12
フリードリヒはゆるりと眼を開いた。夢か現か、判断しかねる。
懐かしい匂いが鼻孔をくすぐる。はっと目を開き、寝台から起き上がりて周囲を見渡す。
こじんまりとした薄暗い部屋。寝台側の小さな燭台。ささやかな服飾が入った、古びた箪笥。
簡素にすぎる部屋の窓の外では、雪が降っている。
「……夢、か」
でなければ説明がつかない。この部屋は、故郷ロメンラルのフリードリヒの部屋だった。
「にぃにぃ」
いつの間に部屋に入ったものやら、次兄ローレンツの飼い猫が寝台に転がっていた。
毛を撒き散らされては堪らないため、嫌がる猫を抱き上げて床に下ろす。
「んと、真っ暗なとこ歩いてて、可愛い鵜に会って……そうだ、ケツァルコアトル様は!?」
蔦に貫かれた翡翠は、見当たらない。鵜同様、すっかりはぐれてしまったようだ。
あの蔦は、夢に見た“忌まれし森"と同じものだった。
何が起こるか分からない。早くケツァルコアトルを見つけねば――
「おはようございます、フリードリヒ様。今日はお早いですね」
「あ……う、ん」
扉を開けて入ってきたのは、フリードリヒが幼い頃から世話をしてくれた侍女だった。
エリッサたちのような愛想は無く、淡々と部屋の掃除を始めた。
猫を部屋の外に出しながら、侍女は話しかける。
「お食事はどうされますか?」
「え、んと……いいや。空いてない」
「かしこまりました」
それ以上の会話はない。今思えば、なんてつまらない日常だったのだろう。
侍女のことは忘れ、フリードリヒはケツァルコアトルの行方を考えることにした。
呼んでも顕れない。ならば、こちらが探すしかない。しかしどうやって?
悩むフリードリヒをよそに、状況は進行する。
扉をノックする音の後、そうと開かれ、初老の男が入ってきた。
「……っ」
薄い頭髪に、白い髭を蓄え、次兄に似たぎらついた眼でフリードリヒを射抜く。
「……父、様」
死んだ父、フランツが、眼前に立っていた。
挨拶をすることも忘れ、フリードリヒは驚きに言葉を失う。
生前に会ったことは、両手で足りる程度にしかない。
動けないフリードリヒに、フランツが手を伸ばした。
思わず体をすくませるフリードリヒを、父親は優しく微笑み、息子の頭を撫でる。
「とう、さま……?」
「どうしたフリードリヒ。具合でも悪いのか」
最後に会ったのはいつだったろう。死に目にも会えなかった父が、こんなにも優しい言葉をかけてくれるとは――
反っておぞましいではないか。
フリードリヒは直感で理解した。或は、ケツァルコアトルの力によるものだろう。
神憑きである自分を、父が愛するはずがない。たまに会うのだって、兄らに催促されてのことだった。
「これは、僕の望む夢だ……」
もう手が届かない人。一生望めない愛。
エンディミオの言葉を、ようやく理解できた。
夢を見るなとは、不確かな幻想に捕われるなということだ。
夢には何も無い。今ここで偽りの父に甘えても、空虚な満足感を得るのみ。
フリードリヒは一刻も早く、この場から逃れ、ケツァルコアトルと合流せねばと考えた。
父は惜しいが、ここに居れば、自分は確実に夢に呑まれる。
フリードリヒは父親の手を払う。フランツは驚いた顔をしたが、すぐに優しい表情に戻った。
扉は侍女が塞いでいる。フリードリヒは真後ろを向いた。
急ぎ寝台から降り、窓を開ける。
すぐ眼前に楓の枝が伸びている。たしかこの部屋は三階だったが、躊躇する間は無い。フリードリヒは枝を掴み、意を決して寒空に飛び出した。
フリードリヒの重さに耐え切れず、枝は呆気なく折れた。
