16
王宮の執務室では、いつものように仕事が行われていた。
しかしエンディミオ一人がペンを動かすのみ。
宰相は所在なげに珈琲を煽り、書類を確認する大臣や文官、秘書らは落ち着きのない手つきで仕事をし、時たま書類を落とす。
つと、慌ただしい足音が聞こえてくる。
足音の主は間もなく、乱暴に執務室の扉を開けた。伝令だった。
「陛下、朗報です!無事にご出産なされました!
ああそれから、御子は両の腕を備えております!」
執務室が沸いた。
大臣たちは何故か抱き合い喜び、奇跡だと叫ぶ。
ダイケンが長い息をつく。腕を備えているかよりも、まず無事に生まれるかが懸念だった。
密かにエンディミオは笑んだ。まさか本当に、呪いを解除するとは。
喜びもつかの間、もう一人伝令がやって来た。
「た、たたたいへんです!」
「なんだ、腕が取れでもしたか」
別にそれでも構わないが、と言おうとしたが、伝令の報告は、それ以上の衝撃を与える。
「御子は双子です!それも、男女の!」
ダイケンが珈琲をぶふおと吹き出し、エンディミオはペンを取り落とした。
インクや珈琲が書類にかかるが、誰も気にしてなどいられなかった。
何世代にも渡り、王家は兄弟親戚の類が失われていたのだ。
王妃は呪いを悉く打ち破り、次の世代への新しい扉を開いた。
敬謙な信者でもないくせに、大臣や文官らは泣いて祈りはじめた。
「さすがにそれは――」
都合が良すぎやしないか?とは、この空気では言えなかった。
失われた意識の中、フリードリヒは最後の夢を見た。
結局、普通に分娩は不可能らしく、医師はいい笑顔で切開しますと宣言した。
いやいや心の準備が、という間もなく、麻酔をかけられた。
久しく、フリードリヒは境界にいた。
誰もいないが、ケツァルコアトルが出産に耐えうるよう、フリードリヒの体を守っていたのは理解していた。
「ケツァルコアトル様」
呼びかければ、背後から白い腕と翠の蛇が、フリードリヒを抱きしめた。
「……?」
『よく頑張りましたね。わたしの使命を達成していただき、感謝します。
これで、世界は次の段階へ進みます』
様子がおかしい。ケツァルコアトルは真面目であり、こういった悪戯めいた接触はしない。
『契約は終了。お別れです』
無理矢理振り向き、フリードリヒは愕然とした。
ケツァルコアトルの頭部にある三対六本の角、そのうち左二本が無残にも折れていた。
「な、な、なん、で」
『……あなた方に憑いたことにより、傷つけ、人生を狂わせた。その報いです』
「そんな……元は人がしたことなのに、どうしてケツァルコアトル様が報いを受けるの?」
『人を傷つけた場合、たとえどのような理由でも、角を折られて力を失います。
ただし、人がわたしたちを使った場合は、その限りではありません』
「でも、だからって……」
『これは最初から決まっていたのです。おぞましき力が人の脅威になると定まったあの時から。――あなたが命を賭すように、わたしも全存在を賭けた。それだけのことです』
フリードリヒが神をいかように責め立てても、ケツァルコアトルはこの事実は決して明かさなかった。
知ればフリードリヒに迷いが生じると、神はただ一個の道具として在りつづけた。
「嫌です。本当は、ずっと一緒にいてほしい」
無二の親友であり、意志を共有する兄弟であり、導いてくれる父である存在。
ぐずつくフリードリヒを優しく撫で、ケツァルコアトルは言い聞かせる。
『あなたには、愛しい伴侶がいる。大切な家族がいる。支えてくれる人々がいる。そしてあなた自身の意志がある。
人はわたしたちがいなくとも、歌いつづけます』
