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 テニス部に向かう結花と別れた私は、気まぐれに図書館に足を運んでいた。図書館といっても市営図書館じゃなくて、学校内にある、通常学級よりやや広いかどうかといった教室だ。図書室と呼べばいいのにと思うけれど、かたくなに図書「館」と呼ばれるのは何か意味があるのだろうか。なんて、どうでもいいことを考えながら廊下を進む。

 扉を開けば、冷たい冷気が頬を撫でる。

 入ってすぐ右手には、たくさんの棚が迫るように置かれている。ずらりと並んだ天井すれすれの棚にぎっしりと本が並ぶ光景は、さすが中学校だと思う。本のラインナップも幅広く、漫画を除けばおよそ全ジャンルの本があるのではないかと思う。


 棚の横を真っすぐ進み、角で左に曲がればカウンターが見える。

 貸出カウンターに座る黒いカーディガンを羽織った女子生徒が、開いていた本から顔を上げた。日本人形のような端正な顔立ちをした彼女は、私を見て小さく首をかしげる。長い艶めいた黒髪がさらりと揺れて、彼女の白い片頬を隠した。

 その目は、好奇心の輝きを帯びて私を映している。


 彼女は斎藤(さいとう)初音(はつね)先輩。私より一つ年上で、中学三年生。図書委員長であり、図書館が開いている日の半分ほどはこうしてカウンターに座って本を読んでいる。一部の生徒たちの間では「図書館の女王」と呼ばれている。どちらかというと女王というより深窓の令嬢と表現したほうが正しい気がする。


 彼女は今日も、混じりあうことのない白と黒。どこか人間味の薄い色合いが、彼女の常だった。

 一瞬、真っ黒な瞳が瞼の奥に隠れる。その次には、瞳にはいつもの涼しげな光が戻っていた。


「あら、河野さん。今日は部活があるのかしら?」


 やや眠そうな声に、私は小さく頷く。

「こんにちは、斎藤先輩。部活の日は明日です。今日は暇だったので本でも読んでいようかと」

「そう、今日は新しく入った本はありませんよ」


 言いながら、斎藤先輩は手に持っていた本に視線を戻す。

 髪を耳へと掻き上げる彼女に頭を下げて、私は本棚の森へと一歩を踏み出した。

 この中学校には部活動が少ない。先生たちは大勢の生徒たちの指導で手いっぱいで、部活動にあまり手がまわらないから。そう生徒たちの間では噂されている。実際のところは、たぶん部活動をするスペースがないからだと思う。

 生徒数の増加に伴って校庭の一部に校舎が建ち、グラウンドが狭くなった。そうすれば必然的に活動できる運動部の数は減る。

 王道の男子サッカー部、野球部、結花が所属している女子テニス部、女子バドミントン部、男女両方所属できる陸上部が運動部だ。そして文化部の皮をかぶった運動部である吹奏楽部と、文芸部。

 唯一といっていい文化部である文芸部。その活動場所が、北館の端にくっついた別棟、特別活動室の上にあるこの図書館だ。


 本棚の森の奥には、長テーブルが四つ並べられている。そのうちの二つほどを使って部活を行う。

 ほかの部活に比べて文芸部の活動日数は少ない。基本的に月に二回のみ。この中学校は文化祭という名前詐欺な合唱コンクールだけしかないため、文化祭で配るための部誌を作るという活動もない。


 部活動が少なすぎるという保護者からの苦情と、運動部の顧問を受け持ちたくなった先生の提案に対応して文芸部は作られたのだという。公立中学校の平均的な部活動の数は知らないけれど、この学校の部活の数は少ないのだろうか。


 そんな理由で作られた文芸部は、基本的に部活とは名ばかりの集団だったけれど、そののんびりした雰囲気が私は好きだった。

 文芸部に所属してからすでに一年。なんだかんだ充実しているし、入部してよかったと思う。


 昔から本が好きで、気づけば自分で小説を書いていた。

 初めて書いた小説はご都合主義満載で極甘な恋愛小説で、しかも読み返してみたらヒロインに自分が重なる気がして戦々恐々とした。今では立派な黒歴史だ。

 一度の挫折を経て、それでも私の筆は止まることはなかった。頭に浮かぶ空想を重ね、筆を進め、私は物語を描き続けた。


 運動部に入るほどの体力はなく、運動部の雰囲気も性に合わなかった。さすがに部活に入らずに灰色の中学校生活を過ごす気はなかったので、私の一個上の先輩の代から始まった文芸部の存在はありがたかった。

 ちなみにカウンターにいた斎藤先輩は文芸部の初代部長だ。実に二年もの歳月を部長として文芸部に君臨し、今でも図書委員として図書室でよく姿を見かける。


 受験勉強は大丈夫なのだろうか。たぶん、大丈夫なのだろう。非常に要領がいい斎藤先輩は、あまり勉強をせずともテストで高得点が取れる天才肌なタイプだ。

 私とは大違いだと思う。何度も書いて口にして文字を目で追って、ようやく内容が頭に入る私としては羨ましいかぎりだった。いや、私が勉強法を改良しないといけないということだろうか。