窓からは大量の蔦が噴出した。蔦は獲物を探すようにうねり、絡み合う。
フリードリヒは真下に落ちたが、幸いにも隣の棟の屋根であり、また積雪が彼を救った。
「……う」
痛みと寒さに震える体を叱咤し、屋根を歩く。
絶大な恐怖がフリードリヒを支配していたが、悲鳴だけは漏らさぬよう、ひたすら歯を食いしばる。
何せフリードリヒには、実家だというのに、屋敷の構造が全くわからないのだ。どこをどう行けば、まず地面に降りられるのか、見当もつかない。
何かに祈るよう、天を仰ぐ。夜空は白みはじめ、夜明けだということがわかる。細雪も、止もうとしている。
青星が目立つ満天の星空に、一際巨大な星があった。
青白い光で夜の地上を照らし、だが太陽のように目や肌を焼くことはない。
静寂の優しい光に、フリードリヒは見とれていた。
不思議と安心した。勇気を出して今一度、足を踏み出す。
猛烈な眠気がない事が幸いだった。フリードリヒは屋根の頂まで上り、自分の部屋の窓を見る。
蔦はもう無い。安堵の息をつき、休憩しようとその場に座った。
背後で大きな破壊音がした。屋根が振動し、フリードリヒは落ちないよう堪える。
「……ひっ」
振り向くと、“忌まれし森"が屋根を突き破りて出ていたのだ。
絡み合う蔦で体を構成し、顔のつもりか、白塗りの喜劇の仮面を装着している。
白く華奢な右腕と、褐色の屈強な左腕を屋根につき、四つん這いでフリードリヒに近づく。
馬の右脚と猿の左脚は、元の生態の違い故か、うまく機能していない。
この世のものとは思えぬほど、恐ろしい合成の化け物。
悪夢を凝縮したような存在に、フリードリヒは逃げることすらできず、恐怖に縮こまる。
「あ、あ……」
どうしようもない。こんなもの相手に、対話など不可能だ。
蔦がフリードリヒに伸びる。手足の次は何を奪うというのか。
空が徐々に白くなる。日が昇ろうとしている。
青星も巨大な星も朧げに霞む中、一際輝く星があった。
白く、何よりも白く煌めく、金星。
“災いの星"の異名を持つそれが強く発光した後、天から流星が飛来し、“忌まれし森"を貫いた。
「ふぅわっ!」
凄まじい衝撃と突風、そして轟音。
フリードリヒは飛ばされないよう、その場に伏せ、屋根に捕まる。
しばらくして、風が止んだ。
顔や頭についた雪を払い、目の前を確認する。
流星と思っていたのは、長大な白い鎗だった。
上空では鸛が旋回している。
鎗の先には、蛇を纏う神、ケツァルコアトルが立っていた。
「ケツァルコアトル様ッ!」
安堵のあまり泣きそうになるフリードリヒとは対称的に、ケツァルコアトルは憤怒に眉をひそめていた。
ケツァルコアトルは左手に持っていた薄汚い鷺を捨てる。
イツテラコリウキは弱々しく鳴き、飛び立つ。
『こんなに激怒したのはいつ振りでしょう。今一度、お前を傷つける必要があります』
ケツァルコアトルは全き善神ではない、というイツテラコリウキの言葉を思い出した。
ケツァルコアトルは屋根に降り立ち、鎗を抜く。
そして鎗を振りかざしては打ち下ろす。幾多も貫かれ、“忌まれし森"は絶叫した。
だがちぎれた体は蔦が絡み合い、瞬く間に再生される。文字通りの不死の存在だった。
「ケツァルコアトル様……お願いです。もう、もう止してください……」
見ていられなかった。フリードリヒは涙声でケツァルコアトルに静まるよう懇願する。
それを見たケツァルコアトルは鎗を捨て、両の手を掲げる。
『……そうですね。ではこのものの動きを止めます』
