49話 「あの日」と、彼が、「響」になった日/春 10/10(終)
僕の部屋。
居心地が良かった――良すぎた僕の部屋。
物心ついてからこの歳になるまでずっと、世界で1番安心できる場所だった。
そんな僕の部屋は、僕の部屋だった場所へと変わっている。
もう無駄に集めていた本がなくて、本棚は下のほうにほんの少しだけの捨てられないものだけ。
床に落ちているものも踏み台以外にひとつもなくって、あちこちに置いたり壁に掛けていたりしたものもみんななくなっていて。
クローゼットの中もほとんど空っぽ、掃除も隅まで背の届く範囲で終わらせてあって、ベッドだってもうシーツすら敷いていない。
机の上も乗っているモニターとか以外には日記帳とペン、ただそれだけだ。
寂しいと言えば寂しい。
けどいつかは……大半の人はこの歳になったなら働くために、あるいは新しい家族と一緒になるために出ていくものなんだ。
まぁ今って僕みたいにずっとってのもそれなりにいるらしいけども、基本的に自分の部屋ってのは、自分の家ってのはいつか出ていくもの。
その未来が、ようやくに現在になった。
遅すぎたけど、でも、ようやくに来たんだ。
ただ、それだけなんだ。
「よっと」
机から取り出したのは日記帳。
ついついのサボり癖のせいで昔からちょっと書いては何ヶ月後になるそれを、それなりにがんばって書いた去年からの1年分のいろいろが書いてあるそれ。
日によっては眠かったりだるかったりペンの握り加減がイマイチだったりして安定しない筆跡。
コーヒーとかお酒をこぼしたりしてちょっと汚れてるページとかもある。
こういうのって、裁判とかじゃ客観的な証拠になるって聞く。
だから、少なくとも僕が狂言を言っている幼い女の子だって思われないように……最低でも1年間は今みたいなことが起きていて、起こる前は大したことをしていない男だったって言う証拠として持っていく。
他に持っていくものはもう、なにひとつない。
この家の中でどうしても必要なものはリュックに収まるだけ……あ、玄関にあるゆりかたちからのプレゼントもあったっけ。
とにかく、それだけなんだ。
こんなに広い部屋で、こんなに広い家で本当に必要もなのは……僕にとって本当に必要だったものは、この腕に抱えているものとそれらだけ。
「……む」
……あの朝、この体になって最初に見た時計はあのときと同じ、ちょうど3時を指している。
偶然、あるいはデジャヴ。
こういうのって良くあるよね。
3時。
それも、ちょうどぴったりの。
普段見たとしても「そろそろお昼寝の時間かー」くらいにしか思わないけど今日は眠くなっていないし、なんだか不思議。
こんなことをかがりに言ったりしたら「きっと運命だわ!」なんて言いそうだけど、僕も少しだけ……今は、そう思わなくもない。
いくら寝坊したってそこまでは眠れないだろうっていうこの時間まで寝ていた僕は、あの日のあの朝/昼下がりに目を覚ました。
目を覚まして、まずは……あぁそうだ、メガネをかけなくても壁に掛かっている時計の針がくっきりと見えて、部屋の中が見渡せて、近視と乱視が治ったってびっくりしたのが、3時ぴったりっていうこの時間だ。
ただの偶然だろうとはわかっている。
わかってはいるけど……予定にはなかった、途中で車を降りての散歩とか飛川さんとの立ち話とかお風呂の時間……こういったものを終えたあとで部屋に入ってきて日記を書いて、それでなんとなくで見上げてみたら3時ちょうど。
……確かに運命だってはしゃぐ気持ち、今ならちょっとだけ分かる気がする。
そういえば日付だってあの日からちょうど1年くらいだしな。
……3時1分。
そういえば……前の僕から今の僕になる前は、その直前は変わらずに退屈で無駄な日々を満喫していたもんだからそんなに日付なんか気にしていなくって、ときどきゴミ捨ての曜日を間違えちゃうくらいに曜日感覚まで薄れていた。
気がつけば1日が、1週間が、1月が、1つの季節が……1年が過ぎていてっていう感じだったから。
ニートなんてそんなもんだろうけども。
だからもしかしたらあのときだって、あの日のあの朝……お昼をとっくに過ぎていたけど僕の感覚的には朝だ……の眠る前っていうのは、ひょっとしたら数時間じゃなくって1日とか2日とか、あるいはそれ以上の期間……それこそ冬眠みたいに寝ていたのかもしれない。
だって身長も体重も年齢も半分以下、しかも見た目は全て作り替えられていて、これで記憶まで失っていたらどうしようもないくらいだったんだ。
魔法さんがその時間を使って僕の体を変身させていたのかもしれないんだから。
今となってはそれを確かめる術はない。
一緒に住む家族も、意味のない会話をする友達も居なかったから。
――そうだとしたら、あの日を迎える前に前の僕は1回死んで。
あの日を迎えて、今の僕へと生き返った/生まれ変わった。
そうなのかもしれない。
そうじゃないかもしれない。
いや……きっとそうなんだろう。
そう思うし感じる。
3時……5分。
感傷に浸っているヒマはないよね。
ぐずぐずしてたら決心が鈍ってまた明日にしちゃう。
スマホを取り出した僕は数分かけて……最後になるかもしれない、みんなから来ているメッセージに「とりあえず今日はこれで最後」って返事をしておいて。
「……ふぅ」
指の先がじんわりしている。
そうして僕は少しだけためらった後に――「その番号」を押した。
その電話は岩本さんからこっそりと聞いておいた――「ねこみみ病」専用の、直通の番号。
直通だけあって、ほんの2、3秒でがちゃっと繋がって。
『――はい、こちらは通称「ねこみみ病」または「NEKO」の緊急相談窓口です』
『この番号は、ご家族の方、またはお知り合いの方、あるいはご本人さまがこれらに該当し、かつ緊急性のあると思われる事態である場合に紹介されるものとなっており、それ以外の方は別の番号で対応させて頂いております』
『なおお電話口でのご相談を受け、緊急性が低いと判断された場合にはご紹介の有無にかかわらず、別の窓口を紹介させて頂くこととなっております。 どうかご了承ください』
『――このお電話は、緊急、差し迫っている方についてのご相談、あるいは救助要請で間違いはないでしょうか?』
僕はもう、止まったままじゃない。
僕は、前の僕から今の僕に、生き返った/生まれ変わったんだ。
そう思ったら緊張してばくばくしていた心臓も落ちついてきて、体の火照りも収まってきて……もうひと息ついてから答える。
僕は、元の体での15年という時間を、この体でのたった1年ぽっちの時間で乗り越えたんだから。
きっと、大丈夫。
またいつか、あの子たちにも会える。
「緊急ではないかもしれませんけど、多分すぐに診てもらってどうすればいいか聞かないといけないものだと思います」
『……お声からするとお若い方とお見受けしますが……若返りでしょうか。 なるほど、10代の方で数年でしたら……それともご自身、あるいは周りの方にとって嫌悪感のある生きものへのケモノ化でしょうか。 それとも……』
電話口の女の人の声が厳しいものになっていく。
……そっか、子供だと確かにお急ぎだし、生えちゃったものが苦手な動物のだったりしてもなんか拒否反応出そうだよね。
猫アレルギーでねこみみ生えちゃったとか?
