9
部屋に戻ったフリードリヒは、いつにない献上品の多さに目を見張った。
「すごぉい」
「懐妊祝いですわ。まだ国内の貴族からですが、これからさらに多くなりますのよ」
侍女たちは、梱包を次々に開け、中を仕分けしていく。
花束や衣服、宝石や装飾品の数々は、どれもため息が出る美しさ。
「……お返しとか、いいのかな」
「諸侯が国の主に贈り物をするのは、当然の行為ですわ。平然と受け取るべきです。もし不要ならば、そこいらの使用人にあげてしまいなさいな」
豊かな国ならではの考えに、フリードリヒは驚いた。
金の婚約腕輪でさえ、彼には大層な装飾品だ。
「お楽しみのところ、申し訳ございませんが、少し診察させていただいてよろしいでしょうか?」
少し困った顔で、医師がフリードリヒを呼ぶ。かの医者も、物珍しげに、献上品に目線を送る。
「侍女の皆様だけで戻られたので、驚きました。どこかお怪我はありませんか?」
「んと……大丈夫で、す」
今日は頭を締め付けられたぐらいだ。
だが医師や侍女たちは、フリードリヒが王のために嘘を吐いているのではないか、と疑った。
「……そうですか。では体温を測りましょうか」
とはいえ、追及するのは如何なものか。
単純な王妃ならば、すぐにボロが出る。それを探るのも、周囲の者たちの仕事だ。
鬱血した箇所や、動きのおかしい場所はないかと探していると、王妃がしきりに医師の方を見る。
「何か?」
「えーとぉ……んと」
今度はエリッサを見遣る。
有能な侍女頭は、それだけで判断した。
「席を外した方がよろしいなら、そのように致しますが」
「あ、うん……ごめんなさい」
「お気になさらず。かしこまりました、すぐに下がりますわ」
エリッサは一礼し、他の侍女を引き連れて寝室から出た。
閉まる扉を確認し、医師は触診をしながら、フリードリヒと会話する。
「どうかされましたか?」
「あの……ケツァル、コアトル様の、ことで……」
フリードリヒは、隠すことなく、今までの顛末を医師に話した。
神憑きが生まれる本当の理由を話しても、医師は驚きの声は上げなかった。あるいは、とうに知っていたのかもしれない。
「森なんて……どうにも、できないし……ふあぁあ。どうしよう、かと」
誰かに打ち明けて、少し気が楽になったフリードリヒに、医師は問う。
「フリードリヒ様は、どうなさるかお決めになられましたか?」
「……ん、と?」
「森に死を与え、王家再建の礎となるのか。それとも、今を大切に暮らされるか……まあ、他にも選択はありますが」
選択だの、決断だの、この医師もケツァルコアトルと同じ事を言うものだ。
しかし、その辺りには追求せず、フリードリヒはどちらにすべきか、改めて考えた。
たしかに森は恐ろしい。対抗でもなんでも、“忌まれし森"と聞いただけで、まず『無理』と即答できる。
それでも、それでも尚、恐怖を凌駕する想いが王妃にはあった。欲望といった方が正しいやもしれぬ。
「……でもー、僕は……僕は、陛下の、お力に、なりたい、んで……す」
恥ずかしさからか、声は萎み、手で顔を覆う。
故に、医師の冷ややかな目に気付かなかったのは、幸運と言える。
フリードリヒが立ち直る頃には、医師はいつもの微笑を湛えていた。
「王妃様のお気持ちは、わかりました。では、私からの忠告を聞いていただけますか?」
もちろん、とばかりにフリードリヒは頷く。
医師は、では、と一拍おいてから、滔々(とうとう)と語り始めた。
「普通ならば、神を受け入れるのは容易ではありません。然るべき鍛練を受けた、極わずかなものができることです。
フリードリヒ様が生まれながらであるのは、貴方さまの中にいるのが、調和の神であるからに他ありません」
調和を司るケツァルコアトルだからこそ、波長が合えば、容易く人の意識に介入できる。
逆に、他の神にはそれができないと知り、フリードリヒは驚いた。
全ての神が、万能というわけではないのだと。
「ですが、まだ完全とはいえません。本当に貴方様が陛下の助けになりたいと願った時、神は契約を迫るでしょう」
