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3窓の外

「ちょっと、どうしたのよ梓?あんた今日おかしいわよ?」

「……そう?」


 静寂から一転、結花の声に続いて喧騒が戻ってくる。

 ハッと顔を上げれば、目の前で結花が手を振っている。慌てて視線を巡らせれば、すでに教室ではクラスメイト達が帰り支度をしていた。

 椅子をひっくり返して机の上にあげ、リュックサックに加えて部活カバンを肩に提げた男子生徒が私の横を足早に通り過ぎて行く。

 帰りのHRも終わっているみたいだった。まったく記憶にない。

 教室にはすでに担任の姿はなくて、HRが終わってから少しばかり時間が経っているかんじ。

 視線を前に戻せば、そこには相変わらず私に向かって手を振る結花の姿があった。

 白くて傷の一つもない肌が、半そでの先に惜しげもなくさらされている。

 今日の結花は黄色にオレンジといった感じだろうか。少しとげがある感じ。

 そんなことを思いながら視線を上げていけば、大きな胸に、やや癖毛なセミロングの髪が映る。ふわりと顔を覆う髪の奥には、小さくてかわいらしい顔。少しだけ吊り上がった勝気な目は零れ落ちそうに思うほど大きく、鼻やあごはすっと整っていて、唇はつややかなピンク色。顔のパーツの配置も申し分なくて、きめ細かい肌と相まって、十人が十人とも美人だと表現するだろう結花は、私が所属するグループの中で最も親しい相手だ。


 どうして結花がぱっとしない私と仲良くしているのかは少し不思議だけれど、たぶん少しばかりとっつきにくい性格のせいではないだろうか。結花は言いたいことをズバッと口にしてしまうところがあって、一部の女子からは敬遠されている。まあ、その容姿とさっぱりした性格が理由で男子にモテているというのも、一部の女子たちとの不和の原因になっているのだろう。

 そう思えば、私は結花の容姿をうらやむ気は起きない。面倒ごとを持ってくるような容姿なんて邪魔でしかない。

 大丈夫かと心配そうに顔を覗き込んでくる結花はカバンを身に着けている。このタイミングで声をかけてきたということは、早く帰ろう、という提案だろうか。


「結花、今日は部活ないの?」

「あるわ……って違うわよ、掃除当番でしょ。ほら、早く行くわよ」


 いつまで経っても帰り支度をしない私の腕をつかんだ結花が、強い力で私を椅子から引っ張り上げた。

 さすがテニス部。部活で鍛えられた筋肉と、細い腰には感心しかない。


「……あ、ちょっと待ってて」


 鞄に何も入れていなかったことを思い出して、私はあわてて机の中の教科書を詰め込んで後に続く。

 あきれ顔の結花の横に並べば、小さな嘆息が聞こえた。


「そんなもの、置いていけばいいじゃない。重いでしょ」

「でも置き勉は資料集以外ダメだって話だし……」

「はぁ。真面目なのはいいけど、どうでもいいルールを守って馬鹿を見るのはどうかと思うわ。大体、学校に置いて行っていいのが資料集だけだっていうのがおかしいのよ。別に毎日家で使うわけじゃないんだから、分厚い教科書はおいていけばいいのよ。特に国語と社会よ」

「あー、社会はともかく、国語って使わないよね」


 両手を広げて肩をすくめる結花を見ながら、私は苦笑するばかりだった。どうだろう、ここは結花にならって家で使わない教科書を置いていくべきだろうか。

 正直、肩に食い込んだ鞄の持ち手が痛い。対して結花の鞄は軽そうだ。まあ、部活用の運動着とかシューズを入れてきている結花の鞄は、教科書を詰め込んだ私の鞄より膨れてパンパンになっているのだけれど。

 重い原因は一年を通して使う国語の教科書だろうか。分厚いうえに大判。


「さすがに中学上がってからは音読の宿題もないしね」


 言ってから思う。音読の宿題って、懐かしい響きだ、なんて。

 中学生になってからは「この範囲を読んできてね」という程度の指示はあったが、「読む」というのだから黙読でいいだろう。まあこの年になって親に音読を聞いてもらうというのは恥ずかしいことこの上ないし、これも成長なのだろう。

 少ししんみりしていると、結花の嘆息が聞こえてくる。


「あたしは音読嫌いだったわ。親が早くに帰ってこなくて聞いてもらえなかったからサインもしてもらえなかっただけなのに、担任がグチグチ文句を言うのよ。ほんと、あのおばちゃん先生、腹が立ったわ」

「あ~、北条先生?あの人、思い込みが激しかったよね」


 ……ああ、結花と仲が良くなったのはこうして小学校の話題を共有できるからかもしれない。同じ小学校出身ではあるし、結花と同じクラスになったこともあったけれど、私は結花とあまり話すことがなかった。グループが違ったのだからそんなものだ。

 もっとも、互いに相手のことを覚えていたから、中学に入ってから同じクラスになって、なんとなく話すうちに一緒にいることが多くなった。結花がいなかったら、私は違うグループに所属して学校生活を過ごしていたと思う。

