5気づき、そして接触
ベッドから立ち上がる時こそ少しばかりふらついたけれど、それ以外は何の問題もなく保健室を後にした。一緒に帰ろうかと言ってくれる斎藤先輩の同行を断って、私は急ぎ足で廊下を進んだ。
ぐるぐると頭の中を回るのは、先ほど得た気づきについて。
それは、自分の記憶について。私は、自分が読んだ小説のことを完全に忘れていた。
読む途中も違和感があった。まるで初めて読む小説のように、話の先が予想できなかったからだ。
たいてい、一度でも読めば気に入っていたシーンができて、そういったところは強く記憶に残る。その部分を読み返せばたいていは次に何が待ち構えているかわかるものなのだ。
それなのに私は、どれだけ読み進めても先の展開が予想できるシーンに到達することができなかった。
忘れているのは、それだけではなかった。
つづっている読書記録。そこに書いた、面白かった、感動したと記録した本を借りた記憶も、読んだ記憶も、私にはなかったことに気づいた。まるで、あるの時期における記憶がすっぽりと抜け落ちているように、一部、たぶん小学校の途中の読書の記憶がなかった。
私は、記憶を失っているのだろうか。ただ、本の内容を覚えていなかっただけ?何十冊の内容を、きれいさっぱり忘れている?
そんな馬鹿な、と思った。
それこそ小説の読みすぎだ。あまり大した情報じゃないから脳がすっかり記憶を捨ててしまっただけだろう――そう、思いたかった。
けれど考えれば考えるほどに、記憶喪失という四文字が私の中で大きくなっていった。
足元がぐらぐらと揺れているような感覚がした。その揺れは足から這い上がって、私の全身に広がった。
視界が揺れ、マーブル模様になる。まるで風をひいている時のよう。
耳鳴りがひどい。その音に交じって、やっぱり鳴き声がした。猫の声。先ほど見たぶち猫のせいだろうか。
ううん、違う。この声は――
ひどく輪郭がねじ曲がった視界を頼りに早歩きをしていたら、一瞬にして目の前が黒く染まった。
「うぷ⁉」
何かにぶつかったらしく、体が後方へと弾き飛ばされた。汗のにおい。けれど、不思議と不快ではなかった。多分それは、汗のにおいの中に、降り注ぐ太陽のにおいがしたからだと思う。
「……ごめん、なさい」
もつれる舌で何とか言葉を紡ぎ、うつむいたまま逃げるように目の前の相手の横を通り過ぎる。運動用の半ズボン、脇に白い線が入ったシンプルなものだった。スリッパの色は緑。多分、同級生――そんな思考は、けれど千々に途切れて、思考の海に飲まれて消えていく。
ぶつかった相手は、私に何か言うことなくその場に立ち尽くしているらしく、耳鳴りの中、足跡が聞こえてくることはなかった。
ふらつく体を、靴箱に手をついて支える。吐き気が込み上げてきた。ぐるぐるとすべてが回っている。
けれど、心ばかりが急いていて。
私は足を引きずるようにして家へと向かった。
「……梓さん、だよね?」
ぽつりと、背後で呟かれた言葉は、私の耳に届くことはなかった。
◇
歩き去っていく梓さんの姿を見送って、僕は伸ばしていた手をゆっくりとおろした。
僕は、突然どうしたのだろううか。わからない。わからないけれど、とっさに手が伸びていた。
さっきぶつかったのは、たぶん梓さんだった。
梓さん……ええと、確か、苗字は河野だったかな。
クラスメイト。去年も同じクラスで、けれど話したことはなく、名前も知らないはずの関係だった。
そう、僕は彼女のことについて何も知らない。知らないはずなのに、僕は彼女を、無意識のうちに梓と呼んでいた。
僕は、どうしてしまったのだろう。僕は、誰だろう。
わからない。僕には「僕」が、わからない。
だって僕は、轟陽人ではないから。
今の僕が何者なのかは、僕にもわからなかった。それなのに漠然と、轟陽人ではないという強い思いがあった。
それでも、わかることもあった。
僕は、生きたかった。生きて、やりたいことがあった。
そして陽人は、死にたかった。死んでしまいたいと、願っていた。
だから僕は、陽人になった。
つまり――そう、これは僕の夢のようなものなのだ。
ああ、わからないことだらけだけれど、わかることがもう一つあった。
僕の心残り、僕のやりたいことには、河野梓、彼女が関係しているかもしれないということ。
詳しくはわからないけれど、僕の直感が、魂が、彼女を求めていた。
彼女と、話をしたかった。屋上にやってきて、僕を見て涙した彼女。
空を見上げて、その青さを恐れるようにきゅっと目に力を入れた彼女。
顔色が悪い彼女。ぶつかったその姿に無意識のうちに手を伸ばしていたのは、彼女を支えるためではなく、たぶん、彼女を取り戻すため。
取り戻す?よくわからない。それじゃあまるで、僕が彼女の元彼だったみたいじゃないか。
そうではない、と思う。もっとこう、深くて、大事なつながり。
それが何か、わかりはしないのだけれど。
僕は、彼女と何かかかわりがあったのだろうか。
僕は、一体何者なのだろうか。
なんて、そんなことを心の中で問いかけれも、誰も答えてはくれない。
轟陽人は、今も心の奥底で眠っている。
居候の僕は、思ったよりも早い手がかりに内心で喚起しながら、どうやって彼女とかかわりを持とうかと考えた。
まあ、その計画を実行に移す必要はなく、すぐに関わる機会がやってくるのだけれど。
まるで、運命が僕と彼女を再びつなぎ合わせようとしているように。