――だけど僕は違う。
「いえ、そのどれでもありません。 僕は――恐らくはねこみみ病ではあると思います。 それで多分、いえ、きっとまだ数が少ないか、あるいは未確認のものかもしれないんです」
『未確認……ええと?』
悪戯と思われないように、冷静に。
いつも通りに考えて置いた文章を読み上げる。
「僕は、体の全部が変わりました。 黒い髪と黒い瞳から薄い色の髪と肌と目になって、顔も完全に変わりました。 完全に別人なんです」
『……えっ? え、ちょっと待ってください、そんなことが』
「年齢も15くらい……いえ、多分もっと幼くなっています」
『じゅっ……わ、分かりました、それではすぐに』
「もうひとつだけあるんです。 ――ねこみみ病ではあり得ないって言われている性別も、変わりました」
「つまりは男から女の子へと――完全な別人に」
『………………………………ふぇ?』
相手の人の声の感じから「多分僕みたいなのは初めななんだろうなぁ」って思う。
「僕ひとりでは何もできそうにありません。 なので保護をお願いします」
『………………………………』
……あれ?
返事がない。
もしかして切られた?
え?
嘘?
僕、こんなに本気で電話してるのに?
「あの――……?」
『ひゃっ、あ、はひっ、大丈夫です!』
大丈夫そうじゃない女の人が返事を返してくる……大丈夫かなこの人。
『……じょ、冗談……ではありませんよね、もちろん……ちょ、ちょっと待っててください今詳しい者に訪ねてってきゃあ!?』
なにかが……音的にガラスだからコップかな、それが遠くで割れた音が聞こえてくる。
……意を決して出向いた先で拍子抜けの対応。
これもまた、去年経験済みだ。
僕は静かに待つ。
「大丈夫ですか?」
『はいい私は大丈夫ですっ、すみませんすぐに繋ぎますのでぇ!』
「急いではいないので大丈夫です。 僕がこうなったのは……ねこみみ病になった日からはもう1年経っているんです」
『いち、ねん……あ、はい、わかりました、ゆっくりとですね、ゆっくりと……はい、繋げたまま急ぎ係の者をご自宅へ向かわせますので、ご事情を詳しく伺えますか? 早ければ30分ほどで着くと思います』
あ、事情聞く前にもう来るんだ……じゃあ今の僕のを一応は信じてもらえて、しかもあっちからしても急ぐ必要があるってことなんだね。
『それが本当なら……失礼しました、もちろん本当ですよね。 あなたのことは最優先で保護しますから安心してくださいね! 大丈夫ですから!』
……この先は聞かれるのに任せて答えていればよさそう。
そう思ったら力が抜けて……緊張が抜けて、ぽふっとシーツのないベッドにおしりを落とした。
この1年で慣れたようにスカートをふとももに張り付かせながら座るっていうことをしなかったから、直の感触でふとももの裏がざらざらするけど別にいいや。
だって電話が終わったらきっと……荷物をまとめたあたりでお迎えが来るんだろうしな。
……お迎えってそういう意味じゃなくって、普通のお迎えだ。
『あ、先にご住所をお願いできますか?』
「はい、住所は――」
そうして僕は……1番嫌がって、いや、恐れていた、国、国家権力というものに僕自身の経緯や住所、そして名前を伝えて、長い長いひとりぼっちのニート生活から、引きこもっていたこの家から、この部屋から――出ることにしたんだ。
だからようやくに――15年も経って、幼女にもなってようやくに僕は、本当の意味で引きこもりなニートから抜け出したんだ。
銀髪幼女になって1年経って。
……笑っちゃうくらいののろま。
だけど、これが僕なんだ。
きっと何回やり直したとしても多分同じになるだけ。
『大丈夫ですからね! すぐに慣れている者たちがそちらに……』
びっくりするほど落ち着いている僕。
遠回りしたからかも。
そう考えると1年ものたのたしていたのも悪くないって思う。
僕は――ようやく、ちょっとだけ大人になったんだろう。
多分、父さんと母さんが居なくなった中学生から高校生くらいには。
見た目幼女だけど高校生だって言い張る幼女っていう感じには、ね。




