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「フリードリヒ様、旬の果物ですわ。以前、酸っぱいとおっしゃられていましたから、蜂蜜をかけましたの」
「こちらは、リウォインから取り寄せた砂糖菓子ですわ」
お茶の席で、必死に王妃の機嫌をとる侍女たち。
一方主は、彼女らの話なんぞどこ吹く風。
いつも以上にぼんやりと、明後日の方向を見ている。
ここ数日、フリードリヒはずっとこんな調子だ。
ただ眠いだけかと思いきや、初めて見る菓子や、甘いおやつにも興味を示さない。
「……あ」
ふいに、フリードリヒは手を滑らせ、紅茶の入った杯を傾けてしまった。
侍女は慌てることなく、的確に対処する。
「あら、お怪我などございませんか?すぐに新しく入れますね」
「……ごめん」
「どうされましたの王妃様。どこか具合でも?」
心配した侍女が声をかけれど、フリードリヒは卓の端を見て一言。
「……今、なんかしました?……そうですか」
「フリードリヒ様っ?」
突飛な独り言に、周囲は動揺を隠しきれない。
堪えかねた一人の侍女が、エリッサを呼びに部屋を出た。
やけに慌てふためく侍女に呼ばれ、別室で王妃の体調について話し合っていたエリッサと医師は、急ぎ寝室に入る。
「熱がありますね」
体温計を仕舞い、医師は簡潔に言った。
寝台に引きずり込まれたフリードリヒは、いまだにぼうとしたまま。
体の不調を訴えられぬほど怠いのか。あるいは不調に気付かないのか。
脈拍を計った医師は、ふと気付き、再び体温計を取り出す。
「失礼します、こちらを……それから、触診をさせていただきます」
フリードリヒが頷いたのを確認し、医師は服を脱がし、主に下腹部に触れる。
医師はああ、と呟くなり、心底申し訳なさそうな顔で、再び失礼しますと言った。
疑問を持つ間もなく、医師は敷布の中に手を入れ、ためらいなくフリードリヒの下半身を探る。
「え、えっ、ちょ、え?」
「少し我慢なさってください」
敷布で見えぬように配慮はしているが、止めろと言われて止めるようでは、医者ではない。
容赦ない手早さで下着を下ろし、肛門に器具を挿入する。
「ひぁ、いっ」
「すみません、すぐに終わりますから――はいわかりました」
未知の痛みと恐怖にわななくフリードリヒを口早になだめ、医師は実に素早く診察を終えた。
衣服を整え、不安で今にも泣きそうなフリードリヒに、医師は微笑しつ、診断結果を伝える。
「おめでとうございます。御懐妊です」
「……へ?」
間抜けな声で聞き返す王妃に、医師は呆れることなく、再び言う。
「妊娠しております。この体温、胎内の感触も間違いありません。おめでとうございます」
「んと……どうも?」
いまだ現実を受け止めきれていないフリードリヒに対して、侍女達は喜びに沸き立つ。
「おめでとうございます、王妃様!」
「ああ、本当にようございました……健やかな御子に恵まれますように」
中には感動のあまり、涙を拭う者まで。
エリッサ一人が冷静に、侍女らを寝台から追い払い、妃の傍にひざまずく。
「おめでとうございます。今までの王妃で、御懐妊されたのはフリードリヒ様のみ。皆が浮かれてしまうのも、無理はないかもしれません」
「そ、なの?」
四人の元妃の誰もが、妊娠すらしなかった事実に驚く。
「ふうん……」
「フリードリヒ様?」
再び一抹の不安がよぎる。
このまま産んでよいものか。
今までの妻たちは、呪われた血だから、伽すら拒んだのではないか。
あるいは、王が。
「……ううん。んと、寝る」
「かしこまりました。お休みなさいませ」
なんにせよ、王の真意はどうでもよいと決めたのだ。
ただ次代のために、子を為すだけだ。
「……呪い、か」
自身の腹を見ても、貧相にへこんでいるだけで、内にそんな大層なものが在るなどと、理解しかねる。
「……あ」
ケツァルコアトルは、妊娠している事を知って、フリードリヒに真実を話したのかもしれない。
呪いを解くことができるならば、それを選ぶべきだろうか。
「……も、やだな」
頭の中が混乱しきっていた。
妊娠なんかしなきゃよかったのに、とさえ思ってしまう。
もっと考える時間が必要だ、という言い訳のもと、毎度お得意、結局は夢に逃げ込んだ。
――おう風よ、おう風よ、またお前の望みどうりか。憎らしや
――いいえ。これもまた、ひとつの結果です