 並ぶ背表紙を目で追いつつ、少しずつ近づいてくる受験勉強から目をそらしながら、私は本の森を進んでいく。

 本の背表紙を追っていた指が一冊の本で止まる。かすれてタイトルが消えて見えない、重厚な赤い表紙の本。私はゆっくりとそれを棚から引き抜いた。


「……懐かしい」


 手の中に納まった分厚い本。日焼けの跡がはっきりと残るその本を傾ければ、蛍光灯の光を反射して表紙に文字が浮かび上がる。

 『はてしない物語』

 私が小学四年生の頃に読んだ、読書記録上二作目の長編だった。


 少年心に冒険を楽しんだ過去は、もう遥か遠くのことのように思えた。記憶をたどるも、あまり内容は思い出せない。

 ちなみに、私が初めて読んだ大作は『精霊の守り人』。引き込まれるようなファンタジーの描写は、私に音や感触、においすら錯覚させた。

 気づけば私はファンタジーにはまっていて、続くシリーズを読みふけっていた。おかげで女子とは話が合わなくて、教室の片隅で本の虫になっていた。


 そういえば、あの作品とはどんな出会いをしたのだったっけ。はてしない物語はその装丁が恰好良かったからだけれど、あれは――

 ぱち、と蛍光灯が瞬いて、私の意識は現実に舞い戻った。

 いくら考えても思い出せない過去に頭を悩ませているくらいならば、もう一度本を読み返すほうが何倍も楽しい。新たな発見と興奮を期待して、私は誰もいない読書スペースの端、窓から光が差しこむ長テーブルの奥に座る。文芸部がないと、このスペースを利用する人はまずいない。

 静寂に満ちた図書室の空気を肺いっぱいに吸い込んでから、本を開く。





 ピー、と甲高い音が響き、はっと顔を上げる。

 空はまだ青かった。夕焼けに染まっていないのはもちろん、強風が雲をすべて吹き飛ばしてしまったように、見渡す限り雲一つない晴天が広がっていた。


 本を閉じて体を伸ばす。凝り固まっていた肩がパキパキと音を立てる。

 目の疲れを感じて眉間をもみほぐしながら、閉じた本を手に立ち上がる。ふと、視界の端を小さな影が走り抜ける。また猫かと思ったけれど、窓ガラスの向こうを駆け抜ける存在はずっと小さかった。


 生徒数に全くあってない狭いグラウンドは、使用したい部活動が交代で使うことになっている。たいていは二つの部活が半々で使うのだけれど、今日は陸上部が全面を使って練習をしているみたいだった。

 それぞれが専門競技の練習をする中、グラウンドを一斉に疾走するいくつもの影が目についた。

 その中の一人の姿に、私は目が吸い寄せられる。

 しなやかな足取りで、四十メートルほどを駆け抜ける男子の姿が、そこにあった。

 少し癖のある黒髪を大きく揺らすのは、轟陽人くんだった。顔は見えないけれど、なぜだか彼だと確信した。多分、静かで、かつどこか気品を感じるその走り方のせいだろう。

 彼は横に並んで一斉に走るどの生徒よりも涼しげで、まるで風のように軽やかに駆けていた。


 彼は自由だった。グラウンドの上、どこまでも広がる空のような自由さで、並ぶ皆を置き去りにして白いラインを踏み越え、減速する。

 友人らしき男子に投げ渡された青いタオルを首にかける。目を凝らせば、小さく笑う様子がわかる。その姿を、私は窓に手をついて、じっと見降ろしていた。

 どうして、だろうか。彼のことを見ていると、心臓が不思議な鼓動を刻むのだ。

 恋とは、少し違う気がする。


 彼はほかの生徒とはどこか違う雰囲気を放っている。どこか違う、色をしていた。

 彼は、青空の色がよく似合う人物だった。その色に、その気配に、その存在に、誰かを、何かを、思い出した気がした。

 思考がゆっくりと形を成す。浮かんできたのは、白と黒の――


「……さっきの、ぶち猫?」


 そうだ。さっき、四階にある音楽室の窓の先に見た猫だ。彼は、その猫にひどく酷似している気がした。音のない走り。自由で、どこか浮世離れしている存在。

 自由?何から自由でいると私は思ったのだろうか。重力から?大地から?

 ――あるいは、死、から?


 目の奥がズキンと痛んだ。

 一瞬にして視界がぶれる。耳の奥で、か細い鳴き声が聞こえた。

 慌ててテーブルに手をつく。手に当たった本が、ゆっくりと傾き、落下を始める。

 どさりと音を立てて本が床にぶつかる。その赤い表紙に、目が吸い寄せられる。

 読んだことがある、はずだった。読書記録を取っているし、その過去の読書記録の中に本の名前はあったはずで。

 けれど、私はこの本を読んだ覚えがなかった。小学校の図書館で借りたと記録に書かれていたこの本を、借りた覚えもなかった。借りて読んでいた、つもりだった?


