/.Ruf 2
死と不吉の預言は、少しずつ、だが確かにフリードリヒの精神を蝕んだ。
流行り病や、国境での小競り合いを預言し、それは必ず成就した。
しかしそれら不幸を止める術を、フリードリヒ自信は持たないのだ。
ただ訪れる悲劇を、端から見ていくしかない。
そのもどかしさの、なんと苦しいことか。
混乱を招くとして、預言の記された紙片は、公のものにはされず、内密に保管された。
「王妃様、僭越ながら私が思うに、これらの預言を避ければ、死や災いは逃れられるのでは?」
「……え?」
だが預言の閲覧を許されているセシルは、度々フリードリヒの元を訪れていた。
預言の紙片は全て王室で管理しているが、恐らくセシルは内容を記憶し、宗主に伝えているだろう。
「そうは思いませんか?私は来月、リウォインに行けば確実に死にますが、行かなければ生き延びます」
「え、あ……そうなの?」
逆転の発想だった。傍らの鵲を見ると、まるで死骸のようにひっくり返り、小匙をくわえて遊んでいる。
『知らんわ。勝手に解釈するがよい』
「んと、好きに考えなさい、だそうです」
それを聞いたセシルは、先日成された預言の紙を広げる。
「ご覧ください。
過去なく、未来なく、恐れなき者とは、私を指します。私は教会に生涯を捧げていますからね。
そして、身代わりとなりて赴けど、とは宗主の代わりに行けど、と解釈できます」
「……はあ」
セシルの言葉はどこか独善的ではあるが、あまりに容貌が美しいため、間違いないという錯覚をしてしまいがちになる。
「盲いた魔女とは、ヘルガ女王のことです。彼女は目が悪いと聞いています。
餓えた魔女とは、恐らくリウォイン国境沿いにある、メッシュード共同大墓地の、腐敗の魔女を指すかと」
そこまで聞き、フリードリヒはあれ、と疑問が沸いた。
「魔女って、ヘルガ様だけじゃあ、ないのですかー?」
てっきり、魔女はヘルガただ一人と思い込んでいた。
しかし“忌まれし森"が魔女を犠牲に発生したならば、他にいてもおかしくはないわけで――
「ええ。存在しておりますよ。教会が確認している限りでは、七人です」
隠すことでもないらしく、セシルはあっさりと答えた。
「お、おお……と、いうことは」
ヘルガのようなおっかない人物が、あと六人もいるというのか――フリードリヒは目眩を覚えた。
王妃の不安を察したセシルは、微笑を浮かべて諭した。
「ご安心ください。ヘルガ女王が特別に卑怯で嘘吐きなだけで、他の方は普通ですから」
「そ、うなの?」
セシル曰く、ヘルガの言葉の九割は意味のない嘘だという。
人付き合いに慣れず、なんでも真に受けてしまうフリードリヒは、恰好のカモだった。
「ヘルガ様……ひどいー」
「とはいえ、魔女らが教会を敵視しているのは事実です。どうかお気をつけて」
ヘルガがフリードリヒを忌み嫌うのは、リウォイン王家の威光を守るためだ。
だがそれとは別に、魔女と教会の根は深い。
教会関係者と深く関わるフリードリヒは、何をせずとも、魔女に嫌われるだろう。
「――して王妃様。故に私は、御身に大恩を感じております」
「そんな……んと、お礼ならば、神様に」
「そういった謙虚さも、素晴らしい。どうか自信をお持ちくださいませ。
“忌まれし森"を昇華なさったことを、我らが宗主は大変に感謝しております」
そう思うのならば、ヘルガをはじめとした魔女らに、エンディミオに――そして人生を潰された神憑き達と、角を折られた神に、心から謝辞を伝えるべきだ。
あまりに犠牲が多過ぎた。
エンディミオ達が宗主を嫌うわけを、フリードリヒは少し理解した。
つと、鵲が喚いた。
黒耀石の鏡に、数式が浮かぶ。
嫌気がさしてきたフリードリヒだが、セシルが期待を込めてこちらを見る。
しかもテスカトリポカの様子もおかしい。早くしろとばかりに、鳴いている。
渋々と、フリードリヒは筆を取った。