聞き慣れたケツァルコアトルの声が、何者かと言い争うていた。
声のみで、姿は捕えられない。
四つの声が重なり、ひとつの言葉を紡ぐ。
――白々しい。無垢なる子を騙し、荊の道へ引きずり込むとは
――騙しているのはどちらですか?これは世界の導きです。さっさとこの子の意識から出ていきなさいよ。このすちゃらかぽんたん
――喧しいわ!やるかこの間抜け鳥
――黙りなさい!この間抜け鳥
なんだかもんのすんごく、子供じみた言い争いをしていた。
どうでもいいけど、悪口の語彙少なくね?と思った矢先に、フリードリヒは目が覚めた。
「……むう」
「フリードリヒ様、今日は朝から機嫌が悪くて……」
「よくない夢でも見たのかしら……」
事実、夢見はよくなかった。喧嘩なんぞ、気分のよいものではない。
起床してからの診察を終え、軽食を摂る。
フリードリヒの体力では、一度に多くの食事は不可能とされた。
だから日に何度かに小分けにすることにより、なるべく多くの栄養を摂れるようにとの配慮だった。
というのに、物があまり喉を通らない。
普段なら、なるべく残さぬよう努力するのだが、フリードリヒはその気さえ起こさなかった。
「……」
眉を寄せ、肉刺しを手慰みに扱う王妃の様に、何がここまで彼を不機嫌にしたのか。侍女たちは戦々恐々としている。
「フリードリヒ様、お下品です。足はぶらぶらしない。食事をなさらないのなら、肉刺しを置くこと」
見かねたエリッサが、子を叱るように注意する。
元来素直なフリードリヒは、そのとうりに正す。
「どうされました?口で言わねば、わかりかねる事もあります」
「……ううん。大丈夫」
どう見ても大丈夫ではないが、本人にもよくわからないのだから、説明のしようがない。
エリッサは仕方ないとばかりに頷くと、フリードリヒの手を取った。
「では気晴らしに、少し出歩きましょうか?」
何が変わるというわけでもあるまいが、その提案にフリードリヒは乗った。
風の流れを取り入れる構造の宮殿内とはいえ、やはり暑いものは暑い。
はしたなくも、首元の釦を外し、侍女たちに風を送ってもらっているが、北の人間には地獄の窯の底だ。
傍らのエリッサは、しっかり衿をつめ、おまけに手袋までしている。
「……暑くー、ないの?」
「慣れましたわ」
にっこり笑顔で返され、納得する他ない。
それにしても、アルヴァに来たばかりの時は、自力で歩くことさえ困難であったのに、今は誰かに少し寄り掛かる程度で、ほとんど自分で歩める。
自身の気づかぬ所で、物事は着々と変わっていくのだ。
「……お医者様は?」
「フリードリヒ様のための、新しい医療班を組むとかで、宰相殿とお話しされています」
どんどん大きくなっていく話。もはや他人事ではいられない。
たとえフリードリヒや王が望まぬとも、周囲は期待している。
「……ふうん」
間の抜けた返事に、さすがにエリッサも心配になったらしい。王妃の顔をまじまじと見る。
「夏ばてではないようですわね……戻られますか?」
「ううん、平気ー……」
そのまま、エリッサの先導のもと歩き続けていた。
フリードリヒは疲れた様子も見せず、興味の赴くまま、建物内の構造を見る。
何度か通ったにも関わらず、飽きるということを知らないのか。
しかしふいに、フリードリヒがエリッサの袖を引いた。
「え?――あら、運が良いやら」
悪いやら、という言葉は飲み込み、王妃の乱れた衿を詰めてやる。
というのも、エンディミオが執務室の扉を乱暴に開けて出てきたからだ。
機嫌は良くないらしく、後に続く大臣たちは、恐る恐る王の顔色を窺う。
普通なら、妃とそのお付きは道を開き、王に頭を下げるもの。
だが何を思ったか、フリードリヒは過ぎ去るエンディミオのマントの端を掴んだ。
足止めを食らった王は、憎らしい敵を見るかのごとく、フリードリヒを睨みつける。
「え、あ、あのぉ……」
エンディミオの怒りによる圧力に、さっぱり言葉が出ない。
王を煽るその行動に、大臣や侍女たちは今にも卒倒しそうだ。
舌打ちをしたエンディミオは、意外にも周囲の者らを人払いした。
エリッサのみ、最後まで残ったが、フリードリヒが頷いたのを見て、去っていく。
怯える妃に向き合い、エンディミオは懐中時計片手に話しかける。
「割ける時間は一分だ」
厳しすぎる宣告に、慌てふためくフリードリヒ。うっかりどうでもよい事を言ってしまう。
