ショート この舌が覚えている味
有名料理店での下積みは戸を叩く時の想像よりも遥かに厳しく、遠い道のりだった。
料理長から皿を投げつけられ、先輩たちからは「独創性のない、平凡な料理人」というレッテルを貼られる。
安宿へと戻るなり、その日に作った魚料理用の調味液のレシピを復習し、少ない賃金で買い揃えた調味料と材料で料理長の作り出した調味液の味へと近づける。思うような味とならず、そのまま下水へと垂れ流す。そんな毎日を繰り返していた。
同じ材料でなぜこんなにも違いが出るのだろうか、と悩みながら歩いていると、一枚の看板が目に止まった。
「五味香辛料店」と書かれているその看板には、路地裏へと曲がるような歪んだ矢印が描かれており、こんな店があったのかという好奇心が休日の午後を明るく照らし出した。
「ごめんください、どなたかいらっしゃいますか?」
からんころん、と来客を知らせるベルが出迎える。店内はやや薄暗く、通りからガラス戸越しに差し込む陽の光だけが頼りだった。
店の奥から何かの出てくる気配を感じ、一瞬緊張で身が強ばる。こちらは客だし看板も出ているのだ、何を恐れる必要があるんだと自身を奮い立たせるが、さまざまなスパイスの香りが思考を妨げ不安を煽る。
「……いらっしゃい、初めてのお客さんだね。ゆっくり見ていくといい」
老婆にも見えるその姿に戸惑うが、おそらくこの声は老齢の男性のものだろう。
「ええ、いくつか見せて頂きます」
こう答えるのが精一杯なのは、肺に取り込みすぎると噎せてしまいそうなこの香気のせいだ。
南方に伝わるいくつかの香辛料、手に入りやすいものから希少価値の高いものまでがガラス瓶に入っており、それが店の壁を覆い尽くさんばかりに棚へと並べられている。厨房で見かけたことのない品名を見つけ、その瓶を手に取る。
「フタを開けてもよろしいですか?」
「ああ、もし必要であれば味見もしてみると良い。見た所……学生ではなく料理人なのだろう」
「はあ、仰るとおり。向こうの店で修行をしております」
言った後に気付いたが、平日の真っ昼間にこんな店へと訪れるのだから、カマをかける為の質問でもあったのだろう。
「変わった品があるから、こっちに来てみると良い。これなんか、もう手に入らないかも知れないよ」
レジの下から取り出された瓶を手に持ち、こちらへと見えるように細い腕を上げる。
近づいてみるとラベルには、「味のわかる舌」と書かれている。
「これは……現地の言葉の翻訳したものですか?」
「そう、南の国が原産で……確か一年でも限られた季節にしか穫れん貴重なモノだったはずじゃ」
「どんな味がするのか、一粒頂けますか?」
「こればかりは味見では済まない、それでも欲しいのなら……こちらに手を」
言われるがままに、その未知のスパイスを手のひらで受け止める。
「先に言っておくが、それは辛いぞ?」
「大丈夫です。色々な味で慣らしておりますので、ある程度は耐えられると」
「まぁ、出してしまったものは引っ込められないしな。今日はもう店を閉めるつもりだったから、もし気に入ったのならまたおいで」
左手に乗せられた小さな黒真珠のような光沢を放つ粒をまじまじと見つめながら、店を後にする。
一体いくらぐらいなのかを聞き忘れた事に気づき後ろを振り返ると、そこには何もない……ただの石壁があるだけだった。
何かしらに化かされたような気分ではあるが、左手に握ったその感触は確かにそこにある。
どんな味なのだろうか、という興味が恐怖よりも大きく心のなかに渦巻いている。気づけばそれを右手でつまみあげ、奥歯ですり潰していた。
不思議な味だった。一粒だけだというのに甘みと酸味、辛味が口中に広がる。フルーツのような香りもあるが魚臭さもある。今までに舐めたどのスパイスよりも変化に富んでおり、どれよりも深みのある味だった。
ふと、めまいがする。悪い物を食ってしまったか……と後悔しながら宿へと戻り、ベッドへと倒れ込んでしまった。