だがその内容に、二人は首を傾げた。
全く、意図が掴めないのだ。
血を背負う魔王が
革命の旗を手に来る
ただ終を導くために
嘆きの歌は文明を焼き尽くし
あまねく過ちを滅ぼす
跡には悔恨が残る
「魔、王?」
おどろおどろしい、謎めくその肩書き。
一体それが何者を指すのか、それは誰にもわからなかった。
テスカトリポカに聞こうと、鵲の方を見たフリードリヒは、絶句した。
戦神は本来の姿をあらわに、預言を見ていた。
いつもの張り付いた笑みは、無の表情となっている。
『……魔王』
それだけを呟いたテスカトリポカは、鵲に変体し、羽ばたいては虚空に消えた。
謎の預言の後、テスカトリポカは預言をしなくなった。セシルも、教会に戻ったまま音沙汰ない。
だが悩む暇もなく、リウォイン和平特使を迎える日が来てしまった。
侍女らに寝台から引っ張り出され、化粧だ着付けだと忙しい。
この時点でフリードリヒは目が回りそうだったが、エリッサに半ば抱き抱えられるように移動を強要され、本当の意味で目が回る。
和平などと甘ったれたことなど、アルヴァもリウォインも納得はしていない。
いわば、ふたつの国は戦争を望んでいた。
長い因縁は、もはやどちらかが滅ぶまで続く。
だが、今はまだその時ではない。
ヘルガは年を召し、だが継承者はいない。
今にも侵攻に乗り出しそうなアルヴァを抑えるため、和平特使を、という次第だった。
軍法会議に出る王の代理として、フリードリヒは和平特使を城門で出迎えた。
和平とは程遠い暴虐王が迎えるよりは、リウォイン出身の穏やかな気質の妃が対応する方が、特使の印象も良い。
特使として来たのは、リウォイン外務を取り締まる、ユーマイル公爵だった。
魔女の統べる地においては、数少ない穏健派であり、悪辣なる女王の国が他国と交渉をできるのは、公爵の持つ信用に他ならない。
「ようこそアルヴァへ、公爵閣下」
「これはこれは王妃殿下。御目文字でき、光栄にございます」
ユーマイル公は、その評判に違わず、穏やかに老いた男だった。
なごやかさが服を着たような白髪の公爵が、なぜ悪い魔女に忠誠を誓うのか。それは永遠の謎だ。
つと、公爵はフリードリヒの顔を見て、感心のため息をついた。
「ほんに、よく似ておいでですな……」
何かと問う前に、ユーマイル公は護衛の兵士を呼んだ。
紺の軍服を着た衛兵が、帽子を取る。
その顔を見たフリードリヒは、喜びに表情が綻ぶ。
「お、ひ、さーん!愛しのフリッツー!」
「うぐあ!?」
有無を言わさず抱き着く衛兵に、王妃付きの護衛が、険しい顔で取り囲む。
「ま、待ってください。この方は――」
「むふふ。いいよ、自分でやる」
その貌は王妃によく似通り、護衛らを戸惑わせた。
銀髪に、抜けるような白い肌。悪戯を楽しむ藍の眼。
精悍な顔立ちは、実際は軟弱なフリードリヒとは似ても似つかない。
「んーと、フリードリヒ様の兄にあたります。ローレンツ・ケーフィンと申します。
ユーマイル公の護衛任務に当たっております。皆様、お勤めご苦労様ですー」
しかして物おじせぬ態度と、暢気な口調は、王妃のものと同じだった。
フリードリヒの二人の兄がうち、次兄ローレンツはリウォインの軍に所属している。
微妙な立場にある実家に配慮し、フリードリヒは兄弟とは会えないでいた。
「うにゃうにゃ~。フリッツ、元気してたかー?」
「兄様も、てか、くるしっ」
抱き潰す勢いのローレンツを引き離し、相も変わらず陽気な兄を見る。
かつて軟禁状態にあったフリードリヒに、唯一構っていたのはローレンツだった。
ユーマイル公はその事情を知り、わざわざローレンツを護衛として組み入れた。
外交に、相手方の身内や知己の者を動向させるのは基本である。
とはいえ、微妙な立場のロメンラルだ。王の怒りを買わないかは、不安ではある。
