影闇の夜
コツコツと足音を立てて、火の点いた蝋燭立てを携えた少女が本棚の間を歩いていた。
静かな闇に包まれ、本だけで埋め尽くされた空間の光源は少女の持っている灯だけである。窓もなく、音源は少女の立てる足音と足首まで続く長い髪の囁きと温度を持った吐息だけである。
ルビーに更に赤を足したような紅色の瞳が本棚に向けられた。
思春期を迎えていないであろう特有のあどけなさがその瞳から表れていたが、その目の奥に鈍く灯る光が少女の内面がただそれだけでないことを物語っていた。
雪の如く白い指がさっと本の背表紙を辿った。
置いてある本の大きさや色は様々で、経た年月も千差万別だった。
だが、決定的に一般の店で売っているものと違う点があった。
題名がない、のだ。
店先に並ぶ本には必ず記載されているであろう題名が少女の目の前に並べられた本には無かった。
ただの一冊たりとも、だ。
まるで日記帳かノートのようなその本に少女は少し目を凝らす。
彼女の目にはまるで記載されていない題名が見えているかのようで、実際に彼女はその題名を視ることが出来た。
置かれていた本は膨大で、その数は数千にも及ぼうかという数だった。
少女はこの場所でたった一冊の本を見つけようとしていた。
それは砂場で針を、或いは海底でボトルを探す作業にも似ていた。
題名がない本を探す手間は想像を絶するほどに苦難に満ちていた。
通常の図書館のように表札や検索手段がない以上、彼女の眼で一冊ずつを検めていくほかない。少女の一生がかかると言われてもそれはおかしくない作業だった。
ふと少女は一冊の本を小さな手で取り出す。
中身を検める。
違う。
すぐ隣の本も検める。
これも違う。
本を戻し、少女は心中で問う。
どれだ?
どこにあるというのだ?
少女には時間が無かった。
緊迫した事情があった。本来ならば少女はここに来てはいけないとされていたからだ。
禁忌を侵している恐怖と焦燥を感じながらも少女の目と手は着実に本を追っていく。
やはり、違う。
もしかして、この棚ではないのだろうか?
その疑問に思い至って、少女はきゅっと踵を返し、違う列の方へと足を向けた。
古ぼけた棚に手を付いて少女は作業を繰り返した。
手に持っていた灯を古い木製の床に置くと、コトリと小さな音が闇に生まれた。
作業を繰り返して幾分かが過ぎても、少女の生む音以外は全くの無音で、耳が痛くなるような静寂が少女を包んでいた。
ぱたりと少女は持っていた本を閉じた。
もうこの棚で視たことのない本はない。しかし、ここに無いというなら、一体どこに自分の探し求めている本はあるのだろうと少女は誰にともなく問う。
つい最近までここにあったはずなのだと強く思う。それが無いとすると本が移動している可能性を考える必要があった。
少女はそこまで考え、身を翻した。
視点が反転した瞬間少女は気を失いかけた。
漆黒の何もないはずの闇に男が居た。
いや、浮かび上がった。そう表現せざるを得ない唐突な登場だった。男は何の変哲もない木の床から音も立てずに出現した。
男は周りの闇と同色の漆黒のスーツを着て、その上に漆色の外套を袖を通さずに羽織っていた。
肩口まで続く長い髪。黒縁の眼鏡。手には絹で出来た黒手袋。ご丁寧に靴までが黒い革靴だった。
露出した爬虫類を思わせる鋭利な白貌以外は全身が黒ずくめだった。
少女の呼吸音が止まって数秒して、彼は口元に微笑を浮かべ、語り始めた。
「さて、君はここで一体何をしていたのかな?」
彼の声は甘く、それでいて深く、まるで闇に声を持たせたかのようだった。
問われた少女は返答に困った。
探していた本のことを言えば彼が許さないことは既に心得ていたからだった。
相当な罰を受けることになる。いや、最悪自分自身が消されることすら少女は覚悟をした。
そこまで思い至って、少女は意を決して口を開いた。
「……物語を探していたのです」
鈴の鳴る様なかすかな声を絞り出した。それでも、少女は続けた。
「人の身に魂を宿らせるという人形師の物語を」
それを聞いた瞬間、闇は甘ったるく楽しそうに嗤った。
「彼の人形師の物語かね。それは奇遇だね。その物語は私が今夜入り込んでいたものだ」
なるほどと少女は合点がいった。彼は物語を読む時にそういう表現をする。今夜目当ての本が無かった理由に簡単に説明がついて、少女はなぜそこに思い至らなかったのかと自分の未熟さを後悔した。
「しかしね」
彼が酷く落胆した様に、残念そうな声を上げた。
「彼の物語は君に入り込ませることは出来ないよ」
「何故です!?」
少女は自分も驚くような高い声を響かせた。闇が少し揺らぎ、沈黙が壊された。
少女の焦りと驚愕が呼応したように胸が早鐘を打つ。
罰ならば覚悟していた。けれど、その罰を受け入れてでも少女はその物語を読みたかった。そう出来ないというならば、それは最早極刑に等しかった。
「何故なのです!?」
