5
――わたしの名のひとつを知りましたね
――よろしい。あなたは資格を得ました
――境界に招聘しましょう
夢を見ているはずなのに、やけに現実感がある。
ふと、浮遊感が襲ってきた。
だが恐怖はなく、フリードリヒはいたって冷静に、降り立った。
自分が眠っているという自覚はある。だがここに立っている、という自覚もある。
フリードリヒはあたりを見回した。
白ばかりで何もない。所々、透明に歪む壁のようなものはあるが。
興味本位にその壁に触れようとすると、いつも夢で聞いていたあの声が、より鮮明に聞こえてきた。
『障壁に触れてはいけません』
性別を超越した、だが人に近い姿をした者がそこにいた。
三対六本の角を頭部から生やし、色とりどりの花を衣装として纏う。
金色の瞳で見据えられ、フリードリヒは硬直した。
『現世と神域の境目たる境界です。ここでなら、わたしとも言葉を交わせます』
フリードリヒは壁から離れ、眼前の者の名を口にした。
「ケツァル、コアトル様、ですか」
『いかにも。その名は人がわたしを呼ぶ名のひとつ』
ケツァルコアトルは微動だにせず、表情も変えず、ただ言いたいことだけを言う。
『これもまた因果、としましょう。して、わたしの愛しい子。ついにわたしの手をとりに来たのですか?』
手を伸ばすケツァルコアトル。フリードリヒは怯えたように退がる。
「っ……違い、ます」
『そうですか。それは残念ですが、よろしい』
残念そうなそぶりも見せず、神は手を降ろす。
「ケツァルコアトル様は、何故わたくしを選んだのですか?」
幼児期からあった疑問を、フリードリヒは口にした。
ケツァルコアトルは本人の緊張なぞ知らず、わずかに首を傾げ言う。
『選んだ?いいえ違います。あなたはわたしとの霊質波長が合うから、わたしはあなたの意識に介入できるのです。
今までの神憑きも、そのように生まれています』
「で、では……神憑きは、神に魅入られたわけでも、呪われたわけでもない、と……」
『その通りです。人の作り話に惑わされましたね』
あまりの衝撃的事実に、フリードリヒは腰をぬかし、その場にへたりこんだ。
ケツァルコアトルはその姿を哀れとも、愚かとも思わず、ただ言葉を続ける。
『あなたはわたしが使わした赦しの証。あなたは現世で行動を制限されるわたしの使命の代行者です』
「な、ぜわたくしなのですか!なぜわたくしなぞを……」
『それは先程申したはず。あなたは――』
「そうじゃない!そうじゃないの!
貴方が選ばなければ、僕はこんな目には合わず済んだのに!もう少しマシな生き方ができたかもしれないのに!」
ついには喚くフリードリヒを見た神は、へたりこむ彼の額に指を当て、目線を合わせる。
『人は複雑ですね。幸せを感じながら、今は嘆いている……本質のみの我らとは大違いです』
「え……あ」
『話になりませんから、一度帰りて落ち着きなさい。また言葉を交わしましょう、わたしの愛しい子』
「ま、待って……!」
願いは却下され、ケツァルコアトルが声なき声で何事かを呟く。
フリードリヒの耳元でぶつん、と音がしたかと思うと、眼前は暗幕のような暗闇となった。
ゆるりと目を開く。窓から差し込む光が眩しい。アルヴァの強い日差しは、フリードリヒには辛いものがあった。
大して眠った感じはなかった。まだ昼ということは、意外と短い時間だったのやもしれない。
というのに、猛烈な空腹感があった。
寂しいというより、いっそ痛いぐらいで、ここまでの空腹を感じたことがないフリードリヒは、不安で起きる。
「……いっ、つ」
右腕に引き攣るような感覚。袖をまくって見れば、点滴を打った痕が残っていた。
「フリードリヒ様、お目覚めですか?」
「あ、うん……」
声を聞き付けたエリッサが、手早くフリードリヒの腰と寝台の間に枕を差し込む。
「ああ、まだ痛みますか?後で揉んで差し上げましょう……」
「……あの、その……お腹、すいた」
情けない声を出す妃があんまりにも可愛くて、エリッサは朗らかに笑った。
「それは良いことですわ!健康な証です」
「……い、ままでに、お腹空いたこと、なかった……から」
「それもそうですわね。フリードリヒ様は一日中眠っておいででしたから。医者は心配ないと言いますが、後で診てもらいましょう」
「……えっ」
一日。エリッサの言ったことが真ならば、フリードリヒはあれから全く目覚めなかったのか。
境界と現実では、凄まじい時間の溝があるようだ。
