7
その森は、夜明けを知らない。
生まれることができなかった命は、ただひたすらに肉を求める。
求めて求めて求めた末に、できそこないの命は、肉を繋ぎ合わせて躯を作っていく。
さあ、また素晴らしい肉が来た。
豪奢な服を来た二人の人間に、狙いを定め、綺麗な腕を貰う。
それは蔦の腕を広げ、歓喜の鳴き声を上げた。
「……っあ」
「おはようございます、フリードリヒ様。すぐ済みますから、お待ちくださいまし」
起きれば、侍女達に身体を清められていた。
侍女達は手早く、だが丁寧に柔らかい布で体の水滴を拭い、爪を鑢で整える。
「痣も目立たなくなってきましたわ」
「綺麗な肌に戻ってきていますよ」
医師から処方された内出血の塗り薬を患部に塗布しながら、侍女はある変化に気づいた。
「まあ、新しい傷痕がありませんわ。ようございました」
王から受けた暴行や、不意の気絶による転倒や衝突により、フリードリヒはアルヴァに来て以降、痣は日常的になりつつある。
事故は仕方のないものとしても、エンディミオの暴力による痕はひどく、しばらく感覚が無い時もある。
それが今回は新しい痕がひとつもないのだから、侍女としては嬉しい限りだろう。
なんとなしに褒められたような感じで、フリードリヒは恥ずかしげに目を逸らした。
髪をくしけずられ、さっぱりしたところで寝台に戻る。
「あら、フリードリヒ様、お目覚めで」
「うん、……おはよ」
「おはようございます。どうぞこちらに……軽く体調を見ますので」
医師の指示に従い寝台に座るフリードリヒ。
脈や体温を測り、医師は満足げに医療記録を書き込む。
「良い案配です。とはいえ、今日は無理せずお休みしましょう」
配慮の言葉に、フリードリヒは不満そうに眉を寄せた。
「ふああ……外、出たら、いけませ、んかー?」
「いけないわけでは……」
「痛いのは、大丈夫、です……近くでいい、ですからー」
初めて聞くフリードリヒの我が儘に、医師はどうしたら良いかわからなくなり、慌ててエリッサに助けを求めた。
有能な侍女頭はひとつ頷き、フリードリヒに提案する。
「かしこまりました。では、私と医師と他侍女が同伴の元、少しだけ出ましょう」
「わ、やったー」
「とはいえ、本格的に暑くなってまいりましたので、以前のようにお庭ではなく、建物内になりますがよろしいですか?」
「ん、いいよぉ」
「了解です。皆、準備して」
エリッサが軽く両の手を叩けば、他の侍女たちが示し合わせたように準備をはじめる。
「いや、助かりました」
「どうも。では参りましょう、フリードリヒ様」
フリードリヒは無邪気にエリッサの手を取る。その動きに、迷いはない。
エリッサの言う通り、日差しはとても強く、窓からの陽光でも、フリードリヒの目は痛む。
外に出れば、強い日光で皮膚病になってしまうだろう。
宮殿内の廊下をのろのろと歩く。なるべく段差や階段を避けるが、フリードリヒとしては、行ってみたいという気持ちもあった。
「本当に大丈夫ですかね」
「医者が何をおっしゃいますの」
たしかにふらついてはいるが、病は気からというか、足取りは悪くない。
「……あ」
突然、フリードリヒが立ち止まる。前方には、書類を手に宰相や大臣らと議論を交わすエンディミオがいた。
決議しないまま、次の予定が迫っているらしく、歩きながら侃々諤々としている。
かなり白熱していたのか、王妃の存在に、目前まで来て気づく。
「これは王妃様、ご機嫌麗しゅう」
「ど、うもー……」
慌てて大臣らが頭を下げる。
エンディミオは書類を宰相に預け、フリードリヒの頭を掴む。
「顔色が悪いな」
「そう、ですか?」
「寝ていればよいものを」
「んー……なるべく早く、戻ります……」