大いなる調和の神は、青年の頬に口づける。
フリードリヒも、親愛の情を持ってそれを返した。
『あなたに受け入れてもらえて嬉しかった。ありがとう』
目を覚ますと、夜も更けていた。
いかほど眠ったのか、聞く相手もいない。
「……」
フリードリヒは呼びかけようとしたが、無駄だと理解し、やめた。
異様な眠気はもう無い。産後の怠さと、覚めた頭が、ただ虚しい。
フリードリヒはこの喪失感が埋まるまで、ひたすらに泣いていた。
神憑きではなくなってから数日。
フリードリヒは術後の経過を見るため、いまだ寝台の住人だった。
腹を見ると縫い付けた痕があり、ぞっとしたものだ。
しかしあの医師は、切開手術法そのものを生み出した人物らしく、医療の世界では聖人扱いだと、看護師が言った。
そして散々世話になった医師本人は、出産までの契約だったようで、別の現場へ去ったとか。
しかし、フリードリヒは体の痛みよりも深刻な悩みを抱えていた。
「寝れ~ん」
昼寝しすぎて夜眠れないという、当たり前の事態に戸惑っていた。
眠れば一日が終わった日常とは違う。
今は退屈を紛らわす方法を考えねばなるまい。
侍女が明かりを残してはくれたが、本を読めるほど文字を勉強しておらず、動けるほどに回復もしていない。
点滴の管が許す範囲で、寝台の上を転がっていると、かちかちと鳴き声。鵲だ。
そういえば、とフリードリヒは考えた。
境界でヘルガと対峙した時に見た鵲は何だったのか。神には違いないのだろうが――
鳴き声は、寝台近くの鏡台の方からだった。
鏡の側で、鵲が鳴いている。
いや待て、何かがおかしいと、フリードリヒはゆっくり起き上がる。
鵲は飛んでいった。それで違和感の正体が判明した。
鵲は鏡の向こうにいた。実物ではなかった。
(まあ神様だし)
フリードリヒは、ちょっとやそっとでは驚かなくなっていた。感覚が麻痺している。
「なんだつまらん、もう少し驚いてみせろよ」
聞き慣れない声がした。
フリードリヒは今度こそ悲鳴を上げた。
鏡に映ったフリードリヒが喋り、笑っている。
「な、な、な」
鏡の中のそれは、ゆっくりと鏡から抜け出した。
化粧品や装飾品を落とし、床に足をつく。
何もかもがフリードリヒと同じであったが、鏡であるからか、婚約腕輪をつけている位置が逆であった。
「えっと……鵲さん?」
「そうだ、別に初対面というわけでもない」
姿が歪む。とたんに、あの医師に変わった。
「お、医者様……て、まさか!」
「察しがいいのは好きだ。
わたしはテスカトリポカ。ケツァルコアトルの使命を阻害し、監視する使命を持つ。まあいわば、調整役だな」
「監視、て……いつから」
「いつからだと?最初からだ」
テスカトリポカは再び姿を変えた。
幼い頃から世話をしてくれた、ロメンラルの侍女だった。
「え、あ、うそぉ!?」
もちろん、この侍女はエンディミオに初めて会う時にも一緒にいた。
あれもこれも、神がしてくれたと考え直すと、恐れ多い。
「わたしは人を介さず、現世に顕現できる。そして鏡に映った者に成り代われるのだ」
どうだすごいだろう、と侍女の姿をした神が踏ん反り返る。
「んと、テスカトリポカ様。僕に何かご用でしょうか?」
まさか本当に、自慢だけをしに来たわけではあるまい。
そう言うと、テスカトリポカはようやく、本来の姿を見せた。
鍛え抜かれた体躯。黒耀石の鎗と鏡の盾を持ち、その肌は石炭の乾留液を塗ったようにどす黒い。
左足は鏡の義足に置き換えられ、また顔の右半分は潰れていた。その代わり、肩に装備された鏡が右目を映す。
『単純なことだ』
『お前があまりに気に入った』
『この国は軍事国家だろう?』