両手を上空にあげると、屋敷を破壊しながら、いくつもの黒曜石の刃が“忌まれし森"を下から貫いた。
串刺しにされ、宙に固定された“忌まれし森"は、唸りて足掻く。
『恐いを思いをさせましたね。もう大丈夫ですよ』
ケツァルコアトルの方が恐いとは言えず、フリードリヒは真っ青な顔で頷く。
『ああ、もういいですよ。ご苦労様です』
ケツァルコアトルは上空の鸛に合図を出すと、長鎗は消え、日が昇った。
「さて、あとはあなたがやりなさい」
そう言い残し、ケツァルコアトルは翡翠の姿になり、フリードリヒの肩に止まる。
『この森に死を。あなたはいかがしますか?』
改めて“忌まれし森"を見る。
刃に貫かれ身動きが取れず、蔦は絡み合うばかりで攻撃には転じない。
二人の王の腕は、幸いにも無傷だった。
「ぃぎっ/ひひ/ひ/ひどいなあ/あ/あ」
「喋れるの、ですか!」
仮面の下、人でいう喉のあたりに、声帯と舌が動いている。
剥き出しの器官に、フリードリヒは吐き気を催した。あれも、誰かから奪ったものなのか。
「こ/こここでも/痛い/のはいたたいもの」
男女の区別がつかない幼児の声音で、“忌まれし森"は文句を垂れる。
「あの、どうしてあなたは、他人の手足を奪うのですか?」
意思の疎通が可能ならば、それほど恐ろしいものではない。奇怪な姿は、無理に見なければ良い。
「ななな/に.くく:くれるんじゃ/ないの/の/肺:肺をちょうだい」
「あげられないです。何故、奪うのです?皆、困ってます」
フリードリヒは気丈に断る。次代を生む使命を持つ者として、それだけは避けねばならない。
“忌まれし森"は残念そうに唸ると、理由を告げた。
「だっ/て/ふたつつつつあるなら:ら.いいで/しょ片方/もら/ってても」
「駄目だと思います。んと、ふたつあって、成り立ってるんです」
エンディミオとヘルガは、全く不便さを感じさせないが、フリードリヒはあくまで自分の考えを伝えた。
「え.な/ならら/最初から何もななかったワ→タ→シはどうなのの/の?」
「……え?」
「感―覚のひ/とつも/血:管の一筋もなくく/すて/らられた/森には力がたくくさん/あったから=ら/蔦を:身体にしててみたけ/れど」
「でも、先ほどは痛いと、しきりに……」
「言った/ただけ.ぜんぜん痛く/ない.ねえ/何も無いワ>タ>シが/片方だけう奪うのは/間違い?」
フリードリヒは俯いて考えた。
聞いているうちに、この異形の言い分も間違っていない気がしたのだ。
だがフリードリヒは否定する立場にしか立てない。
「でも、困っている人がいるのも事実なんです……。お願いします、陛下の腕を……せめて左腕だけでも、返してください」
「かわりに/に/き=みが右=腕ををくれ/るるななららいいよ」
それでは本末転倒だ。フリードリヒは取り消してくれるよう謝罪し、再び考え込む。
「んと、あなたは、人に、なりたいのですか?」
仮面や手足の位置、話し方はまるで人間である。滑舌の悪さを抜けば、まるで人と話しているようだ。
「うん_なり/たたい」
「どうして?」
「〈ひと〉はうたえる/ででで/しょ」
「う、た?」
奇妙な答えに、フリードリヒは首を傾げる。
「鳥/はううたええ/ない→でももひ_とは/う/たたたえる」
さっぱり意味が解らない。鳥とは、歌とは何を指すのか。それとも、そのままの意味で良いのか。
「んと……あなたは、歌いたいから、人になりたい、の?」
「違う.動∽物のよう/うには/い生ききれ/ななないし/鳥-りのよよう/に生き/たく/ははは/ない.