「よろしい」
あまりのまともな会話に、大臣たちは目を合わせ、侍女たちは何事かと話し合う。
どちらもエリッサに睨まれて姿勢を正したが、それでも尚、疑問は晴れない。
周囲の動揺なぞ知らぬとばかり、エンディミオは銀髪をひと撫でし、大臣たちを連れて去って行った。
「仲良くなられまして、ようございましたね」
「素晴らしきことですわ」
口々に侍女たちが褒める中、フリードリヒとエリッサは、いまだ王の背を見ていた。
だがしばらくすると、フリードリヒは来た道を引き返しはじめる。
「あら、お戻りになりますか?」
「……うん。陛下に、怒られるもの」
困ったような微笑を浮かべ、覚束ない足取りで行く。
その有無を言わさぬ、彼なりの静かな命令に、口をはさむ者はいなかった。
柔らかい枕に涎を垂らし、おおいに惰眠を貪る王妃。
しかしふいに、翡翠が耳元で鳴いた。
「……んあ?」
寝ぼけ眼でケツァルコアトルを見れば、機嫌が良いのか、やたら鳴いている。
「……なんですかー?」
用件がないなら寝かせてよ、と本音をぶちまけかけた時、翡翠は言葉を放つ。
『迷いは払拭されたようですね』
「……はぃ?」
「伴侶であることに徹しようと、できもしない会話を試みて……。諦める、という選択は正解でしたか」
王の本意を探ることを諦めたフリードリヒを、責めるでも、慰めるでもない。
「あのー……なにが」
言いたいの?と口を開きかけたが、翡翠がさらに近寄る。
『嫌いと言ったにも関わらず、やはり嫌いきれていないですね』
「うぐ……だっ、て、優しいのは、嬉しいから」
かなり恥ずかしいようで、フリードリヒは枕に顔を埋めてしまう。
常に共に在る神に、嘘は通用しない。
どれだけひどく扱われようが、わずかな気遣いと、自身を撫でる手に、フリードリヒが歓喜したのは事実。
それを見透かすケツァルコアトルは、すらすらと彼の本意を並べたてる。
『あなたは誰かの役に立ちたいという願望がありました。母はあなたを産んで死に、父は持て余し、兄は最低限の接触しかない』
故郷と、そして王のため、フリードリヒは自己を殺すはずだった。
というに、このていたらく。
まだ愛されたいと足掻く、愚かしさ。
『よろしいでは、ないですか』
「はえ?」
指摘され、へこむフリードリヒに、翡翠は意外な答えをよこす。
『愛に生きればよろしいではないですか。それが人。王に愛されたいから子を生す。今はそれでよいではありませんか』
「え、えぇー……」
あまりに利己的。子供をなんだと思っているのか。
さすがにそこまで我が儘になるならば、このまま閉じこもる方がましだと考えた。
『わたしの愛しい子。愛と、それに伴う犠牲を知りなさい。そも、あなたに自己を殺してまで役目を果たすなど、無理でしょう』
「あう」
これ以上の指摘は勘弁であった。
懸命に開いていた目を閉じかけると、ケツァルコアトルは慌てて羽ばたく。
『ああ、待ちなさい。こんな事を言うために顕現したのではありません』
「ええぇ~」
さすがのフリードリヒも、なんだそれ、と怒りが湧いてこないでもない。
だが翡翠はいつもより固い声音で、とんでもない事を言う。
『時は来ました。わたしが人の意識に在る理由を、教えましょう』
「え」
フリードリヒは目を開き、ケツァルコアトルをまじまじと見る。
今まで黙され、誰も知らなかった理由。
それを知るとあって、フリードリヒの胸は動悸する。
「どして、今……」
『言ったでしょう。今のあなたには迷いがないと。これから教えることは、あなたの生を大きく揺さぶるものです』
端的に言えば、今のフリードリヒの状態はいっそどうにでもなれ、という投げやりなもの。
