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ライバル  作者: 宮澤花
26/57

5 決裂 -6-

 ツボタは黙り込んだ。

 無理もない。そんなこと出来るわけがない。壊れた物は、元には戻らないんだ。

「そう。はは、やっぱり。示せる道なんか最初からないんだろ。そうなんだろ」 

 嘲うツボタの足下に向け、先生が人形を投げた。

 それをヤツは俺にナイフを突きつけているのと反対の手で拾い上げる。間近で見るといっそう無残だった。


「過去を……。時間を巻き戻して、変える。そんなことが出来たらいいのにね」

 呟くように言う。

 それは泣き声のように、俺の耳には響く。


 それからヤツは乾いた声で言った。

「もういいよ。アンタと話すことは何もない。コイツを殺したら、次はアンタを殺す」

 冷たい目が俺を見る。

「ゴメンね。アンタと話すの、ちょっと楽しかったけど」


 指が動く。俺は殺される。それが分かった。

 コイツは感情を動かすことなく俺を殺せる。虫を潰すように簡単に。


 だけど。

 そう分かった途端に、簡単に殺されたくないって強く思った。

 だいたい、八つ当たりで人殺すって、どういうことだ。ふざけるな。

 俺と話すのが楽しかった? なら、また話せばいいじゃないか。何でそんな冷たい、諦めきった顔をしてるんだよ。バカじゃないのか、お前。


 頭の中にこの状況を打開する方法がひらめく。

 うまくいくか分からない。その方法を取ることで、俺は自分の命を縮めるかもしれない。

 でも、どうせコイツは本気で俺を殺す気だ。だったら、あがいてやる……!


 俺は片手で俺にナイフを当てているヤツの手首をつかみ、もう片方の手でヤツのパジャマの胸の辺りをつかみ。それをむんずと下に向けて引いた。

「なっ……」

 俺の動きが予期しないものだったのだろう。ヤツの慌てた声がする。

 ナイフの先が俺の首に食い込む。

 いてぇ。


 だが、それと同時に俺は大きく足を跳ね上げ、後転する要領でヤツの腹を蹴り上げながら、大きく後ろに倒れ込んだ。

 首が切れる。

 目の前を血が飛ぶ。

 俺の血だ。


 ヤツは俺の勢いに巻き込まれて、背中から床に落っこちた。

 受け身も取れていない。手に持ったままのナイフは、血に濡れている。


 巴投げ……のつもりだったが、もどきにもならなかったな。一度、先生に思い切り食らわされたことがあったのだが。

 それでも、とりあえず危地は脱した。どくどく血が流れているが、俺は生きてる。


「康介! 大丈夫か」

 先生が飛んできた。蒼い顔をしている。

「大丈夫です」

 俺はうなずいた。

 ヤツのナイフは俺の頸動脈と喉笛の間を四センチくらい切り裂いていた。

 やたらに血が出てくるが、急所ははずれている。と思う。


「大丈夫なわけあるか! すぐに病院へ行くぞ」

 先生がうろたえている。それが俺には意外だった。

 それから先生は気が付いたように、まだ倒れているヤツの手からナイフをもぎ取った。打ち所が悪かったのか、ヤツはまだ動かない。

 おいおい、首でもやってないだろうな。俺が殺したなんて幕切れは困るぞ。


「とにかく、救急車を呼ぶ」

 先生は携帯を取り出す。

「あの、それより……タオルかなんかいただけませんか、先生」

 血がすごくて。俺のTシャツはもう、びしょびしょだ。

「バカ、救急車が先だ!」

 怒られてしまった。


 先生が救急車を呼んでいる間に。うーんとうなりながら、ヤツが身を起こした。無事みたいだな。良かった。

「大丈夫か?」

 声をかける。

「大丈夫じゃない。背中も首も痛い……」

 そう返事がある。大丈夫そうだな。


「首が折れたかと思った。何するんだよ」

 その辺りをさすりながら起き上がり、俺の顔を見た。

「生きてるんだ。悪運強いな」

「おかげさまでね」

 こんな会話でいいのだろうか。曲がりなりにもたった今、命がけで戦った同士なんだが。


「和仁」

 電話を終えた先生が、冷たい声音で言った。

「これから救急車が来て、私たちは病院に行く。お前はここを出て行け。もう戻ってくるな」

 ヤツの顔に冷たい嗤いがひらめく。

「自分でついて来いって言っておいて、今になって追い出すんだ。は、勝手なもんだね」


 だが先生の表情は変わらない。

「私の眼鏡違いだった。下天一統流はお前のような男には教えられない。早く去れ。戻って来た時にまだお前がいたら、私は何をするか分からんぞ」


 ドレスのポケットからえんじの表紙の菊の模様が入った冊子を取り出し、床に投げる。

「お前のパスポートだ。両親のところへ帰るなり他へ行くなり好きにしろ」

 床に落ちたそれを、ツボタは何も言わず黙って見つめた。


 先生の声の調子が、少しだけ変わった。

「気の毒にな。これまでのお前の人生には暴力しかなかったのか」

 ツボタの肩がぴくりと揺れる。

「お前を温かく受け止めて、抱きしめてくれる人は一人もいなかったのか?」

 ヤツは返事をしない。


 救急車のサイレンが近付いてきて。

 俺たちは、うつむいたまま動かないヤツを置き去りにして、その部屋を出た。



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