ひとここ/そがががが/真に_しんに/生きててい/る」
人への羨望を語る“忌まれし森"に、フリードリヒは言ってしまうべきか迷った。
だが言わねば相手も気づかぬだろうし、前には進まない。
「あの、多分その……人の身体を集めても、人にはなれない、と思います」
「何←→故!?ど-うし/て!」
ひどく衝撃を受け、“忌まれし森"は蔦をくねらせる。
「んと、何て言えばいいんだろう。他人のものを奪っても、その人にはなれない、んじゃないかな」
「そんん/な曖_昧な考が/えはいららな:い!」
言葉に詰まるフリードリヒに代わり、黙っていたケツァルコアトルが、補足として森に語りかけた。
『お前は本来の生命誕生の条件および、どの型式の現象発生条件も満たしていません。
ざっくり言うならば、お前はどの世界にも存在せず、半端な霊質の塊です。それも強大な』
「そそん/なも/の:ののは何>ど度も聞きい/たた!ででも:死ぬこととも/できないな/ららかか/身体だをを/をを-返す/すのもも.嫌だ嫌」
“忌まれし森"が肉体を返せば、あれは単なるつまらない蔦に戻るのだ。
そして満たされない心と鬱屈を抱えて、世界の終わりまで無意味に存在し続ける。
「ね/えええなん/ででワ=タ=シは生う:ままれたた/のの.なんでワ+タ+シを生みだ/だ出したたたた:の」
「……っ」
その問いの答えを、フリードリヒは持っていなかった。
或はそれは、フリードリヒも同じ疑問を持ったことがあるからか。
「あなたには……何も、無いのですか」
しかし少なくとも、フリードリヒには家族はいた。ケツァルコアトルが常にあった。そして今や、エンディミオがいる。
それらは奪ったものでは、決してない。与えられたものだ。
フリードリヒはぽつりと、独り言のように放った。
「あなたに、本当に意味のあるものを与えられれば良いのに……」
“忌まれし森"は再び、肺を寄越せとわめき立てる。
あれにとって本当に必要なものとは何なのか。フリードリヒは考えた。
という矢先、翡翠が鳴いた。
『ところで申し訳ございません、時間が無くなりました』
「え?」
時間とは何ぞや、と聞く前に、世界が黄色に染まった。
否、無数の金糸雀が、フリードリヒの夢を埋め尽くすように羽ばたいている。
「な、なんですか、これっ」
『裁定者が目覚めました。これより半日は、人は神域との接続を絶たれます』
「え、聞いてないですよっ?」
『仕様です』
金糸雀の羽が口に入らないよう、顔を庇いながら喋る。
フリードリヒは不快感とともに目を覚ました。口内に羽が入ったような感覚があるが、それは単に口を洗浄していないからだ。
夢とは違う気温の高さ、見慣れた寝台が、妙に懐かしい。
何日間寝入っていたのか、体は重く、起き上がるのにかなり苦労する。
寝ぼけ眼で周囲を見ると、何故かすぐ傍にエンディミオが居た。
(なんだ、まだ夢か)
もう一眠り、というところで、強く耳を引っ張られる。
この容赦の無さは、確かに暴虐王その人だ。
「へ、陛下ぁ……」
フリードリヒは慌てて乱れた髪を撫で付け、ぎりぎり無礼にならないよう、身なりを整える。
その間もエンディミオは、無表情で妻を見ていた。
「……んと、陛下ー。御、用は……」
「そなたが寝入っている間に、ヘルガから親書が届いた。私と会談を望むそうだ」
フリードリヒは凍りついた。
仇敵の間柄とも言える、エンディミオとヘルガ。
その二人が会談、しかも魔女の方から願い出るなど、明日には世界が終わってしまうのか。
証拠として、エンディミオが親書をフリードリヒに見せた。
難解な単語は読めないが、型式は確かに会談申し出のそれだ。
「そなた以外に、あの魔女が動く理由が見つからぬ」
フリードリヒは冷や汗が止まらない。かといって、言い訳が思いつくはずもなく。
「は……はひ」
あっけなく降参した。
しかしエンディミオは深くは追求しなかった。兄らに咎めがないことに安堵したフリードリヒだが、首謀者である妃自身には罰が下りる。
「和平を結んでいるとはいえ、私個人は魔女とは敵だ。故に、そなたを反逆者として疑わざるを得ない」
「……はい」
覚悟はしていた。どんな罰も甘んじて受けようと、フリードリヒは頭を垂れた。
「これより、そなたに二ヶ月の謹慎を言い渡す」
「……は、い?」
謹慎で済んだ事に、フリードリヒは驚き、頭を上げた。王に何故と問う。
「そなたに大層な事ができるとは思えぬ。さらに神憑きを重く罰しては、民衆と教会の反発を招く。
ついでに、身重の者に余計な負担はかけてはならないと、酌量の余地があった」
「はえー……」
「以上だ。何か申し立ては」
「いえ。……陛下、あの、感謝、いたし、ます」
北方出身の上、身内にリウォイン軍人がいては、フリードリヒはいくらでも疑われる。
それをたった二ヶ月の謹慎に押さえた、王の苦労は相当なものだったろう。
「……そう思うのならば、以後迂闊な行動はするな」
「はい……はい」
王の気遣いに、フリードリヒはしっかりと頷いた。
エンディミオはめずらしく微笑み、フリードリヒの頭を撫ぜてから去った。