もう一度強い口調で少女は問う。
「知りたいかね? その理由を」
彼は緩く胸の下で腕を組み、少女に顔を近づけた。
「それはね……」
ねっとりとした濁った口調だった。少女の身体がびくりと弛緩する。
「君のためにならないものだからだよ」
「私のためにならない?」
温い汗が一筋少女の首筋を伝った。
「し、しかし、かつておっしゃったではありませんか。私を含め、人のためにならない物語などここには無いと。あれは嘘だったのですか?」
それは随分と昔のことであった気がするが、混乱した少女の頭ではそれがいつのことかはっきりと思い出せなかった。確かに言われたことだとはっきりと覚えてはいるのに。
「ふむ。真実であり、嘘だよ」
意味が分からなかった。彼は度々こういう意地悪な言葉を少女に向けた。
困惑している少女を尻目に彼は眼鏡を人差し指で上げながら語った。
「いいかね? 真実の定理とは何だ? 君にとってそれは私がかつて教授したもの全てであり、私一人の定理しか、君はまだ理解していない」
彼は一体言い出すのだろうかと少女は身構えた。こうなれば徹底的に話を聞くしかないのはよく知っていた。
「つまりね、真実は物語の数だけ存在する。だから、君が私一人の定理や掟の中だけに縛られるのは正解であり、正解でない。そんなことは誰にも判定できないし、する権利もないからね」
細い息を吐いて、彼は続けた。
「ここに君が来たことは責めるつもりはないよ。けれどね、この物語を知るというなら、それは反対だ。断固阻止させてもらう」
「どうしてですか!?」
少女の切実で掠れた声が漏れた。
「君がここに居られなくなるからさ」
「え?」
彼の表情は悲痛そのものだった。続けて声を紡ごうとした少女をためらわせるほどに。
「この物語はね、おそらく君を今の物語に帰してくれることをしないと思う。君にとってこの物語はそういうものなのさ」
彼の表情に気圧されて少女は二の句が継げなかった。それでも、悔しかった。求めたものがそこに在るのに届かないという無念は残る。
「だから、もうこの物語のことは忘れた方がいい。君には百害あって一利ないのだから」
少女は両の掌を握りしめた。
「それでも……」
最後の抵抗だった。これで叶わなければもう諦めるしかないと少女は腹をくくった。
「それでも、私はこの物語が知りたいのです。私の出生に関わるものなのでしょう」
小さかったが、はっきりとした声で少女は告げた。
彼は一瞬無表情になったが、ややあって、ただ愛おしいものを眺めるような朗らかな表情を少女に浮かべて口を開いた。
「ならばもう、私に止める権利はないな」
どこから取り出したのかすっと少女の前に一冊の本が差し出された。
「さあ、入り給え」
赤紫色の古びた本を少女はおずおずと受け取った。これが探し求めていた本なのだという歓喜と達成感が少女の内に広がった。
少女は喜び勇んでその本を開こうとした。
しかし、出来なかった。
本を開こうとして、ページに指をかけた瞬間、少女の指はまるで別物のように震えて本を取り落としていた。
怖かった。
自分が人と人との間に生まれた者ではなく、ただ創られたものであると証明されてしまうことが覚悟はしていたはずなのに耐えられなかった。
呼吸が荒かった。目の焦点は合わず、吐き気もした。胸を打つ鼓動も異様に速くおかしかった。
「わ、私は……」
はあはあと喘ぎ、少女はそれでも何とか彼を見た。
「言ったろう。君にその物語は必要ない」
本調子でない少女の頭に彼の声が流れ込む。
「如何なる出生であろうとも君は私の大切な存在なのだから」
「貴方は、何故、私を」
やっと何とか息を整え始めた少女に彼は続けた。
「影は光失くしては存在できぬものだから、では満足できないかね?」
「ゆえにこの仮初の命を与えたのですか?」
「そうだよ。ただできたから私は君を生み出したのだ」
「そんな……」
少女は彼の瞳を視る。夜色の美しい瞳が少女に向けられていた。
「分かりました。では、私は貴方を今以上に見つめることにします。影とは本来そういうものでしょう?」
彼の顔が歪む。それは受け止めるには恐ろしいほどの愛情が込められた表情だった。
「そうだとも。でなくてはならない。私は君の影であり、生まれた時から共に在る者なのだから」
そうして、少女は諦めた。それこそが少女の心を壊さない自衛だった。
「では、今夜はここまでとしよう。さあ、自分の部屋に戻り給え。今夜は一段と嫌な風が吹いているのだし」
彼が両手を広げると闇が少女を侵食した。飲まれていくのだと思う暇もない。ただ懐かしく優しい黒色が少女の視界を染めた。
二人が一切の気配も残さずに漆黒に消えた後には小さな灯を点けた蝋燭立てが残されているだけだった。
灯はゆらゆらと影と闇に呼応するように揺れて、また元のように意味も持たずに光を放ち出した。
それは、永遠に続くとある夜の出来事だった。