「……けい、やく?」
「ええ……契約を成せば、人を超える力を手にできます。が、どうかお考え直しください」
医師は辛そうな表情で、王妃を説得する。
痛みをこらえるような、その顔に、フリードリヒは胸が詰まる思いを味わった。
「王妃様のお体が、耐え切れるとは、とても思えません。真に陛下の事を想うのでしたら、このままでいてください」
「……そんなぁ」
死ぬのは嫌だ。次代のためにここにいるのに、それでは意味が無い。
絶望するフリードリヒを、医師は優しく諭す。
「契約のない今ならば、王妃様と神を切り離すことができます。そうすれば、ご自由に外出もできましょう」
フリードリヒはひどく衝撃を受けた。
神憑きでない自分。異常な眠気とは、無縁な生活。どれも、想像のできないものだった。
だが医師の言葉の、なんと甘美な知らせか。
フリードリヒは、わけもわからず感謝していた。
「あ、ありがとうございますー……」
「どうされましたか?」
「……だって、こんなに、優しくて……神さまが、いたから、妃になれたの、に……神憑きでなくて、いいなんて……僕、ここに来れて、本当によかったです」
眠気に堪えての、必死の伝達に、しかし医師はなんの感慨も無く、ただ目を伏せた。
「……御自身の、ひいてはお国のために、よくお考えになってくださいね」
「はい……はい」
妃が強く頷いたのを確認し、医師は呼び鈴を鳴らして、侍女たちを戻した。
医師が医療記録の写しを作っている間、フリードリヒは侍女が見せてくれる贈呈品で遊んでいた。
「ひゃー、重いー」
大粒の宝石がついたネックレスや指輪は、着ける人間の品格が問われる。
フリードリヒでは間違いなく、振り回されるに違いない。
「お花は、飾れるけど……」
侍女が顔より大きいつぼ型の花瓶に、花を挿し、窓際や寝台の傍らに置く。
「お召し物は……んと、仕舞って……」
勿体ないが、外に出る用も無いし、だがフリードリヒ専用に作られたため、他人に譲渡することもできない。
「……ぬい、ぐるみ?」
たまに意図のわからない物が混じっているが、迷惑なものではないので、枕の横に置いた。
意外と困るのは、装飾品であった。
どれも美しいだけに、本人は気が引けているし、着けてみれば、その重さが、フリードリヒの行動に支障をきたすだろう。
エリッサの言う通り、誰かにあげてしまおう、とフリードリヒは考えた。
装飾品は好まないと知られれば、贈る者も減るだろう。
つと気になることがあった。
気のせいであろうか、医師の目線が、寝台にぞんざいに放られた装飾品に注がれている。
目線を慎重に観察し、それを見つけた。
黒く輝く、丸い宝石がはめ込まれた指輪だ。
鈍く、だが光りを反射して輝く宝石は、黒耀石という。
火山地帯も保有するアルヴァでは、わりと見かけるものだ。
フリードリヒはその指輪を取り、医師に差し出した。
「……あの、どうぞ」
「え」
この医師には、どんなに感謝しても、足りないぐらいだ。
軽い気持ちだが、医師は困惑し、目を泳がせる。
「あ、その……」
「お受け取りくださいな。王妃様に失礼でございましょう」
エリッサがぴしゃりと言い放ちて、ようやく医師が恭しく、指輪を受け取った。
「ありがたく頂戴いたします。これからもより一層、王妃様にこの身を尽くす所存にございます」
「んと……はい」
礼のつもりが、返って恐縮させてしまっただろうか。
枕元では、翡翠がからかう様に鳴いていた。
医師の苦々しい表情には、誰も気づかない。
このところ、宰相ダイケンは機嫌が良かった。
先日に、経費を観光に使い込んだ外交官をそのまま国外追放したが、そんなことを忘れてしまうほど、良いことの連続だ。
何しろ、王妃が懐妊したのだから。
それだけではない。フリードリヒは、妃の最長記録を更新中だ。
いままでは二人目が半年もっただけだった。
しかもエリッサによれば、夫婦仲は悪くはないらしい。
これから、ダイケンをはじめとする大臣や官僚は、王妃の機嫌をとる対応をせねばならない。