「ああの陛下、わたくしえーと子供をー……授かり、まして――」
「知っている」
ばっさり切り捨て、そんな下らん事のために止めたのかと、さらに威圧をかける。
「そそうじゃなくて、んと……こちらに、来た時からー……考えて、いた、んです」
ああ、どうせ殴られることは目に見えている。
ならば言ってしまおうと、フリードリヒは手を握る。
「陛下は、子を望んでおられない」
「何を――」
「もう、限界だから……呪われた王家を……戦で奪った民が、支持、するはずが、ないです……それが、優れた王でも」
民衆心理の愚かさと悲しさは、フリードリヒがロメンラルにいた頃から感じていたものだった。
例えば不作の時も、生活基盤を整えるために税は取らねばならない。
しかし自分たちのためであるにも関わらず、民衆は伯爵を穀潰しと叩いた。
伯爵の政策が悪かったのもあろうが、それにしても無情な話である。
一方アルヴァは、長い歴史の間に、様々な国を侵略、併合してきた。
故郷を、文化を奪われた人々の憎しみはいかばかりか。
殆どの場合は、アルヴァ王の政策に納得し、統治に従う。
だがいつの時代も、反逆者はいるもの。
故に民衆の精神的支柱である教会が、政に介入するジレンマも抱えていた。
それでも尚、いや教会があればこそ、人々は呪われた王家を忌まわしく思う。
狭い領土を独裁するサイーラや、力を振るう恐怖政治のリウォインとは違うのだ。
呪われた王なぞ、様々な民族の混じり合う世論の許すところではない。そのうちに、革命や紛争が起こるだろう。
さらにフリードリヒは、聞き取りにくい小さな声で付け足した。
「それに……僕も、生まれてくる子が、神憑きなのは、やだし」
そこまで聞いたエンディミオは、呆れたように言い放つ。
「そなた、思考は異常に遅いが、思慮は深いな」
「え……」
「ではそこまで考えていながら、何故そなたは夢を見る?」
「はえ?」
今は起きているではないか、という前に、エンディミオはフリードリヒの顎を捕らえ、目を合わせた。
「眠りに見る夢ではない。現実から目を逸らし、決定を他人に委ねることだ。今でさえ、私と目を合わせず、子供の事でさえ、私に選択を譲る」
よくわからず、フリードリヒが首を傾げると、苛立ちをそのまま顎の骨にぶつけられた。
「いっ、い……」
「私の話をしたとて、そなたの役目は子を産むこと。何を恐れる必要がある?」
それを聞いて、フリードリヒは、はたと目を見張った。
確かに、政から隔離され、周囲からは歓迎され、苦しいことなど、何ひとつないのだ。
ただひとつあるとすれば――
「もう、夢を見るのはやめろ」
それだけ言い、エンディミオは手を離す。
時間が推しているからか、時計を確認し、眉をひそめた。
去ろうとする王に、フリードリヒは言うべきか迷った。
ただひとつ、フリードリヒが恐れること。
それはこの生活がなくなること。すぐ近くまで迫る永遠の眠り。すなわち、死を。
半ば投げやりに、神憑きの青年は言い出した。
「もし、呪いを解く方法があるならば……?」
ぼそりとした声にも関わらず、思いのほか地獄耳な王は、足を止めた。
「何……」
獅子は食らいついた。フリードリヒはやけくそになり、打ち明けた。
「神様が、おっしゃってました……神憑きが、アルヴァとリウォインにしか生まれ、ないのは……呪いを解く、ためと」
「馬、鹿な……では今までの神憑き共は、何故それを成さないでいた」
「んと……多分、情勢とか、神憑きの、心情、とか?」
かなり無茶な理由だが、そう答える他ない。
先ほど宣告した一分を越えているにも関わらず、エンディミオは再び王妃に向き直る。
「詳しく話せ」
「えと……方法は、わたくしが考えなければ、ならないみたいでその……いたいいたい」
「要するに何も知らぬと」
こめかみを締め付け、余計な期待を抱かせるなと咎める。
「ふあ……申し訳、ございません」
「もうよい。近い内に話す時間を作ってやる。それまでに要点をまとめておけ」
溜め息をついて去ろうとする王に、フリードリヒは慌てて引き留めた。
「あ、お待ち下さい陛下ー……一人では、戻れない、です」
「……は?」
「というか、ここはどこでしょー?」
「え?」
人払いをした故、誰もそこを通ろうとはしなかった。
暴虐の黒獅子王に送らせる前代未聞の妃は、後に化け物を見る目で見られるとかないとか。




