episode.03
医務室は薬品が混ざり合った独特な香りがする。
「医務室に誰もいないってどうなの」
少し荒っぽい口調とは裏腹に、まるで割れ物を扱うかのようにそっとルーラをベットに下ろしたフィリオが呆れ気味なのは、言葉の通り普段常勤しているはずの保健師の姿が無かったからだ。
「…あり、がとうございました。私なら1人で大丈夫ですので」
ぎこちなく感謝の意を述べると、こちらに背を向けていたフィリオが振り返り目が合う。そして、グングンと距離を詰めてくるその光景は、数日前にキスをされたあの日の光景と類似していてルーラの鼓動が速くなった。
フィリオがベッドに片手をついて身を屈めると、顔と顔の距離が一層近くなる。
「な…なん、ですか…?」
「熱はなさそうだね。でも、君の大丈夫は信用出来ない。少し休むと良いよ」
「わっ…!」
肩を押されただけなのにコテンと簡単に倒され、即座に布団を掛けられる。ため息を吐きながらベットの傍に置いてある椅子に座るフィリオを横目で見ながら、またキスされるかもなんて身構えていた自意識に羞恥心が湧いてくる。
「……授業に遅れてしまいます」
羞恥で熱を帯びた頬を隠すように布団を被りながらチラリとフィリオを見ると、眉間に皺を寄せていつになく険しい顔をしていた。
「この状況で授業に出ようとしてるのが間違いだよ」
「いえ、私ではなくてあなたが…」
壁に掛かっている時計を見れば、なんだかんだで始業チャイムまで5分を切っている。教室までの移動時間と授業の準備時間を考えればここでゆっくりしている余裕は無いはずだ。
ほんの一瞬、フィリオは驚いた顔をしたような気がして、だが途端にルーラの心配とは裏腹にわずかに口角を上げた。
「体調不良の恋人を、一人残していけるわけがないでしょ?」
「………もう誰も見ていないですし、恋人ごっこは今は必要ないのでは?」
「残念。こういうのは、見えてるだけが全てじゃないんだよ」
つまり、フィリオは授業を放棄するほど恋人であるルーラの体調を心配する男を演じたいらしい。確かにこの状況でフィリオが授業に出なければ、大半の女子生徒は彼の思惑通りの想像をし、結果的に恋愛に夢を膨らませるだろう。
フィリオの言いたい事は何となく理解できる。
「でも、授業をサボってまで恋人といる事が、学園長の言う秩序が守られている状況とは思えません」
学園長からの依頼は、秩序を守った上での恋愛。生徒会もまた、学園の正しい姿を体現する為に存在している。
恋人の存在が授業に出ない理由になってしまうのはいかがなものか。
しかし、フィリオは依然得意げな顔のままだ。
「今回は明確な理由がある訳だしサボりじゃないよ。それに、この状況で僕と君が授業をサボったと思う人がいると思う?」
「それは…」
確かにフィリオは、体調が思わしく無いルーラをここまで運んできてくれた言わば恩人と言える。昼休みの中庭でその状況を見ていた生徒も多く、疑う余地は無い。
言葉に詰まっているとフィリオが続ける。
「誰もが僕たちを肯定する。特に君は成績も良い上に日頃の行いも良いからね。君が積み上げてきたものは伊達じゃ無いんだよ」
「……………」
「そして僕はそんな君に選ばれた唯一の男だ」
悔しいぐらいに自信満々なその表情。まるでルーラの努力の全てを当たり前に知っているとでも言いたげだ。
出来て当たり前だと、誰も、家族でさえ、ルーラの努力に目を向ける事はこれまで無かった。ただ認められたくて必死に生きてきたルーラはいつしか「生まれ持った才女」と称されるようになっていた。
期待は裏切ってはならない。誰からも必要とされないのがどれだけ虚しい事か、ルーラはもう知っているのだ。
「どうせ色々考え込んで昨日寝れなかったとかそんなとこでしょ?朝から顔色悪かったしね」
「……き…気づいてたんですか…?」
朝からと言うけれど、男女でクラスが分かれている為、フィリオと顔を合わせたのは廊下ですれ違った数秒だけだ。そんなに分かりやすく態度に出していたつもりは無い。むしろ上手く誤魔化せているとさえ思っていた。その証拠に、他の生徒や教師陣にも体調不良は悟られなかったし、メアリーだって今まで気づいていなかったのに。
「ちょっとぐらい甘えたって、誰も君を責めたりしないよ。僕が保証する」
「……………じゃあ…少しだけ……」
どうして彼の周りには人が集まるのか、何となく分かる。彼の言葉にはそうだと思わせる力強さがあって安心するのだ。
寝顔を見られるのが気恥ずかしくてフィリオに背を向け目を瞑ると、睡魔はすぐに襲ってきた。
「おやすみ、ルーラ」
微睡の中聞こえてきた穏やかな彼の声に、僅かに頬に熱が篭った気がした。
episode.04
明日以降更新予定です!