11
またも王妃が、原因不明の長い眠りについたと、王宮は騒然としていた。
神憑きは儚いもの。子を産まぬまま、命尽きてもおかしくはない。
しかし、医師の恐ろしく冷静な判断により、点滴をしたまま安静にされていた。
三日目の昼、侍女がせめてもと、王妃の身体を拭いてやっていると、なんと国王が顔を見せたではないか。
暴虐なる王にも、一応は人の心があったのだろうか。そう思いつ、侍女たちは慌てて退がる。
エンディミオは寝台の近くに座り、眠り続ける妻を見る。
点滴を打ち続ける腕は、とうにぼろぼろだ。細く、生気のない白さも相まって、実にみすぼらしい。
何事もないように眠る妃の頭に、エンディミオが手を伸ばす。
「夢を見るのはやめよと、言っても聞かぬ性分か……」
頬を少しつねってみるが、何も変化はない。
エンディミオは嘆息した。
確かに呪いを解けるならば、そうするべきだ。
だが曖昧な事柄に、王妃がそこまで苦心する必要は無い。
産まれた時から隻腕の身であるから、不自由と思った事は一度もなかった。
どころか、権力も頭脳も武力も、そこいらの人間を凌駕する。
エンディミオにとって、国の存続と繁栄以外に、望むものはない。というに――
「……私は、そなたにどう報いれば良いのだろうか」
王は、眠る妃の目が開くことを望んでいた。
この王妃は、つくづく憐れな者だ。
いずれは教会や、それに準ずる権力に喰われるだろう。
宰相らが言わずとも、エンディミオは唯一の保護者として、伴侶の地位は全うするつもりだった。
はてさて、このまま目覚めないのではないかという、王妃の銀髪を撫ぜていると、わずかに動きがあった。
「……へ、いか?」
これは夢か現か、しばらく逡巡していたフリードリヒだが、点滴の針の痛みが、答えを打ち出す。
慌てた妃は、いつになく素早い動作で起き上がる。
だが、突然の動きに驚いたエンディミオが、反射的に王妃の頭をひっぱたく。
「あいたっ」
額を摩り、恐る恐るエンディミオを見る。
心底呆れたような王の表情に、フリードリヒはひどく安堵した。
堪えていた恐怖がどっと溢れ出し、それは涙となって零れた。
「あ……も、申し訳、ございません……」
「みっともない。さっさと拭え」
エンディミオは敷布をフリードリヒの顔に当て、やや乱暴に拭き取る。
「あ、の……も、大丈夫です」
王の手を取り、洟を啜りつ礼を言う。
エンディミオは興味をなくしたように、その場から去った。
入れ代わりように、侍女や医師が戻ってくる。
ぐずぐずと洟を鳴らすフリードリヒに、まさか王が泣かせたのではと悶着があったのは、言うまでもなく。
夕食を済ませ、尚こんこんと眠りつづけるフリードリヒ。
熟睡しているというに、つと、額に冷たい感触があった。
「……ん、ケツァル、コア、ふあああぁ」
『すみません。ですが起きてください』
蛇がしぺろと舌を出し、フリードリヒを舐める。
ケツァルコアトルがフリードリヒを起こすことは初めてで、何事かと起き上がる。
「この、蛇は……」
『これはわたしの身体の一部ですよ。あなたが怖がるかと思いまして、花に擬態させていましたが、杞憂でしたね』
ケツァルコアトルが手を翻すと、枕元にある灯火が点火した。
『来ましたか』
虚空から、灰に薄汚れた白鷺が現れた。
『それ以上近づかぬよう、夜の風がお前を裂きます。イツテラコリウキ』
あのみすぼらしい鷺が、夢に見た石像の化身らしい。
またもヘルガが何かを仕掛けるのかと、警戒するフリードリヒだが、イツテラコリウキは普通に話しかけてきた。
『我が魔女はああ言うが、やはり呪いを解くには貴様らの力が必要だ。我々は協力を惜しまない』
「……ちゃんと、お話、できるんで、すね」
『わたしが翻訳しています。ではイツテラコリウキ、わたしたちと盟約を交わしなさい』
どこまでも能天気なフリードリヒはさておき、ケツァルコアトルが話を進める。
『了承した。ケツァルコアトルの在る限りは、我々は契約者に危害を加えず、また神域に手を出さぬ』
「しん、いき?」
『わたしたちの存在する領域です』
神々のおわす領域。人々が憧れ、夢想する地。
『そして全ての意思の在る所。“忌まれし森"と危険を避けて接触するならば、神域での接続を推奨する』
「要は、わたしはあなたを神域に送ります。あなたは神域で、森と対話をすることができます」
イツテラコリウキの難しい言葉を、ケツァルコアトルは噛み砕いて伝えた。
夢で見た、あの仮面。問答無用で腕を奪う化け物に、対話など可能なのか。