「そうでした。フリードリヒ様、これからのために、体力をつけねばなりません」
パンを芋のスープに入れて柔らかくしたものを、こぼさぬよう気をつけて食べていたフリードリヒ。
だがエリッサの言葉を聞き、思わずスプーンを取り落としそうになった。
「……な、んで?」
「子供を産むのは、それはもう大変ですのよ。今のフリードリヒ様では耐えきれませんから、少しずつ、お体を強くしましょう」
妃も大変なんだあとか考えていたフリードリヒだが、ふと浮かんだ素朴な疑問を口にする。
「ふああ……ね、エリッサは、子供、いるのー?」
「残念ながら、昔、事故に遭い、子供を授かれなくなってしまいましたわ。ですが養子ならばおります」
「そ、うな……んだ」
聞いてはいけなかった気がしたフリードリヒは、ごまかすように食事を再開する。
「くあぁ……うう……でも、体力て、どうやって……つけるの?」
「そうですわね……まず軽く、近くの庭でも歩きませんこと?少しは日に当たるべきです」
とはいえ、北部生まれのフリードリヒが、アルヴァの日差しを直に浴びては毒だ。
エリッサは日傘を持つよう他の侍女に言い付けていると、フリードリヒがいつになく、驚いた顔をしていた。
「外、出て、いいの?」
「……はい?」
王妃の言葉に、部屋中の侍女たちが一斉に主を見る。
エリッサが戸惑いながらも、返事をする。
「ええ、もちろん……というより、あなた様はいつでも、この王宮内をお好きに歩けますよ?城外は難しいですが……」
うんうん、と他の侍女たちも頷く。
フリードリヒは子供みたく瞳をきらきらさせて、聴き入る。
「ほんと?……わ、わ、いいなあ」
貴方のことを話してるのよ、という一言を飲み込み、エリッサは引き攣った作り笑いを浮かべた。
「喜んでいただき、ようございましたわ。しばらくは私たちが付きますが――」
「え、うん……いいよお。外出ていい、んでしょう?」
身を乗り出し、寝台から落ちそうなフリードリヒをなだめ、侍女たちは準備を始めた。
誰かが思わず、おいたわしや、と呟いたが、憐れな主は気付かない。
王妃の寝室を出、廊下をゆったり歩いていると、医師が待っていたものらしい。庭に出る途中で合流した。
「王妃様、大丈夫でしたか?」
何が、とは聞いてこない。フリードリヒはわずかに首を横に振る。
「びっくり、しました……怖かった、です」
「それは、申し訳ございません。急いてしまいましたね」
「いえ、お医者様の、せいでは……もっと神さまのことを、教えてほしい、です」
再三頭を下げる医師に、フリードリヒは慌てて釈明。
北部ではリウォイン王家の力が強く、神学を学習する機会が少ない。
おまけに無知なフリードリヒでは、だいぶ衝撃が大きかっただけだ。
今回を機に、もっと神と、自分を知ろうと、フリードリヒは決めていた。
医師はまだ心配げな顔をしていたが、渋々といった感じで頷く。
庭園は思っていたよりも近場であった。
まだ本格的な夏を向かえてはいないが、慣れない日差しと暑さに、フリードリヒはたじろぐ。
「……無理」
「そうおっしゃらず、庭師が丹精込めた花が美しいですわ」
諦めかけた王妃を、侍女たちが言葉たくみに誘う。
実のところ、接待用の庭園は、優秀な侍従も好きには歩けない。
楽しんでいるのはどちらやら、日傘を開き、扇で主に風を送りながらも、彼女たちの笑顔は無邪気であった。
石畳の通路を歩きながら、綺麗に整えられた垣根や、アルヴァ固有の花を見る。
「ふえー……すごい色」
原色の絵の具をそのまま塗り付けたような、鮮やかな花びらが、フリードリヒの瞳を刺激する。
中には、毒でもあるんじゃないこれ?と言いたくなるほどの斑模様まで。
「……おや」
医師が何かを見つけ、地面に手を伸ばす。拾ったのは、白い小さな花。
無惨にも根本から剪定され、花びらも一部無い。
「……それ、どうしたんでしょう」
「ああ、これは野薔薇です。この花は不吉なものですから、処理しなければなりません」
「へえー、知りませんでした」
教会の力が強いアルヴァでは、こういった細かな教えも、忠実に守っていた。
医師は野薔薇を白衣の懐に仕舞った。
「お、医者様は……教会の方なのですかー?」
「ええ、司祭として神学を修めましたが、私は多くの人を救いたく、医師になった次第です」
「すごいですねー……ふあああぁ……」
立ち止まる方が暑いと、ようやく学習したフリードリヒは、のろのろ歩き初める。
