上ー淹れたてのコーヒーは飲めない
入店のドアベルが鳴ると同時にカウンター席へと腰を下ろす。
僕が日頃から好意を寄せていたウェイトレスの姿は、店内の何処にもいない。
注文を取りにきたウェイターに、僕はカフェメニューで一番安いホットコーヒーを頼んだ。
親友は僕と落ち合う約束をしている。
郊外の中でも一際閑散としたこのカフェは、休日の午前に来店してもほとんど人気が無い。僕と親友はこの周囲の眼のなさと、通学している大学に近いという点が気に入り、今では遊びの取り決めがあろうとなかろうと、この場所を待ち合わせのシンボルとして利用させてもらっている。
視界の端に、銀のトレーが横切る。
ウェイターは注文したホットコーヒーを卓上に置くと、無表情のまま立ち去った。
湯気の立つコーヒーを一口だけすすり、反射的に眉を顰める。
ひどく熱い。危うく舌先を火傷しかけた。
数分待たなければ、コーヒーは飲めないだろう。
ちょうどいい。
約束を取り付けた親友は、少々遅れて来るらしい。
彼がここへ到着する頃には、コーヒーも飲みやすくなっているだろう。
〇
僕がこのカフェに抱いていた印象は、良くも悪くも「閑静」だった。
ただでさえ閑古鳥が鳴いているようなカフェに、休息や居場所を求めようとは思わないだろう。僕や親友のようなもの好きでない限り、ここに立ち寄るのは廃屋に住処を据えるのと何ら変わらない。
その「閑静」を耳障りな喘息で破いたのは、一人の男だった。
開扉とともに、軽やかなベルの音が鳴る。
男はぜぇぜぇと息を吐きながら店内を一瞥すると、僕が座るカウンター席の方向へと、その足を運び始めた。
男の見てくれは貧相だった。
四角ばった浅黒い輪郭に、白髪交じりの乱れた黒髪。手入れされていない無精髭は、口廻りを無法地帯にしている。麻で編まれたシャツはシワが蔓延り、ところどころ解れていた。
男は湯船に浸かった猿のように赤く、口呼吸をするたびに、黄ばんだ乱杭歯が黒ひげの隙間から蛇の眼のように見え隠れしている。
もし乞食とはどういう人間かと問われれば、僕は男を指差して立証するだろう。それほどに彼の容姿は、他者に不快感を与えていた。
汚らしい男は野武士のように胡乱な瞳で、カウンター席へと近づく。
男の視線と、物珍しさに彼を観ていた僕の視線が交わる。
すると男は口角を上げ、
「ここで、いい」
僕の真横の席へ腰かけたのだ。
〇
何故、僕の隣に腰を落ち着けたのだろう。
十以上あるカウンター席の、一番左端の席に僕は座っている。後から客が訪れた場合、よほど他人とコミュニケーションを取りたいと考えない限りは、空いている別の席へと座るはず。
だが男は僕の隣に座り、
「あー、アイスコーヒーでいい」
しわがれた声で注文をしたのだ。
「あの」
恐る恐る声をかけてみる。何とか説得をして、親友が座る予定だった僕の隣席から、立ち去ってもらおう。
「先約がいるので、別の席へと移動してもらえませんか?」
だが男はまるで気にせず、僕の隣で深いため息を吐く。
男の衣類からは、煙草か酒か判別しがたい不快な臭いが漂い、より彼の印象を負の方向へと進ませる。
「あの、席を退いては」
「兄ちゃん、幾つだ?」
ラジオノイズのような声で、男は僕の申し出を断ち切った。
それどころか、僕の個人情報を聞き出そうとしている。どうやらこの男、容姿と精神の浅ましさが比例しているらしい。
「どうして教える必要があるんですか」
「俺はな、今年で二十八なんだ」
言葉に詰まる。目算では四十代後半のホームレスと言われても遜色ない、みすぼらしい目の前の彼が、三十代にも満たないとは。質の悪い冗談であってほしい。
「兄ちゃん、名前は?」
男がまたしても質問する。これがカフェでいつも働いていた、あのウェイトレスからだったら答えていたかもしれないが、乞食同然の身なりをした男に教えてやる筋合いはない。
黙秘を貫くと、男は何がおかしいのか、僕の顔を見て微笑した。
「まぁいいさ。なら仮に、海老原さんとしよう」
一人頷く男。彼の脳内では、僕の苗字は本名と全く接点のない「海老原」と名義付けされてしまった。
「なぁ海老原さん」
男は海老原と決め込んだ僕の顔を見て、笑いかけた。
「あんた――人を殺したことあるか?」
思わず男へと顔を向けてしまった。
彼は今、何と言った? 人を、殺した経験があるかだと?
見知らぬ他人とのトークテーマとしては、論外だろう。どこまで人を不快にすれば気が済むのだ、この男は。
「俺はな、あるんだよ」
……何?
男は僕に瞳を移す。何も見えていないような、胡乱な瞳を。
「ついさっき、殺してきちまった」
「えっ」
「今朝、人を殺してきたんだ」
〈続く〉