 だからどう、というわけでもないけれど。


 昔話、というか昔の担任の愚痴を言い合っているうちに目的の音楽室にたどり着いて、私たちはさっそく掃除を始めた。

 北館四階。階段を上がってすぐのところにある音楽室は、主に三年生が使う教室だ。生徒数が軽く千人を超えるこの中学校には、音楽室が二つある。だから私たちは二年の初夏となった今の時期も、まだこの音楽室を使ったことがない。


「ほんと、おかしいよね。三年生が使う教室をなんであたしたちが掃除するんだか」

「共用のスペースだしね」

「三年生が掃除すればいいじゃない。四階とか、上ってくるだけでも面倒なのよ。せめて一階に教室があるあたしたちのクラスじゃなくて、二階とか三階に教室があるクラスが掃除当番になればいいじゃない」

「でも、代わりにお手洗い掃除の担当学級に選ばれるかもしれないよ?」

「……そうね、妥協するわ。トイレ掃除に比べれば四階まで上がって、使ったこともない教室の掃除をするほうがましね」


 今の学級ではお手洗いの掃除がないことに焦点を当てれば、結花は愚痴を止めた。相変わらず眉間には深いしわが寄っていて、不満たらたらなのは明らかだったけれど。

 そんな不機嫌そうな結花に怯えて、男子は遠巻きに私たちに視線を送りながら床を掃いていた。その視線のいくつかが結花の胸元に向かっているのはいつものことだ。ピンクと、雑多な色が混じりあったマーブル模様の気配。

 少しばかり吐き気がした。


 というか、結花はもう少し男子の視線に頓着するべきだと思う。ボタンを二つも開いているせいで谷間は見えるし、かがめばブラが姿を見せるのだ。

 ただでさえ夏服で防御力が低いのに、少し気を抜きすぎじゃないだろうか。まあ私も暑いからボタンを一つ外しているけれど。

 そう、私は一番上まできちんとボタンをとめるほど優等生ではないのだ。

 ……一体誰に言い訳をしているのだろうか。考えていて無性に恥ずかしくなって、私はうつむいて掃き掃除に集中した。


 ちなみに、この学校には衣替えの決まった日付は存在しない。生徒はそれぞれが勝手に夏服と冬服を変えることになる。だから生徒によっては一年中冬服、あるいはその逆でずっと夏服を着ている生徒もいる。今の生徒は九割が夏服。昼間は暑いけれど、夕方、風があるときなんかはまだ肌寒い。だから私も朝と夕方はブレザーを着ている。

 そんなことをいちいち心の中で確認しているのは、きっと昼に見た彼の姿を思い出したから。

 轟くんもまだブレザー姿だった。日中もずっと着ているけれど、暑くないのだろうか。


「梓、見て」


 ふと気づくと結花は掃き掃除の手を休めていて、ほうきを杖のように突いて窓の先をにらんでいた。声をかけられて、私は顔を上げて結花を見て、それから結花が指し示す窓の先に視線を向けて、困惑に目を見開くこととなった。

 遠くに見えるのは校舎、けれど今日はそれよりも手前に一つの影。


「……猫?」


 黒と白のぶち猫。夏毛のためか、その体はひょろりと細長い。やや緑っぽい金の瞳の中心で、窓ガラスの奥にいる私たちを透かし見るように瞳孔が開かれる。

 一瞬、その目が空色に染まった気がした。たぶん、私の見間違いだ。暑さで疲れているのだと思う。


 立ち止まって私たちをじっと見ていたぶち猫はおもむろに背中をそらし、小さくあくびをする。それから、窓の奥にあるわずかな幅の道を軽快な足取りで進んで、私たちの視界の中から歩き去っていた。


 その姿が消えてようやく、忘れていた呼吸を思い出したように誰かが大きく深呼吸した。


「すごいね。ここ四階でしょ?一体どっから上って来たんだか。度胸のある猫ね」


 いや、度胸という問題なのだろうか。消えていく猫の後姿を眺めながら、私はかつてない光景を前に目を白黒させていた。

 遠く、なおぅ、という小さな猫の声が聞こえてくる。その声に、別の猫の鳴き声が重なった気がした。

 一瞬、暗いところから炎天下に出た時のように、視界が閃光に包まれた。その奥に、雪のように白い毛並みをした猫の姿を見た気がした。


「――さ、梓?」

「あ、っと。どうしたの、結花?」


 気づけば再び結花が私の顔の前で手を振っていた。

 何度も声をかけていたのか、いぶかしげに眉根を寄せている。私の体の奥まで覗き見ようとするような、鋭い目。

 なんとなくその視線から逃げたくて窓の外に顔を向ける。

 そこにはもう、あの猫の姿はない。


「……梓、あんた今日やっぱりおかしくない?」

「ちょっとぼうっとしてたかも。夏バテかな」

「そう?ならいいけど、気を付けなよ」


 さっさと掃除を終わらせよう、と梓は大雑把な動きで床を掃いていく。集めたごみを塵取りで集めて、教室後方に移動させていた机を元に戻す。

 今日は前を掃いたので、明日は後ろを掃けばいい。この音楽室の掃除を監督する先生の提案のおかげで、何度も机を運ぶ必要がないのはありがたい。まあ、あまり使っていない教室を毎日そこまで丁寧にする必要はないということだろう。

 机を戻せば、太った男性教員が額の汗を拭きながら教室を見回し、それから満足げにふんすと鼻から息を吐いた。

 汗のにおいに混じって、制汗剤のきついにおいがした。


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