自分で何も考えないのだから、迷いがないといえばない。
フリードリヒの拒否も聞かず、ケツァルコアトルは語りはじめた。
『まず、東の森は知っていますね』
「あ、はい。ロラン兄様が、教えて、くれました」
大陸の北をリウォインが、南をアルヴァが支配する中、何者にも侵されない領土があった。
「人が“忌まれし森"と呼ぶ存在……それを闇に還すために、わたしはここに在ります」
東の広大な土地に広がる森。
人里に近い部分を、人は切り出し活用しているが、誰も奥に入ったことはない。
事実、森には人知を超えた怪物が居るからだ。
“忌まれし森"と呼ばれる怪物は、全ての生命を呪うかのごとく存在する。
ありとあらゆる生物の身体を強奪し、自身の体としてしまう。
『あれは人がわたしたちを人工的に生み出そうとして失敗した結果です。産まれることもできず、生きてもいない。だから死ぬことができない……そんな存在を、死に向かわせます』
「なんだか、でっかいお話ー……」
森とは無関係に生きてきたフリードリヒには、何やら遠い出来事に思えた。
『何を言います。あなたの最愛の人が、森の被害者ではありませんか』
「あ」
言われてやっと思い出す。あまりに当たり前の事であったため、うっかり忘れていたのだ。
かつてのアルヴァ王とリウォイン王が“忌まれし森"を討伐しようとした。
軍隊を連れた討伐は、だが失敗し、アルヴァ王は左腕を、リウォイン王は右腕を奪われた。
以降両王家の継承者は隻腕の人間しか生まれず、また縁戚が絶えていく様に、人々は呪われた王家と怖れた。
時折見る、あの恐ろしい夢は、二人の王が腕を奪われる瞬間であったのだ。
そして、蔦の身体を持ち、顔を仮面で埋め合わせたあの異形こそ、“忌まれし森"。
そこまで考えたフリードリヒは、簡単に結論づけた。
「……無理」
あんな怖いものを、凡人以下の自分にどうこうできるはずがない。
無茶苦茶を言うなあ、と思った矢先、ケツァルコアトルはさらに理由を話す。
『いつも言っているでしょう。わたしの手を取れば、人を越える力を授けますと。森は生き物にしか興味がない。ですから、わたしたちには姿を捕らえられない。あなたが必要なのです』
「って……言われてもー」
剣などできないし、というかまともに走ることさえできない。
痛いのも、怖いのも、当然ながら嫌なものだ。
いまだごねるフリードリヒに、仕方ないと翡翠は奥の手を出す。
『成功すれば、あなたの願望は叶います』
「え?」
『森を闇に還すことすなわち、森が奪った全てを返還することに繋がります。要は、成功したならば、次代の王は両腕を備えた体で産まれることができます』
「そんな理屈、でいいの?」
『森自体が超自然的で屁理屈な存在です。わたしはそれを正すだけ』
納得のいかないフリードリヒを、翡翠は諭す。
「んー……あのぉ」
『はい』
「ちょうしぜんてき、て、なんですか?」
「……それは追い追い」
翡翠はため息ひとつ。しかしすぐに立ち直る。
フリードリヒの抜けた性質は、今に始まったことではない。
『今すぐに、とは言いません。ですが、これだけは覚えておいてください』
「……う、はい?」
『どのような選択肢でも、最後に決めるのは貴方です。そしてその決定に、世界はついていきます』
自分で考える、ということをしてこなかったフリードリヒには、無理難題に思えた。
このままのんびり暮らしていけたらと思っていたのに、やはり神憑きとはそんなものか。
『わたしの愛しい子。どうか恐れないで。世界はあなたたちの望むとうりに』
言うだけ言って、ケツァルコアトルは消えてしまった。
フリードリヒは押し潰されそうな不安を、深呼吸で払拭。
さらに敷布を深く被り、夢に逃げ込んだ。