時たま、石畳に爪先を引っかけては転びかけ、エリッサに支えられた。
十分ほど歩いたろうか。ついにフリードリヒが音をあげた。
「……脚、いた」
それを聞いた医師が、木製の折りたたみ式椅子を組み立てる。
「王妃様、こちらに……恐らくは筋肉痛でしょう」
座ったフリードリヒは、経験の無い痛みに不安がった。医師はひざまずき、細い脚を軽く揉んでやる。
「泣くほど痛みましたら、言ってください。歩けるなら、大丈夫です。暑さに慣れるためにも、なるべく毎日歩きましょう」
「……ふうん」
正直、痛みには慣れかけていた。
どちらかといえば、身体中の痣や、酷く扱われた肛門の方が痛みは上だ。
医師はさらに脈を測り、眼を診察。真剣な目つきは、異常は絶対に逃さないと言わんばかり。
「熱中症は大丈夫そうですね。なるべく水分を多く摂ってください」
「はあい……くあぁ……ああ」
もはやフリードリヒは、医師の忠告を半分も聞いてはいなかった。意識を現実に留めようと必死だ。
「……もう限界かしら」
「ですかね。まあ初日はこんなものでしょう」
フリードリヒを半ば無理矢理立たせ、寝室へと戻る。
エリッサは妃を部下に任せ、医師と小声でやり取りをする。
「これから、さらに眠る時間が延びます。その末は、永劫の眠り、静かな死です」
「なんとかなりませんの?せめて、世継ぎが生まれるまで」
「その為に、私は呼ばれました。お任せ下さい、術はあります」
歩いては食う寝る、を繰り返した結果だろうか。一週間後には、フリードリヒの食欲は目に見えて増え、血行も良くなってきていた。
慢性的な栄養不足および運動不足の解消からか、自然と文字の読み書き勉強も進む。
だが、眠る時間も日に日に増えていった。
本人はおろかロメンラルの侍従も、フリードリヒの睡眠時間を計測などしていなかったらしい。
これは医師がエリッサに言い付けて初めて明らかになったものだ。
うっかり意識を飛ばした回数、昼寝の総数も合わせると、人間こんなにも眠れるのかと唸りたくもなる。
医師は医療記録を読み直し、だが患者に余計な不安を抱かせないよう、嘆息は飲み込む。
「ふあ……ぶぅえっくしょい!!……うえー」
「あらまあ、景気の良いくしゃみですこと。ですがもう少し、紳士的におすませなさいな」
意外とおっさん臭いくしゃみを咎めながら、エリッサはハンカチでフリードリヒの鼻水を拭う。
まるで親子だと主従を見ていた医師だが、仕事を思い出し、妃に向き直る。
「申し訳ありませんがエリッサ殿、席を外していただけませんか?これは教会的にも内密の話ですので……」
「わかりました。扉の前で控えております……皆、手を休めて着いておいで」
エリッサが部下に呼びかけると、侍女たちは仕事の手を止め、侍女頭に続く。
途中で妃に一礼する者や、新しい水差しを置いていく者もいた。
「いい侍女たちですね」
「はい……みんな優しいです」
フリードリヒは心底から、自分の世話をしてくれる者を誇らしく思っていた。
侍女たちも、妃のそういった素直な部分を好んでいるのだろう。
良い主従関係だと感心しつつ、医師は懐から一枚の便箋を出して広げる。
「現世と神域。その境で神と会話をするのはあまりにフリードリヒ様のお体に負担がかかりすぎるようです」
「う、はい」
一日中眠るという行為は、意識だけではなく、体にもよくない。
こんなことを何度もこなせば、運動をしたとて、無駄になってしまう。
「ですので、ケツァルコアトル様の一部を、こちらに顕現させようと思います」
「けん……げん?」
「ええ、神とはいわば、力そのもの。一部をこちらに召喚するぐらい、わけもありません。やり方は同僚に教わりました……あとは、フリードリヒ様が私めに命じるだけです」
恐らく、医師の持つ便箋にその方が記してあるのだろう。
フリードリヒはしばし迷った。
正直、ケツァルコアトルと話すのは辛いものがある。
とはいえ、先に進まずにうやむやにするのもどうだろう。
「あ、の……一人だと不安、なので……」
「大丈夫、私もおりますから」
その一言で、安心できた。何も自分一人で決めなくてはならない事ではない。
「んと……じゃあ、お願いしま、す」
医師はそれを聞くと一礼し、流れるような動作で小刀を取り出す。
何を、と聞く間もなく、医師は躊躇なく自身の掌を切った。
「ひゃっ」
怯える妃を無視し、血まみれの手で聖印を握る。
便箋の内容を、声なき声で口上を唱える。
