1プロローグ 空色の君
いつからか、青空を見上げると不思議な寂寥が心を焦がすようになった。
その感情は、時に狂いそうになるほどに心を急き立てた。
早く動けと、そう叫んでいた。
けれど、どれだけ記憶を探っても、その感情の理由が思い浮かぶことはなくて。その感情が求める何かを、見いだせずにいた。
ただ、分かるのは。
自分はいつだって、広がる空の青さに、心を震わせているということだった。
◇
吹き抜ける強風が耳元で鳴り響き、さび付いた鉄柵はギシギシと嫌な音を響かせる。灰色の床は雨風にさらされているためか汚らしい。
そんなすすけた屋上に、彼は立っていた。
校舎の屋上、中央付近に立つ彼の、少し長めの髪を強風がはためかせる。
紺色のブレザーに身を包む彼は、何かを求めるように空へと手を伸ばしていた。何かに恋い焦がれるように、願うように、空に向かって手のひらを広げる。
けれどそこには、何もない。当然、誰もいない。
彼の手は何をつかむこともない。
懸命にもがくようなその姿は私の心に何かを訴えた、気がした。彼の体が、なぜだか、空を駆け抜ける雲の切れ間に広がる青空に、溶け込んでしまいそうだと思った。
色白の頬を、一筋の涙が伝う。
そのはかなげな姿に、私は息をのんだ。彼の姿に、空の青が重なる。まるで空が落ちてくるように、青が彼に侵食していくような錯覚を覚える。それは、涙をたたえる瞳が、澄んだ青の色味を帯びたように見えたからかもしれない。
青に飲まれるその姿に、何かが重なった気がした。空色の瞳、白い体。柔らかな太陽のにおいと、心地よい温もり――
強い風が吹き抜けた。
手を下ろし、はためく髪を抑えた彼が目を瞬かせる。
うつむきがちになった目は、ふと視界の端に映る存在――私の姿を捉えたみたいで、ゆっくりと白い顔がこちらを向いた。
整った顔に、少しだけ女性っぽい体つき。身長は低くて、たぶん私とほとんど変わらない。あまり学校に来ることもなかった彼の肌は、外出が少ないせいかやけに白かった。
青空を背に立つ同じクラスの男子生徒は、小さく首を傾げながら薄い唇を開いた。
「……梓さん?」
小さく、心臓がはねた。
彼が私の名前を知っていたということに驚いた。男子は、異性のクラスメイトを苗字でしか覚えていない――友人の話を思い出した。
その涼しげな声で呼ばれたことに、心が躍った。「河野」という苗字ではなく名前呼びだったせいか、顔が熱を帯びた。
そして何より、思い出すように口にされた私の名前に、不思議な深みと、多くの思いが込もっていた気がして、私は頭が真っ白になった。
耳もとで風が鳴り続ける。その音を、一瞬、遠くで響いた車のクラクションの音がかき消す。
少しだけ我に返って、髪を手で軽く押さえながら、「うん」と小さくつぶやいた。
「私の名前、知っていたんだね」
「……そう、だね」
私以上に不思議そうな顔をした彼が首をひねる。どうして自分は「梓」という名前を知っているのか――そう言いたげな顔をしていた。けれど、私のほうが困惑でいっぱいだった。
「どうして僕は、君の名前を知っているんだろう?」
そんなことを聞かれても困る。けれど同時に、私も似たようなことを感じていた。
どうして私は、ほとんど会話をしたこともないような目の前の男子に、強い懐かしさを感じているのだろうか、と。
そう、彼の姿を見て、私は不思議な哀愁に駆られていた。それはまるで、見上げる青空にもの悲しさを感じるのに似ていた。
けれど、それがどうしてか、私にはわからなかった。
「どうしたの?」
自分の頬を指さしながら告げる彼の言葉に、私は反射的に頬に手を当てた。
指先が、湿る。視界が、わずかににじんでいた。
「……私は、どうして泣いているのかな?」
気づけば、そう尋ねていた。先ほどの、彼の質問と同じように。
彼は、答えなかった。答えられなかった。
当然だろう。私が泣いている理由が、どうして彼にわかるというのだろうか。
困ったように苦笑を浮かべる彼の姿から目をそらすように、涙をこらえるように、私は上へと顔を上げた。
にじんだ空。強風によって千々に切れた雲がたゆたう、青い空。その色が、いやに目に沁みる。
青い空を見ていると、悲しみが胸の奥から湧き出てきた。やっぱりそれは、彼を見た時と、同じ感情のように思えた。
遠くから、何かの鳴き声が聞こえた気がした。
「大丈夫だよ、大丈夫」
静かな声で、彼が告げる。その言葉に、その不思議なリズムに、ドクンと心臓がはねた。
強くこぶしを握って、これ以上涙が溢れないように眼に力を込めた。
青い空の下。こうして私は、彼と最初の交流を持った。