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――さあ、おいで。わたしの愛しい子
――あなたはわたしが使わした救い
――どうかわたしの傍に来てください
――そしてわたしの手を取り、共に終わらせましょう
優しいやさしい声は、いつだって彼に囁き、甘美に誘う。
ああ、だがそれはならぬ。自分には愛すべき、支え合うべき方がいる。
もう今日は勘弁してよ、と思っている矢先、ようやく目を開くことができた。
「え、と……」
南国アルヴァの新しき王妃フリードリヒは、瀟洒な椅子に座って頭を抱えた。
ああそうだ、と思い出す。結婚腕輪の交換が終わり、今は夫であるエンディミオが、披露宴で客人相手に接待をしている。
神憑きということを考慮され、フリードリヒは休憩するよう言い渡された。
故郷の北部ロメンラルでは、畏るべきものとして、一切の外出および申し立てが禁じられていたというのに、文化の違いはすごいなあ、と渦中の人物はぼんやり考えていた。
「どうされました王妃さま。ご気分がすぐれませんか?」
傍らの侍女エリッサが話し掛けてきた。手には水の入った硝子杯。
「だい、じょうぶ……んと、あと……どのくらいかな」
「あと十分も待てば、貴方様の陛下はお戻りになりますよ」
からかうエリッサに、フリードリヒは言い返す言葉が浮かばず、照れ隠しに視線を下に向ける。
ふと、左手首の腕輪が目に入る。
金で造られた豪奢なそれには、エンディミオと彫られている。
一方、対の腕輪には、フリードリヒの名が刻まれている。
互いは互いの所有者であるという、愛と戒めの証。
「……なんか、あっけ、なくて……びっくり」
「ええ、ええ。実はここだけの話、陛下が式を短く略せと命じたそうですわ」
何故エリッサがそんなことを知っているのやら。――まあいいか、侍女頭だから。
「陛下、が」
「素晴らしい。陛下もそれなりに努力してらっしゃいますのね」
自惚れても、よいのだろうか。
何やら今日は、色々な意味で王の言動、行動に振り回されていた。
「とはいえ王妃さま、気を抜かないでくださいましね。この後は祝宴で陛下もお忙しい。私どもが側におりますが、何かありましたら、すぐにおっしゃってください」
「……うん、ありがと」
この短期間、エリッサは非常にフリードリヒに尽くした。
故郷の侍従たちにも、このように構われたことはなかった。
親子ほどに歳の離れた彼女だが、フリードリヒには最も信頼篤い人だ。
だからこそ、か。エリッサはまるで子供にするように、王妃の頭をなぜた。
「まあ、宴が終わりましたら、陛下と結婚初夜をお迎えあそばせ。あなた様のお勤めが果たせますよう、私は祈っております」
――お勤め。
ああ、そうであった。黒獅子王は、世継ぎを望んでいるのか、未だ真意がわからないのだ。
あれだけの元・妃がいながら、子供はいない。
「……いいの、かな」
「何がです?」
「……ううん」
不安と不審をこれ以上抱えるのは苦痛だ。
どうせ神憑きに話し掛ける者などおるまい。
フリードリヒは半ば投げやりに意識を飛ばした。
――真実など、ただの事実にすぎません
――あなたの推測は正解です
――動きますか?歩みを止めますか?
――この手をとるなら、あなたにひとを超える力をあげましょう
がん、と大きく頭を揺さぶられ、フリードリヒはようやく起きた。
長いこと熟睡していたらしい。
やはり、眠りが深く、長くなってきている。
眼前には眉をひそめた黒獅子王。
疲れた風も見せず、相変わらず威風堂々としている。
「……え、と」
本当にどれほど寝ていたものやら。見知らぬ部屋で、二人きりであった。
祝宴はとうに終わったものか。
「先が思いやられるな、そなたは」
「……も、申し訳、ありません……」
自分と他人に厳格なる王は、別に恫喝したわけではあるまいが、怒られた経験の少ないフリードリヒは、それだけで竦み上がってしまう。
「よい。期待はしておらぬ。そなたはそなたの勤めを果たせ」
フリードリヒが緊張により息を呑むと同時、エンディミオに襟を捕まれ、引きずられる。
天蓋つきの柔らかい寝台に投げられ、押さえこまれた。
「いっ……」
エンディミオはひどくつまらなそうな顔で妃にのしかかり、乱暴に衣服を剥ぎ取る。
「へ、いか……お待ちを……どう、かお待ちを」
「戯言は聞かぬ」
「ああ、陛下。どうか、真意を、お聞かせたもう……あな、た様は……本当に、お世継ぎを、おの、ぞみ――」
問いかけが気にくわなかったらしい。
エンディミオはフリードリヒの白い首を強く掴み、あろうことか絞めた。
「あ……か」
「たかだか受胎の肉ごときが、王に意見するとは、見上げた根性であるな」
殺される、と本気で思った。だがかすかに残った冷静な部分が、王が本気で力を込めれば、この柔い首なぞへし折れる、とフリードリヒに囁く。
「……も、うし訳、ござい……ぐっ」
エンディミオは首から手を離すと、今度は頭を掴み、俯せに押し付ける。
咳込み、必死に呼吸するフリードリヒを尻目に、エンディミオは事を進める。
フリードリヒとしては、今さらどう扱われようが、別にどうでもよかった。痛みも苦しみも、仕方のないものとし、諦めている。
重要なのは、かの王がどのように思っているか、だ。
奥歯をつよく噛み、フリードリヒは悲鳴と嗚咽を殺す。
意志は交わされぬまま、暴風のような夜は過ぎていく。
日の光が地にも届かぬほどに、鬱蒼とした森。
朝か夜かも判断がつかない森には、たくさんの生と死が溢れていた。
つと、白い仮面の何かがいた。
緑の蔦で構築された、偽りのからだ。
声がする。大勢の人の声。
仮面の何かと対峙するは、赤い兵士と、藍の兵士。
だが兵士たちは、次々に蔦の攻撃を受け、倒れていく。
仕方ない、とばかりに出てきたのは、二人の人物。
一人は凄まじい剣技で。一人は不可思議なる魔法で、仮面と渡り合う。
ああ、だが、木々の死角から蔦が二人に伸びる。
かろうじて避けたが、一人は剣を持っていた左腕を。一人は短槍を持っていた右腕を、それぞれ引き千切られた。
腕は仮面のからだに吸い込まれ、いびつなる両腕となる。
屈強な褐色の左腕と、華奢な白色の右腕に――