうのは仕方がないと思う。片づけの時はいつもこんな感じだし。


 果たして、目的の情報は見つからなかった。正確には、日記こそ見つかったものの、そのあたりの日記は、どういうわけか内容がひどく少なかった。一年間でたったノート半分。起伏のない毎日が、つたない文字でつづられているだけだった。

 そして、その内容はすべて、私の記憶にあるものだった。

 正直、例えばその時期の日記が隠されているとか、そういうことを連想した。お母さんが私の記憶喪失に気づいていて、そして思い出さないようにしていれば、トリガーとなる日記を隠すだろうなんて思っていた。

 探偵気分は消え、代わりに困惑とけだるさだけが残った。


「……私の、勘違い?」


 何かを忘れている気がする。何か、大切なことがあった気がする。それは間違いない。

 悲痛な叫びをあげる心が、心臓を握りしめる。ドクン、ドクンと飛び出しそうなほどに大きな鼓動を感じながら、私は目を皿にして手がかりを探していく。

 一ページ、また一ページ。速読で読み進めるそこに、けれど目的の内容は見当たらない。心に訴えるような情報はない。


 次のページをめくろうと手を動かして。

 ひらりと、小さな何かが日記のページの間から零れ落ちた。

 黄昏の光が差し込む部屋の中。黄金の輝きを帯びたそれは、一本の毛だった。

「白髪?」

 電球の光に透かして見れば、それは真っ白な毛だった。

 ただのごみ。その、はずなのに。私はその毛に、何か不思議な温かさを感じていた。


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