早朝の仕込みに寝坊した、と気付いたのは鶏の鳴き声が聞こえてからだった。
急ぎ支度をし、店の裏口から入る。
「下っ端が一番遅く来るとはなぁ、未来の料理長様は違うねぇ。今日もみっちりしごいてやるぞ」
舌の付け根あたりに苦味を感じる。燃えるような痛みが頬から舌へと突き刺すように襲い、思わずその場にしゃがみこんでしまった。
「お、おい。大丈夫か?」
先輩もこちらを伺うように肩へと手をかけ、心配してくれる。だんだんと口の中の味も薄れていき、「すみません、もう大丈夫です」と答える頃には何もなかったかのように消え去っていた。
珍しく料理長に一発で調味液を褒めてもらい、その分の空いた時間でいつもより皿洗いのペースも早く終わった。
「なんだアイツ、今日はやけに頑張るじゃないか」
背後から聞こえるひそひそ話が心を満たす。どこからともなく柑橘類にも似た優しい甘さを伴う香りが漂ってくるようで、この感覚を忘れないように自宅へと戻るなりレシピを再現する。
翌日も、その次の日も調味液は褒められた。皿洗いも淡々とこなし、今度は先輩方のサラダの盛り付けにクレームが入ったようだ。
「青虫のように見える、誰かが意図的にやったのならば悪趣味すぎる」
その言葉を聞いた瞬間に、吐き気を催した。口いっぱいに広がる苦味と酸味に耐えきれず、店の裏手へと駆け出した。
「なんだ、これは」
具合が悪いと嘘を付き、早上がりさせてもらった。
町は普段通るよりも人が多い時間帯で、通勤や通学の為の車が多く行き交っていた。
「その言葉に意味はあるか」というキャッチコピーの映画のワンシーンが液晶の中を流れていき、主役がそのセリフを口にする。それを見ながら「重みのある味」が口に広がる。
カフェでコーヒーを楽しむ客同士の言い争いが聞こえ、「現実味がない」という言葉が聞こえた途端、甘さとしょっぱさが嵐となって襲いかかり、「だからこそ不気味さが際立つ」という言葉は、ビターチョコに土を足したような不味さを舌の上に突然乗せられたようで、ただただ不快だった。
あの日、あのスパイスを味わった日から何かが変わっていた。
五味香辛料店という看板はいくら探しても見つからず、裏路地をくまなく探してもそれらしき店は無い。
外を歩くのが怖くなってしまった。店からの電話でクビにされたことを告げられ、心配した友人が何人も訪ねてきた。
その中でも特に中のよい友人……同じ時期に下積みで入って、先に辞めてしまった彼が無理やりベッドから叩き起こした。
「篭もっていても仕方あるまい、今日まで勉強したことを無駄にするくらいなら、料理人ごと辞めてしまえ」
最も言われたくない一言を聞いて落ち込むと同時に、口の中に広がるその味を噛み締めた。温かいコーン・ポタージュのような、それでいてクリームチーズにも似た乳臭さもある、不思議な味だ。
「すまないが、ここで待っていてくれるか?」
冷蔵庫の中から賞味期限の切れていない材料をかき集め、確かに感じたその味を再現しようとボウルの中身をかき混ぜ、ミキサーにかけ、裏ごしする。鍋で人肌のあたたかさに加熱したものをカップへと入れて、友人に差し出した。
「美味しい。こんなものを一体どこで……」
口の中に衝撃が走った。この味は今までに体験したどの味よりも素晴らしく、まさに筆舌に尽くしがたい。
今日も最後の一組を店のドアから見送る。両親の間で手を繋がれた子供が幸せな顔をしながら帰っていく。それはここまでにしてきた苦労を吹き飛ばす程の力を持っているに違いない。心の底から湧き上がる原動力を、キッチンの鍋へとぶつける。
私はその味をまだ再現できていない。
その一言を何度も聞きながら味をレシピブックへと書きとめる。お客様にこの味を共感して頂けるまで、最高の一皿が出来るまで、私が料理人を辞める事はないだろう。
「舌」「嵐」「苦しみ」をテーマに。
ショート・ショート風味で原稿用紙10枚以内。