 耳の奥、猫の鳴き声が大きくなる。まるで私を呼んでいるように、声に必死さが増していく。

 僕を見て、僕を思い出して――そう、叫んでいるような気がした。

 しゃがんで、本を拾おうと手を伸ばす。

 次の瞬間、床に落ちた本の輪郭がぶれ、赤が視界にあふれた。床を、手を、浸食するように、赤が私の視界を染め上げる。


 その色が、何かに重なる。


 鉄さびのにおい。全身の熱。激しい耳鳴り。砂のにおい。冷たくなっていく、体。そして、地面に広がる血だまり。


 現実と幻覚の境界があいまいになっていく。

 自分が倒れているのか、立っているのか、それすらもわからなくなって。

 次の瞬間、私の視界は暗転した。


 遠くで、か細い猫の鳴き声が響いている気がした。

 それはきっと、異変を悟った斎藤先輩の声だったのだろう。



 ◇



 ゆっくりと、目を開く。

 視界の中に映るすべては、少しずつ輪郭がはっきりしていって、白い天井とカーテンがあらわになる。

 ズキンと頭の奥が小さく痛んだ。思わず頭に手を当てる。小さく呻けば、揺れたカーテンの先から養護教諭の女性が現れた。電話を片手にどこかへ連絡を取ろうとしていたらしく、わずかに呼び出し音が聞こえた。


 目があった彼女は、ほっと息を吐いた。どうやらかなり心配されていたみたいだ。ええと、確か、図書室で倒れたんだっけ?


 電話から手を離した彼女は、近づいてきてベッドの横に置いてあった椅子に座る。

 うっすらとした紫色が晴れていく。安心の吐息を漏らした彼女の姿はとてもなまめかしかった。こんな人が養護教諭で、大丈夫なんだろうか。いらぬ心配をできるくらいには、私は本調子だった。


「気分はどう?」

「少しだけ頭痛がします」

「倒れたという話だけれど、頭を打ったのかしら?それとも脱水症状かしら。水分はとっていた?」

「……あまりとっていない、かもしれないです。あと、こぶができてる感じじゃなくて、こう、頭の奥が軽く痛むというか、ぼんやりするというか」

「そう、だとすれば中度……軽度の脱水症状かしら。こまめな水分補給に気を付けてね。……どうしようかしら、意識がなかったから救急車を呼ぼうとしていたのだけれど」

「そ、それは大げさですよ。大丈夫です。ちょっと立ち眩みがしただけだと思うので」


 慌てて止めれば、彼女は少しだけ困ったように目じりを下げる。思い出したように一度カーテンの向こうに戻り、携帯電話の代わりにスポーツドリンクのボトルを手にして戻ってきた。

 手渡されたスポーツドリンクはまだ冷えていた。冷房のせいか、汗を吸った下着が冷えてわずかに寒気を覚えた。

 親切にも途中まで開けられていたペットボトルの蓋を完全に開き、口をつける。ひどく喉が渇いていたらしくて、水分は滑るように胃の中へと入っていく。

 半分ほど飲んだところで手を止めて、大丈夫だと示すように頷いてみせた。たぶん、救急車で搬送されるという恥ずかしい状況は避けられたのだろう。

 そう思ったら、音を立ててカーテンが開かれ、やや焦燥感をにじませる斎藤先輩が顔を見せた。


「本当にほかに体に違和感はない?突然音がして倒れているのを見つけたのだけれど、どこかぶつけたりしていないかしら」

「はい、大丈夫です。この通り、もう特に違和感があるところはありませんから」

 申し訳なさでいっぱいになりながら力こぶを作って見せれば、斎藤先輩はホッと安堵の息を吐いた。


「ありがとうございました」

「いいのよ」


 静かに首を振る。

 斎藤先輩が保健室まで私を運んでくれたのだろう。だとすれば申し訳ない。意識を失った私はさぞ重かっただろう。

 体重ではなく、意識がない人を運ぶのは大変という意味であって、私はそれほど太ってはいない、はず……。

 そんなことを考えていると、感極まった様子の斎藤先輩が私に抱き着いてきた。


「え、ええと……先輩?」

「心配したのよ」


 震える声でそう言われて、罪悪感で胸がいっぱいになった。太っていやしないかとか、そんなことを考えているようなタイミングじゃなかった。

 言葉の通り、彼女には心配の色が見えた。

 柔らかな胸の感触を感じながら、私はなすがまま斎藤先輩の抱擁を受け続けた。

 しばらくして、斎藤先輩は恥ずかしげに頬を赤らめながら、おずおずと腕を離した。困ったように視線をさまよわせる先輩のかわいらしい姿に心臓が小さく跳ねる。

 思わず笑ってしまった私に文句を言うように、先輩はじゃれるように軽くこぶしを振る。

 楽しげにふるまう中、私の心の中は先ほど得た気づきでいっぱいだった。


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