勇敢かつ、優しいユーマイル公に、フリードリヒはすぐさま心を許した。
アルヴァの軍法会議は長引くようだ、と又聞き、ローレンツは欠伸を噛み殺す。
卓を挟み、和やかに公爵と会話をする弟。今や大国の王妃。
全く眠気を見せないフリードリヒに、疑問を持たないでもなかったが、まあ色々あったのだろうと割り切った。
「おい“ケーフィン様"よ。どうお近づきになるんだ?」
隣に立つ同僚が嘲る。わざと姓を呼び、せせら笑う。
ローレンツは同僚の方を見ずに、淡々と揶揄を返した。
「悔しけりゃ、身内に神憑きを出してみせろよ」
凄まじい皮肉に、同僚は黙った。
リウォインにおいて神憑きを輩出した家がどうなるかなど、火を見るより明らか。
この程度で黙するならば話し掛けるな、とローレンツは毒づいた。猫に引っ掻かれたほどの痛みもない。
テスカトリポカは痛みに呻き、這いつくばるようにして起き上がった。
『……クソっ』
破壊された機能を探る。三つある疑似人格が、ひとつ失われていた。
テスカトリポカは、無限ともいえる闇を見渡す。
広大な神域の一層には、戦神以外にはただ一人の影があった。
『おう風よ、みすぼらしいわたしを見に来たか』
『なぜわたしがそのような真似を』
白い身体に翠色の蛇を纏わせた男。金の眼はどこか軽蔑したように、テスカトリポカを見ている。
『裁定者はどこか』
『眠りに入りました。こちらから接続することはできません』
テスカトリポカは解せないでいた。
頭部に触れると、右側の角が一本、根本から折られていた。
人を傷つけた者は、悉く角を折られ、力を失う。
断罪の裁量は全て裁定者による。
その真意なぞ、誰にもわからなかった。
蛇神ケツァルコアトルは静かに糾弾した。
『無意義な契約を結び、結果的にあの子を傷つけた。その報いです』
『しかし選んだのは平和の君主だ。望むものは与えられるべきなのだよ』
ケツァルコアトルは憤慨した。かの愚神は、事態をあまり理解していない。
『“魔王"の演算結果が出たのですよ。運命の環はあの子を巻き込み、もはや止まることを知りません』
『“魔王"は必ず生まれる。それは当然であるべきだ。
――それともなにか?お前が憑かねば、魔王は生まれなかったか?』
この問答は無意味だ。ケツァルコアトルが憑かなければ、王家の呪いがなければ、忌まれし森がなければ。あの時――
『“翡翠の雪ぎ"よ、お前らしくもない。わたしたちの行いは間違いではなかった。
後悔でもしているのか?その乱れはなんだ』
テスカトリポカはわざと、相手の怒りを煽る。
しかしてその手には乗らず、ケツァルコアトルはただ伝えた。
『夜の風よ、あなたはこのまま、あの子の傍にいなさい』
『切り離すのではないのか』
『魔王の誕生を人に示唆し、あの子の助けになるのです。もしも魔王と敵対するならば、それに対抗するためにも』
戦神はあからさまに嫌悪した。
そも、魔王が誰かなど、今の時点では解らない。
テスカトリポカが出来るのは、フリードリヒに預言をさせ、人々に魔王の存在を示すことのみ。
まさかこのような事態になるとは。テスカトリポカはひどく後悔した。
『……風よ、お前はどうする』
また共に行動するのか、と思っていたテスカトリポカに、調和の神は意外な答えを寄越す。
『――わたしは、休止状態に入ります』
『なんだと?』
休止状態は、最低限の機能だけを残し、全ての行動を停止してしまう。完全に他者からの接触を断ち切り、本体と裁定者以外の再起動は許されない。
それすなわち、ケツァルコアトルは人と関わることを止め、神域で眠りつづけるということ。
人を愛し、苦心し続けた善き神の、あまりに意外な決定だった。
『おう風よ、お前を求める者が来た時はどうするのだ』
『その際はわたしの付随機能が。
“漆黒による変革"。あの子をお願いします』
その言葉を最後に、蛇神は闇に消えた。