『ならば争いを司るわたしと契約するがいい』
みっつの鏡に映ったテスカトリポカと、本体が一斉に喋り出した。
“忌まれし森"に勝るとも劣らぬ、化け物と呼ぶに相応しい様相。
フリードリヒは後ずさるが、テスカトリポカはなおも迫る。
四白眼の深紅の瞳に、目を離せない。
「いえ、結構です」
震える声で断った。今ここで契約をすれば、ケツァルコアトルを裏切ってしまう気がしたのだ。
テスカトリポカは青年から離れ、考えるそぶりを見せる。周囲の鏡が囁き合う。
『気が変わった』
『いずれ、必要とする時が来る』
『それまでわたしが待てるかは、疑問だがな』
『まあいいじゃあないか。これも世界の導き』
どうやら見逃してくれるものらしい。
テスカトリポカは鵲に変体し、喧しく鳴きちらして飛び立った。
とはいえ、諦めたとは到底思えない。
今後も断り続けなければならないと考え、フリードリヒは目眩を覚えた。
「何を寝ぼけている」
夢を見ていたらしい。寝台から落ちていた。
エンディミオに抱えられ、フリードリヒは目を覚ました。
「陛下、ど、どうされましたか?」
「様子を見に来ただけだ。これはそなたの物か?」
エンディミオが床に落ちていた小さな鏡を渡す。
黒耀石を磨いた鏡であるが、曇っており、何も映さない。
(あれ、夢じゃなかったのか)
フリードリヒは鏡を受け取り、枕元に置いた。
二人並んで、寝台に座る。
「陛下、御子が双子というのは、本当ですか?わたくしはまだ、ちゃんと見ていなくて」
「私も信じがたいが、事実だ。しかも男女のな」
民衆からは、王の子ではないのでは、という声もあるが、それはフリードリヒの知る所ではない。
「お名前、決まりましたかー?」
「ああ、男はルートヴィヒ。女はエバ」
「わー、早くお目見えしたい」
「……そなた、異常なまでの眠気はどうした」
痛い所を突かれたが、いずれはばれる。
しかし、神を宿していないと知れれば、フリードリヒの価値は失墜する。
「んと……その」
「まあいい。面倒が減るだけだ」
王の発言に、ひどく驚く。
フリードリヒは神があればこそ、の存在なのだ。
「陛下、そのぉ……」
「何を勘違いしているか知らぬが、そなたは教会のものではなく、私の妻で、この国の王妃だ。それに文句を言う者はおるまい」
「え、はひっ」
エンディミオの手が、フリードリヒの頭に伸びる。ただし叩くのではなく、乱暴に撫ぜた。
ただ気恥ずかしいだけで、痛みは何もない。
「あの、陛下」
「何だ」
「あの時は、好きじゃないと言ったけど、本当は――」
エンディミオは言わせまいと、容赦なく相手の口を手で塞ぐ。
嘲笑うかのような笑みを浮かべ、黒獅子王は妃の耳元で囁いた。
「愛している、フリードリヒ。我が妻よ」
「え……あ、あ、うそ」
フリードリヒは混乱した。かの暴虐王が、愛を囁くとは。
今まさにこの瞬間が、夢ではないかと不安になるほど。
「嘘かと疑うはこの口か、え?」
「あぅぐ、いひゃいいひゃい、ふみまへん」
唇が裂けるのではないかというほど、口の端を引っ張る。
いたぶる事が楽しくて仕方ないらしい。我が儘な王は、満足げに笑う。
ああ、これがこの人の愛情表現だと、フリードリヒは改めて感じた。
「ぅ……わ、わたくしも、愛しております。エンディミオ様」
おずおずと、王の右腕に触れる。
エンディミオは妻の白い顎を掴み、ごく自然にフリードリヒの唇に接吻した。
こうして、乱暴な王様と、普通じゃない王妃様は、ふたりの子と末永くしあわせに暮らしましたとさ。
これはひとつの神話として、ながく語られることでしょう。
めでたし!