ダイケンは時間の空いた他の大臣を連れ、王妃の部屋を伺った。
「フリードリヒ様、この度は御懐妊、おめでとうございます。」
「ありがとう……ございまふああぁ」
普通なら、妊娠ごときでここまで騒ぐことはない。
だがあの暴虐王が、ようやっと、という感じなのだ。王家の明るい話題は、過剰といえるほど取り上げるに限る。
ダイケンは用意した献上品と、一通の手紙を差し出した。
「こちらは我々から。このお手紙は、ロメンラル伯爵、貴方さまの兄君からです」
「……アレク兄様の?」
宰相からの献上品には目もくれず、伯爵からの手紙を読むフリードリヒ。
夢中になる王妃を、和やかな目で見る。
このまま、何事もなく、平穏に過ごせれば良いが。
そういった気持ちをぶち壊すのは、いつだって暴虐の黒獅子王だ。
エンディミオは王妃の部屋の扉を蹴破り、ずかずかと入ってきた。
「全員、席を外せ。王妃と話がある」
誰も余計な事をしなければ、妃は思い詰めることなく、元気な御子を産むだろう。
そう、王が変な事をしなければ――
「要点は纏めたか」
エンディミオが聞いたとて、意外と図太いフリードリヒは、ダイケンからの献上品を開けていた。
リウォインの菓子職人が作った砂糖細工の菓子を見て、甘い物が好きなフリードリヒは大層喜んだ。
「人の話を聞け」
「はぶふっ」
エンディミオは相手の頭を掴み、そのまま砂糖の塊に打ち付ける。テーブルにぶつけなかっただけ、良心的かもしれない。
「要点は纏まったか、と聞いている」
「うわ……んとぉ、申し訳、ございま、せん」
謝りながら顔についた白糖を手で拭い、味見とばかりに舐めれば「みっともない真似をするな」と、温い紅茶をかけられた。
「私に無駄な行動をとらせるな」
「す、すみません……」
「少しでも期待をした私が、馬鹿かもしれん」
「すみま、せん……」
ある意味、裏切るようなことをしてしまった。フリードリヒは俯き、口を閉ざす。
「話す時は、目を合わせよ」
エンディミオは細い顎を掴み、強制的に上を向かせる。
「んあ……はあい」
「呪いを解く法は、そなたしか知らぬ事。頼りないものだが」
ああ、やはりこの人は、呪われた王家をとても気にしていたのだ、とフリードリヒは確信した。
そのために、教会と癒着することも厭わなかった。
そんな王に、やはり自分の身が可愛いので止めますなどと、誰が言えようか。
(僕は、まだ陛下に好かれたいんだなあ)
「欲しい情報ならば、いくらでも与えてやる。今一度、そなたに期待をしてよいか?」
「……へぁ」
「返事をしろ」
「は、はい……ががんば、りますー」
迫力に負けてか、つい任せてくださいなどと言ってしまった。
もはや、後には引けない。
ここでやはり無理です、なんて言おうものなら、暴力の嵐がくるだろう。
それだけは避けたいものだ。
エンディミオは満足したらしい、妃の頭を軽く撫でて、部屋を去る。
「どう、しようー……」
自分の軽率さが原因で、とんでもない板挟みになってしまった。
顔中に砂糖をまとわりつかせたまま、フリードリヒはうんうん唸った。
エンディミオが部屋から出ると、宰相をはじめ、大臣から侍女、部屋の警備をする衛兵までもが、王を見つめていた。
「何だ」
代表とばかりに、ダイケンが一歩前に出て発言。
「陛下、よもやあの方に、下手な事は吹き込んでいないでしょうね」
「吹き込むも何も、特に話すことなどなかった」
「今、王妃様は繊細な時期です。むやみに傷つけるような事をしては……」
馬鹿馬鹿しい、とばかりに、エンディミオは背を向ける。脚は執務室へ。
「陛下!」
「確かにあれは、馬鹿で無知で、あげく文句垂れだが、少なくとも私の前で泣き言をほざいた事はない。ましてや、泣くこともしなかった」
それだけを言い残し、エンディミオは去った。
仕事が残っている宰相や大臣も、王の後を追う。
湯浴みを終え、顔に付着した甘味や紅茶を落としたフリードリヒは、兄からの手紙の返事を綴っていた。
難しい言い回しは書けないが、単語のつづりならば、なんとかなる。