消極的な考えに、フリードリヒは頭を振った。
流されるままでは、何も成せない。
ケツァルコアトルを見る。共存する神は、フリードリヒの心中を察して微笑む。
「神域て、どんなとこ、なんですかー?」
『現世の裏側、とでもいいましょうか。言葉では表しがたいですね……行けばわかりますよ』
フリードリヒは素直に頷くが、ひとつ気掛かりなことがあった。
神域にはやはり意識だけが行くのだろう。フリードリヒは一体、何日間眠るのか。
「あの……また長く、眠るのは……」
侍女や医師に負担をかけたくはないし、またエンディミオを怒らせてしまうだろう。
なんとかならないだろうかと問うフリードリヒに、ケツァルコアトルは少し迷った後、提案した。
『代役を立てましょう』
「だい、やく……?」
『あなたが眠る間、諸々の生活や公務を、わたしが用意する者にさせます』
所謂、影武者というものだろうか。
不安は残るが、ケツァルコアトルを信じることにした。
フリードリヒの決心を確認したイツテラコリウキは、不穏な一言を残し、虚空に消えた。
『ケツァルコアトルは慈悲深いが、全き善良ではない。お前の眼は手遅れだ』
『全ての夢は繋がっています。世界の夢も、あなたの夢も』
神域と思われる、暗闇の空間を、フリードリヒはただ歩いていた。
彼の周りを翡翠が飛び、語る。
『自らの夢に、呑まれぬよう気をつけなさい。戻れなくなってしまいますからね』
「う……頑張ります」
しかし、この殺風景な景色はいつまで続くのか。
時折、鳥が飛んでは消えていく。
「神様は、寂しいところに住んでいるのですね」
『寂しい、ですか……』
道中、妙に人懐こい鴨や夜鷹に擦り寄られた。
それでも風景は変わらず、いつになったら“忌まれし森"に接触できるのか。
「ケツァルコアトル様、まだですか?」
『もう少し歩いてください。森は神域内を移動しています』
体力と根性が欠けているフリードリヒは音を上げはじめた。
仕方なしに、足を引きずるように歩く。
『見かねたぞ、“翡翠の雪ぎ"』
フリードリヒの前に、鵜が舞い降りた。
厳格な男声とは食い違う、滑稽な姿に、フリードリヒは遠慮のない感想を口にした。
「か、かわいいかも」
その言葉は鵜の逆鱗に触れたらしく、巨大なくちばしでフリードリヒの腕を覆うようにくわえ込んだ。
「あわわわ、すみませんごめんなさいーっ」
『やめなさい』
ケツァルコアトルが鵜を突き、フリードリヒは解放された。
鵜は何事もなかったかのように、話を再開した。
『“忌まれし森"も学習している。二十秒毎に宛先変更をし、常に移動し続けている。“翡翠の雪ぎ"の情報収集能力では無差別にすぎる』
『やはり……。イツテラコリウキはどうやって接触しているのですか』
『“折れた灰刃"の検索選別能力はお前より高い。あとは奴の魔女の高い感性で、見事に捜し当ておる』
『わかりました。では、あなたは何の用件で?』
『お前は手際が悪い』
鋭い指摘に、ケツァルコアトルは反論しない。
『幾多の契約を結び、その全てにいいように扱われ、失敗してきた』
『ええ、そうですね』
『甘やかすと優しくするのは、違うぞ』
『……わたしと争いたいのですか?』
剣呑な雰囲気に、ぼけっとしていたフリードリヒも行動した。
宙の翡翠を捕らえ、仲裁のため鵜に訴える。
「け、喧嘩はやめてください。それに、ケツァルコアトル様は優しいです!父より兄より、わたくしを慮ってくださいますっ」
翡翠が苦しげに鳴いたため、フリードリヒは手を離す。
ケツァルコアトルはフリードリヒの肩に止まり、得意げに鳴いた。
『ありがとうございます。わたしの愛しい子。あなたの人生を蔑ろにしたのはわたしなのに』
「でも、神憑きでなければ、陛下に会えませんでした」
全てを受け入れようとする、迷いのない言葉。
実のところ、人に興味がない鵜であったが、軟弱フリードリヒの妙な強さには、ほんの少し興味が沸いていた。
「ですからあの、ケツァルコアトル様を責めないでください」
『責めるつもりはない。いずれ罰が与えられる身だ』
『ではわたしたちは行きます。あと三時間で裁定者が目覚めるでしょうから』
フリードリヒが促されるまま歩もうとすると、鵜が大きく鳴いて呼び止めた。
(や、やっぱりかわいいっ)
笑わないように我慢をしているフリードリヒを尻目に、鵜は協力を申し出た。
『待て。我輩が裁定者の夢に接続し、“忌まれし森"の接続先を辿ってやろう。というかそのつもりで来たのだ』
