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「ッあ、ああああ!?」
両腕を駆使し、這うように起き上がる。
白いシーツの、寝台が目に入る。
「あ、あ……ああ……」
「フリードリヒ様、いかがなさいまして!?」
悲鳴を聞き付けたエリッサが、天蓋布を勢いよく開く。
「……う、あ」
何と説明したものか。悪夢というには、性質が悪すぎる。
「ああ、おいたわしや。ゆっくりとお休みなさいませ……」
柔らかい布で、そっと涙を拭われる。泣いていたのか、とフリードリヒは呆然とした。
まるで自身の両腕をもがれたような、生々しい夢であったが、きちんと腕は健在している。
フリードリヒの内にいる神が見せたものか。見知らぬ光景であったが、心当たりはあった。
手の平を見つめたまま動かない妃に、エリッサが刺激しないよう、そっと話かける。
「お疲れのようですね。お眠りなさいませ……神憑き様に仕事を与えるような国ではありませんから」
「……うん」
なんとか声を搾り出し、頷く。
今さらになって、身体の怠さ、いつにない頭の重さを感じ取った。
エリッサに寝かしつけられ、フリードリヒはすぐさま深い眠りにつく。
「ご容態はどうですか?」
エリッサの後ろに、男の影。
眉間に皺を寄せ、宰相ダイケンは唸るように聞いた。
「医療記録をご覧になりまして?殴打による内出血、肛門は裂けて出血してますし、嘔吐もしたようなので、点滴をせねばなりませんでしたし」
「……陛下」
「医者の顔も青ざめておりました。特に酷いのは、これね」
エリッサが寝ているフリードリヒの襟を少しめくる。
そこには首を絞めた跡が、まざまざと残っていた。
「っ、これ、は」
王の暴虐を長年、目の当たりにしてきたダイケンでさえ絶句し、目を逸らす。
「陛下は、神をも恐れぬのか……今度は何が気に入らぬというのでしょう?」
「……そういえば、フリードリヒ様が、お世継ぎはいるのか、と問うた際、陛下はお答えにならなかった……むしろ、余計なことを言うなと、暴力を振るいましたわ」
「なんと、それは真ですか」
曖昧模糊を嫌うエンディミオにしては珍しい。
世継ぎがいらない、というのは困る。
アルヴァ王家は――六代前の王以降、ある理由から一子しか恵まれず、近い血は全て断絶した。
現在残っている諸公は、他国の血が濃く、また実力主義が強いアルヴァでは、中流階級の大臣もいる。
辺境伯の、しかも三男が妃にまでなれたのは、緊急性と、アルヴァの文化によるものだ。
「可哀相な方。知らぬ国に送りつけられ、このような目にあうなど……」
「……で、フリードリヒ様の荷を纏めている、と」
エリッサはもう諦めていた。まだ若い彼が、耐えられるはずもない。
泣きわめけるならばまだいい。自失してしまうようならば、自害する前に離婚をするべきだ。
「宰相として言わせていただくと、お世継ぎを残してからにしてほしいものです」
あっさり残酷なことを口にするダイケンに、エリッサは嫌らしい笑みで応える。
「ダイケン殿も言うようになりましたな。喜ぶべきところかしら」
「そも、私は抑止力になるかと、無理に貴女を侍女頭にしましたのに、無駄でした」
何故か議論から皮肉の言い合いに。侍女頭と宰相の間に、剣呑な空気がただよう。
王妃の目の前で、二人はみっともなく口論をはじめた。
「もう軍を退いて何十年も経ってます。まだ三十半ばの、しかも陛下を止めるなんて、死んでも不可能ですわ」
「でしたら一度死んでも止めてください。まだ元気な元軍人が何をおっしゃるか」
「だいたい、私ぐらいしかいなかったの?人望が無いこと」
「厳正なる調査をして、貴女が適任と思ったからです。貴女とて、ふたつ返事で了承したではありませんか。そこまで言うのでしたら、辞めてもらって結構です」
「こんの、小僧――」
さらに争いが発展しようという時、フリードリヒの咳込む声がした。
彼は眠ったまま身体を痙攣させ、寝台に胃液を戻していた。
「ダイケン、医者を呼びなさい。早く!」
「は、はいっ」
宰相に鋭く命じ、エリッサは窒息しないよう、フリードリヒを俯せにして口に指を突っ込み、全て吐き出させる。
何も口にしていないフリードリヒは胃液しか出さないが、それでもまだ起きなかった。
「意識がない……?フリードリヒ様!聞こえますか!?フリードリヒ様!」
「医者です、通して下さいっ」
駆け込んできたのは、神憑きたるフリードリヒを考慮して新しく入れられた医師。
この医師は、医療の他に、神学の知識も深く、神憑きの扱いをよく理解していた。