『――“翡翠の雪ぎ"を招聘す』
フリードリヒにはその一言しか聞こえなかった。
耳鳴りがひどく、また、どこか落ち着かぬ気分となったからだ。
――よろしい、承認します
内から声が込み上げた瞬間、全ては終わっていた。
「……ふあ」
花の甘い香が、フリードリヒの鼻をくすぐる。
「成功いたしました」
医師が手を止血しながら、ご覧なさいと、フリードリヒの寝台を見る。
「……はえ?」
フリードリヒのひざ元、白いシーツの上に、碧い羽が非常に美しい、一羽の翡翠がいた。
翡翠は愛らしく一鳴きし、フリードリヒを見た。
「か、可愛いです……」
「ええ、可愛いですね」
『して、わたしの愛しい子。何用ですか?』
翡翠が言葉を発すると、フリードリヒは驚きに目を見開き、興奮ぎみに盛り上がる。
「わ、喋りましたっ。お医者様、すごいです、賢い小鳥さんですっ」
「ええ、よくできていますね」
「皆にも、見せたら喜ぶでしょーか?」
「んー……残念ながら、小鳥さんは、私とフリードリヒ様にしか見えません」
「そうですか……残念です……陛下も喜ぶかなーって、思ったのですが……」
暴挙極まる王の場合、喧しいとか言って焼鳥にするのは目に見えているが、純真な妃の前でそのように無粋なことを言うはずもなく。
「陛下は貴方様がいれば充分でしょ……いった」
無視され続ける翡翠が堪えかね、医師の手をつつく。
「ああもう……フリードリヒ様、こちらがケツァルコアトル様、の化身です」
「……え?」
角を持ち、花を纏う神の面影なぞ全く無い。
フリードリヒは翡翠をまじまじと見つめる。
『この声を忘れましたか、わたしの愛しい子』
翡翠の発する声は、たしかに聞き慣れた神のものだった。
「ケツァルコアトル様ー!」
『ですから、先ほどからそう……まあ、あなたの思考が少し遅いことは知っています。して、わたしと何を話すのですか』
「……え、と」
そういえば、そこまで考えていなかった。
早く何か言わねば、とフリードリヒは足りない脳を必死に回転させる。
「フリードリヒ様、急がずとも、神は逃げませんよ」
見かねた医師が、やんわりと落ち着かせる。
「……はい。あの、ケツァルコアトル様は、何故わたくしたちに憑くのですか?」
祝福でも、呪いでもない。使命の代行者だと、神は言った。
ならば真意は何か。医師も興味があるのか、真剣な表情。
『端的に言えば、歪みを正すため、そして人々に赦しを教えるために』
「言葉の端を繋げて惑わすのは、よしてください」
医師が眉を潜め、なんと神に意見した。
恐れを知らぬのか、翡翠に臆することはない。
ケツァルコアトルも怒ることなく、器用に首を横に振る。
『まだこの子には早い。わたしの愛しい子よ、あなたには、多くの哀しみと、さらに多くの選択が来たります』
「……はい」
「どうか決断を惜しまないで。わたしを受け入れれば、人をこえる力を――」
翡翠の小さな体が、医師の手に押さえこまれた。
「私がお傍にいる限り、この方を連れていくような事はさせません。絶対に」
「お、医者様……」
フリードリヒは慌てて医師の手を取り、ケツァルコアトルを助け出す。
翡翠は少し羽ばたき、フリードリヒの手の上で鳴いた。
「わたくしは……わたくしは、陛下と……皆と、いたいです」
左手首の腕輪を一瞥し、妃は婚礼儀式の誓いを思い出す。
実際、ロメンラルにいた頃よりも、今はとても充実していた。
「今日は何を、するんだろーって、今日は何を話そうかってー、考えたの、初めてなんです……」
それはフリードリヒが生まれた時から共にいる神が、一番よく知っていた。
ゆるゆると精神を蝕む孤独から逃れたフリードリヒは、この楽しい日々を無くすことを、何よりも恐れている。
「んと、ですからあの、今のままが……いいです」
翡翠は首を傾げた。二人の様子を、医師が不安げに見つめる。
『それが選択の結果ならば、わたしは介入しません。ですが覚えておきなさい、わたしは使命と役割を果たさねばならない。その時が来たら、また』
翡翠は羽ばたき、空気に溶け込むように姿を消した。
残された王妃は、泣きそうな表情で医師にすがる。
「どう、しましょー……ケツァルコアトル様、お、怒ってませんよね……?」
「そこですか。大丈夫です、王妃様は神の寵愛を受けていますから、そのぐらいでは怒られませんよ」
医師は安心させるよう微笑みかけ、フリードリヒの枕元にある呼び鈴を鳴らし、侍女たちを呼び戻した。