『そういうことはっ、最初に言いなさいよこの、滑稽鳥!』
鵜は金の眼を閉じ、ぺたぺたと水掻きのついた足で歩き始めた。
その姿に、フリードリヒは口を塞ぎ顔を背け、腹に力を込めることで、なんとか笑いを抑える。だが肩が震える。
いくらなんでも、見た目と性質に隔たりがありすぎた。
知ってか知らずか、鵜はあくまで真面目に教えてくれる。
『年々、処理能力が上がっているな……。待て、近づいている。その人間に反応しているのか。“翡翠の雪ぎ"、切断しろ!』
『今すぐですか――っ』
ケツァルコアトルの声が途切れた。
「え――」
虚空から伸びた蔦が、翡翠の小さな体を貫いていた。
『回線切断を確認。貴様、我輩に捕まれ!』
言われるがまま、鵜に手を伸ばすが、フリードリヒの身体は全く動かない。
気配も感触もなかった。だが蔦はフリードリヒの体に絡み付いている。
「――ひっ、いや」
鵜の本来の姿だろうか。三重の白い光輪を戴く、鋼鉄鎧の騎士が、フリードリヒを掴もうと手を伸ばした。
今日は調子が良い、と言うと、途端に客人の相手をさせられた。
その殆どが高位司祭で、王妃の預言を拝聴しようと、何週間も前から予約をしていたらしい。
心底面倒だが、後々がさらに面倒なため、仕方なく会話をする。
「んとぉ……今月、末に、出せば、いいと、思います」
「おお。では、そのように致します。感謝致します、フリードリヒ様」
眼前の初老の司祭は、教会宗主から依頼された、鉱物輸出の船出のために、天候の具合を尋ねた。なんでも、近頃は嵐が多く、海賊まで出るらしい。
「船出の、無事をー……お祈り、しますー」
「それはそれは、誠に恐縮です」
深々と頭を下げる司祭。
だがフリードリヒは、この司祭が本当は鉱物の一部を横流ししている事を看破していた。
「……子供、きっと、女の、子だと思い、ますー」
「……私の娘に子ができたとを教えては……。これが神の預言だというのか……」
こちらは全てを見通している、という意味合いで伝えたが、司祭は畏れ敬うばかりで、無駄であった。
司祭は笑顔でいそいそと退室した。自らの望む答えが得られ、満足したのだろう。
フリードリヒは細い脚を抱え、溜息をついた。
「朝から三人も接待なさって、お疲れでしょう。お休みになられてはいかがでしょう。それとも、お茶になさいますか?」
久々の公務に疲れたと見て、エリッサが配慮してくれる。
しかしフリードリヒは空気を読まない一言。
「……悪い人、だった」
「それは……。そういったことは、王権ではなく、司法が裁くものです。フリードリヒ様のお手を煩わせる必要はありません」
「……うん」
あの司祭には伝えなかったが、今までの横流しを、とうに宗主は知っている。
近いうち、彼は内部で裁かれる。家は潰され、先ほど話に出た娘と孫は、宗主の愛人として惨めに生きながらえるだろう。
「ふわぁああ……。うん、寝る」
「畏まりました」
礼装から寝間着に着替えさせられた。
重い装飾品から解放され、フリードリヒは息をついた。
「あらフリードリヒ様、婚約腕輪を通す手が反対ですわ」
いつもなら左手首につけるものを、寝ぼけていたものか、右手首に装着していた。
エリッサが直しながら、注意する。
「王の左腕という意味合いで、妃は左手首に婚約腕輪を通すのです。お気をつけくださいませ」
「んと……気を、つける」
疲労した王妃に配慮し、侍女は寝室から出ていった。
フリードリヒは眼を開き、素早い動作で体を起こし、切り揃えた銀髪を掻き上げる。
「茶番だな」
いつものすっとぼけからは、想像もできないような毒を吐く。
彼が寝台の下を覗くと、そこには安らかに眠るフリードリヒがいた。
毒づく方のフリードリヒは、眠る青年を苦労して寝台に戻す。
「糞っ。いくらなんでも軟弱にすぎるぞ、この男」
息を乱しながらも、なんとか青年を寝台に転がすことに成功した。
フリードリヒは筋肉の酷使で震える両腕を摩り、呆れた眼で王妃を見る。
「今日で三日目。さてこのまま戻らなければ……わたしが王妃になり、国を傾けるというのもありだな」
もちろん、言うだけで実行はしない。
ケツァルコアトルの庇護有る限り、フリードリヒの肉体が死ぬことはない。精神はその限りではないが。
毒づくフリードリヒは、王妃の宝石箱を勝手に開け、黒曜石の指輪や髪留めを出した。
「これぐらいもらわねば、割りに合わぬ」
嫌らしく笑い、指輪を、正確には黒曜石を呑み込んだ。




