2はじまりの瞬間
轟陽人くんは、中学に久しく来ていない。いわゆる不登校だった。理由は知らないけれど、中学一年生の途中から、彼は学校に来なくなった。
一年生の時から同じクラスだけれど、彼との交流は少なかった。正確には、ほとんどなかった。彼は背中を丸め、一人で頬杖をついてのんびり空を見上げているような、どこか厭世的な雰囲気をまとった男子だった。
男子の中には彼と話す者もいたように思う。特に、彼が所属している陸上部の生徒と会話をしている場面を数度見かけた気がする。ほかの男子たちとは違って、彼らの会話はバカ騒ぎというわけではなく、連絡事項を中心にしたものだった。
彼は、どこか距離のある人付き合いをしていたような気がする。あるいは、どうにも踏み込みづらい雰囲気を放っていたといえばいいのだろうか。
だから、少なくとも私は彼とろくに話したことがなかったし、彼のことなんて、ほとんど全く知らなかった。
そんな彼が学校に来なくなってから、約一年。
中学二年生の今年、初夏のこの時期に彼はふらりと学校に現れた。
理由は知らない。正直、興味もなかった。せいぜい、これまで教室にあった無人の机に人がいることに少しだけ違和感があったくらい。交流のなかった私の感想は、その程度。
机に肘をつき、背中を軽く丸めて大きなあくびをする。
その背中を見ながら、首をかしげる。
一年のブランクを経て学校に戻ってきた彼は、それまで以上にはかなく、まるで今にも空気に紛れて消えて行ってしまいそうに見えた。
なんて、きっと私の気のせいだ。
そんな彼が、登校初日、ふらりと立ち上がって昼休みの教室から去って行った。その後ろ姿に、私は何か言いようのない不吉さを見出したのだと思う。
気づけば私は友人に断りを入れて、食べかけのお弁当箱に蓋をすることもなく教室を飛び出していた。
左右に続く廊下を見渡せば、行きかう生徒たちの奥に、音を立てずにリノリウムの床を踏みしめて進む彼の姿があった。
別にわざと足音を消しているわけではないのだろうけれど、彼からはあらゆる音が感じられなかった。するりと人込みの間を滑りぬけながら、彼はまっすぐに廊下を進んでいた。
寂しげな背中を、必死に追った。押しのけるように横を通れば、相手の生徒が小さく文句を言ってきたけれど、小さく頭を下げるだけにとどめて、彼の背中を見失わないように努めた。
彼の姿は、そのうちに人気の少ない上の階へと移動していった。音楽室や視聴覚室などの特別教室が並ぶ四階の廊下には、彼以外の生徒の姿はない。
見つからないようにと歩く速度を落とす。
果たして彼は私の追跡に気づくことなく、そのまま廊下の突き当りまでまっすぐ進んで、さらに階段を上った。その先にあるのは、屋上へと続く扉。
危険だからという理由で、私たちが通うこの学校も屋上は立ち入り禁止になっている。鍵が閉まっている屋上に用があるのではなく、屋上へと続く人気のない階段に用があったのだろうかと、そう思った。
私も、たまに無性に一人になりたいことがあると、この階段に足を運ぶことがあった。廊下や特別教室から死角になった階段は薄暗い上に埃っぽくて、告白の場所にもなりはしない。生徒たちもわざわざ四階に上ってくることはまずなくて、人気のないそこは一人になるには恰好の場所だった。
だから、彼も一人になるためにこの場所に来たのだと私は悟ったのだ。
男子も一人になりたいものなのだろうかと不思議に思い、同時に少しだけ親近感がわいた。男子はいつも能天気で、グループを作ることもないその自由さはうらやましくもあり腹立たしくもあった。
グループに所属していない女子はクラスなどの集団から排斥される。そして所属するグループの地位によって、クラスでの立場が決まる。だからグループ選びと、グループから排除されないための協調性が大切で、そんな協調を必要としない男子たちにはあこがれもあった。
けれど、男子は男子で私には想像もつかない苦労があるのかもしれないと、少しだけそう思う。
私は廊下の角に体を隠しながら小さく息を吐いた。不吉な予感は、気のせいみたいだった。
彼の背中が、屋上へと続く階段の先へと消えていく。私もまた、くるりと反転して階段を降りようと彼に背を向けた。
結花になんて言おうか。というか、私はどう言い訳して教室から出たのだったか――そこまで考えたところで、金属がカチャリと鳴る音が聞こえてきた。
廊下を吹き抜けた風が、背後から私の髪をなでて通り過ぎて行った。埃っぽい空気は、そのまま階段を下っていく。
髪を軽く抑えつつ、背後を向く。
「……え?」
音は続く。
さび付いた金属の音。窓を開閉する音よりも重いそれは、たぶん屋上へと続く扉を開いた際のもの。
どうして鍵がかけられているはずの扉が開いたのか、気にはなったけれど、それ以上に私は焦りでいっぱいだった。
やっぱり、予想通り彼は自殺しようとしているのではないか――今朝のニュースで見た中学生の自殺の話が頭をよぎった。
ああもう、あんなニュースを見るんじゃなかった。
朝ごはんのパンに塗ったバターとコーヒーのにおいを思い出しながら、階段を降りようとしていた足を止めて、慌てて廊下の先へと走った。
自分の学校で自殺者が出るなんで冗談じゃない――軽く息を弾ませながら、屋上へと続く扉をにらむ。
さびのせいか、完全に締まることなくわずかに空いているその扉の先から、まばゆい陽光が暗い階段に差し込んでいた。スッポトライトのような細い光の中でほこりがきらめき、どこか幻想的な光景を作り出している。
悩むのは一瞬。私は彼が何をしようとしているか確認するために扉へと手を伸ばし、なるべく音が聞こえないように静かに扉を開いた。
扉の先にいるだろう彼に聞こえてしまうのは構わないから、どうか三階まで音が届かないように――
巻き添えを食って叱られてしまう予感を覚えながら、私は扉を開いて。
そうして私は、屋上で空へと手を伸ばす彼に出会ったのだった。