兄アレックスもそれを理解しており、非常に簡単な言葉だけを繋ぎ合わせた内容だった。
涎を垂らさぬよう、気をつけて書いていると、卓上に翡翠が現れた。
「ケツァルコアトルさま」
この翡翠は、常にフリードリヒの傍にいるわけではない。
一日に数回現れ、フリードリヒが起きていれば、軽い会話をするのみだ。
好都合だと、フリードリヒは願い出た。
「あの……ケツァルコアトル様……契約、して、くださいません、か?」
『まさかあなたから、その言葉が出るとは思いませんでした』
「……んとー、だめ、ですか?」
『いいえ。むしろ、喜んで。……ですが、打開策はあるのですか?』
「ないです……なので、森に詳しそう、な方に、お手紙を」
『……成る程』
二枚目の手紙は、兄に宛てるものより、よほど丁寧に綴っている。
間違いの無いよう、まして涎やインク染みなど、とんでもない。
だが内容は簡素で良い。出来上がったそれを、アレックス宛てのものに重ねて、侍女に渡す。
「書けたー」
「あら、もうお返事をしたためましたの?」
侍女は疑いもせず受け取り、届け出に部屋を後にした。
それを見送ったフリードリヒは、ケツァルコアトルに向き直る。
「お願い、しますー」
『あなたの望み通りに』
その言葉を最後に、フリードリヒの意識は、ぷつりと途切れた。
眠りに落ちて、着いた場所は、境界と呼ばれる、あの白い空間だった。
久々に見る、本来の姿のケツァルコアトルは変わらず美しい。
『まず、契約内容を提示しますね』
「ないよう?」
『はい。わたしはこの全存在をもって、あなたの命を守ります。あなたはあなたの決断をもって、“忌まれし森"を打倒してください』
頭の弱いフリードリヒにも、わかりやすいよう、ゆっくり語りかける。
『わたしが死ぬか、あなたが死ぬ、または何らかの力により森が消滅した時、契約不履行となります』
「神様も、死ぬのですか?」
純粋な疑問だが、何よりも衝撃だった。神という割に、あまり全能的存在ではないらしい。
『ええ、当然です。わたしもあなたも、夢見る父の元に生まれ、待つ母に還ります』
ケツァルコアトルの言うことはさっぱりわからない。フリードリヒは首を傾げ、契約内容の続きを促す。
『あなたが森を死にやった時、契約が解除されます。わたしは直ちに、あなたから離れましょう』
「……それって、神憑きではなくなる、ということですか?」
ケツァルコアトルは頷いた。
あの医者は、神を切り離すと言ったが、どうせなら呪いを解いた方が一石二鳥ではないか、とフリードリヒは呑気に考えた。
『以上です。契約を行うならば、この手をとってください。さすれば、あなたに人を超える力を与えましょう』
差し出された左手を、フリードリヒは迷うことなく取る。少し、ひんやりと冷たい。
痩せて骨張る手を両手でそつと包み、ケツァルコアトルは微笑む。
『覚えていますか?わたしが初めて、あなたに語りかけた時、あなたは怖れることなく、わたしを受け入れてくれました』
「……そうでしたっけ?」
そんな昔の事は、とうに忘却の彼方にあった。
催促するように、フリードリヒは握られた手を振る。
『ああ、すみません。では、あなたのお名前を』
「フリードリヒ・ケーフィンです」
「その意は、鳥を入れる籠にして、籠に閉じ込められる身。平和の君主」
ケツァルコアトルが纏う花が、動き出した。
否、それらは花ではなく、全て翠色の蛇だった。
硬直し、思わず逃げかけるフリードリヒだが、ケツァルコアトルは手を離してはくれない。
『わたしの名は“翡翠の雪ぎ"――風、調和、豊穣、均衡を司ります。全ての愛は巡りて、わたしは人々のために、世界にさえ犠牲を強います』
大小様々な蛇が、ケツァルコアトルの体を伝い、フリードリヒの腕まで這う。
生理的嫌悪から、思わず目をつぶった時、ケツァルコアトルが青年の手を、自らの方へ引いた。
何事か、驚きに目を見開いたフリードリヒ。
その彼の右目――正確に言うと眼球――に、ケツァルコアトルはくちづけた。