呼びかけられたフリードリヒが、不快感と共に目を覚ます。
「……う、あ」
「ああ、ようございました。エリッサ殿の処置がよかったのです」
「それはどうも。それで、いかがしたのでしょう」
フリードリヒの背中をさすりながら、エリッサは固い声で聞く。
くだらない口論なぞしていなければ、もっと早くに気づけたかもしれないのに。
侍女頭の心中など知らず、医師は腹や胸を触診したり、目を検診した。
そしてきっぱりと、医師らしくないことを言い放つ。
「怖い夢でも見ましたね」
フリードリヒは初対面の人間に話かけられ困惑したが、医師だということを認識すると、素直に頷いた。
「神が見せますから、現実のようでしょう。今のは拒否反応ですよ」
「……?」
意味がわからず首を傾げると、医師は微笑みながら、ゆっくり解説。
「貴方の精神……心が、見ている夢に適応、呑まれないように、貴方の身体が本能的に貴方を守ったのです。何も怖いことはありませんよ」
安心させるように、ゆっくりと語りかける。
この人が神様だったら、眠りも楽しいだろうな、と考えていたフリードリヒは、あれ、と再び首を傾げる。
「お、医者様……ど、こか、で……会いまし、た?」
「いえ、初対面ですよ」
夢で見たのだろう。フリードリヒはそう納得し、医師が医療記録を書いている様を眺める。
「不安そうですね。このような事は、初めてですか?」
「……はい」
「そうでしょう、神憑りは、一時、病として扱われた時代もありました」
フリードリヒは猛烈な眠気が、恐ろしくなっていた。
怖い夢ならば目覚めればいい。だが現実にまでおよぶものとなると――あのように苦しい思いをするなら、できればもう眠りたくない。
それを察した医師は、妃の心の安寧のために言葉を重ねる。
「失礼ですが、王妃さまは、神と言葉を交わしたことは?」
「いえ……語りかけ、ては、きま……ふああぁ」
「……内なる神を、感じてください」
医師は脈絡もなくそう言うと、フリードリヒの胸に手を当てた。
「目を閉じ、手を開いて……そう。好きな間隔で呼吸してください。そして呼吸と、胸の鼓動に意識を傾けて」
言われた通りにすると、フリードリヒの意識は容易にとんだ。
――調和、風、均衡
目を開くと、医師とエリッサに支えられていた。
「何か、聞きましたか?」
今の単語をそのまま言えばいいのだろうか。
フリードリヒは恥ずかしげに、おずおずと口にする。
「調和、風……均衡、と」
それだけだと言うに、医師は口をぽかんと開き、顔を青ざめさせた。
「な……奇跡か……」
「早くおっしゃってくださいまし」
呆れたエリッサが催促すると、医師は呼吸を整え、フリードリヒの耳に顔を近づけた。
「王妃さまの内におります神の名は――とされています」
さっぱり聞き取れなかったが。しかし医師が離れていくと、遅れて理解ができた。
「け、つ」
「その名を決して口外しませぬよう」
「は、はい……」
医師はぴしりと注意しつつ、医療記録に何かを書き足す。
そして場をはばからず独り言を展開。
「神域の最古の一柱……ああもう、奇跡というより、もはや馬鹿馬鹿しいというか……まあ悪い方ではないが――」
「あのぉ……」
「はい、なんでしょう?診察はおしまいですよ」
記録の写しをエリッサに渡し、医師は早くも、帰る準備をしていた。
「……あり、がとう、ございます」
「どういたしまして。お大事に」
医師はフリードリヒが眠ったことを確認し、エリッサを手招いた。
「あのですね、子供のことなのですが」
「……無理そうですの?」
「一度ならいけるとは思います。ただ、男性の場合、鎮痛剤や促進剤などの薬を多く投与しますので、そちらが不安です」
「……わかりました。体力をつけさせておきます」
「少しずつでいいですから、体重を増やしてあげてください」
「努力いたします。ご苦労様でした」
「いつでもお呼びください。あ、伽は再来週まで禁止でお願いします」
医師は一礼し、足早に去っていった。
エリッサはため息をつき、部屋の隅で成り行きを見守っていたダイケンに近づく。
「宰相も暇ですのね」
「からかうのはよして下さい。フリードリヒ様は大丈夫なのですか」
「あなたが選んだ医者でしょう?それに私がつきっきりで見ています」
「……わかりました。陛下には心配なきよう、報告しておきます」
「あと、再来週までここにはこないで、ともね。もし来たら、暴れ牛が特攻いたしますわ」
二人は妙な結束をし、笑い合った。
王に忠誠を誓ってはいるが、正直、見ていられない部分もあったのだ。
アルヴァの自由な気風は、こういったところで厄を生んだりもする。