2 武術の極意 -3-
先生の家の敷地は広い。そして家とは別に、道場がある。
今は知る人もいない下天一統流だが、アメリカに敗戦するまでは繁盛していて弟子も何十人といたらしい。先生の家が大きくて、ホテルの客室みたいな部屋がやたらにたくさんあるのも、その頃の名残だそうだ。
だがGHQが武道禁止令を出して、その歴史も終わった。他の流派は禁止令の解除と共に息を吹き返したけれど、下天一統流が再び弟子を募ることはなかった。『下天一統流が必要とされる時代は終わった』というのが、その理由らしい。
でも俺は、納得いかない。いつの世の中だって悪いヤツはいる。それにあの時、俺を助けてくれた先生のカッコ良さは本物だった、って思うから。
先生を待つ間、道場の床に雑巾がけをして待った。
先生がメールを打つのは遅い。かたつむりの歩みより遅い。だから時間がかかるだろうと思ったが、案の定三十分以上待たされた。
掃除を終えた後は、やることもなく先生を待つのみなのだが。この時、決して出入り口に背を向けてはいけない。俺は昔、後ろを向いて瞑想していてえらい目にあった。やってきた先生に背後からいきなり絞め技をかけられ、落とされたのだ。
下天一統流には『卑怯』とか『反則』とかいう言葉は存在しないらしい。やってはいけないことは、ただ一つ。敵に隙を見せることである。
そして道場にいるということはすなわち、師の教えを受けること。師の教えを受けることすなわち、師からの攻撃を受けることを覚悟するということ、であるらしい。つまり、ここで先生に隙を見せたら、とんでもない目に遭わされる。
ということで、先生がどこからどんな攻撃をかけて来ても受けきってみせる覚悟で、出入り口をにらんで立ち続ける。
先生は、ピンクのふりふりゴスロリドレスのままで現れた。気勢が削がれることこの上ない。
「覚悟は出来ているようだな」
先生はレースのリボンを揺らしながら不敵に笑った。
だからさ、年齢がどうとかいう以上に、先生の個性に女っぽいファッションが合わないんだってば。
「では行くぞ、康介」
それが開始の合図。先生は飛鳥のように俺に向かって飛びかかってきた。
と思ったら、おいおいおい! 先生、靴はいたまま土足で道場に入ってる。ちょっと! そこ、俺が今掃除したところ!
精神的ショックも大きいが、それだけでは済まなかった。どんなに強くても先生は五十代の女性。十代の男である俺の方が、筋力と反射神経では分がある。加えて、手足のリーチも俺の方が長い。だから、純粋に蹴りの威力で勝負するなら俺の勝ち……と思っていたのだが。
靴! この破壊力が大きい。目の前を先生の黒いブーツが通過していく。これが当たったら、裸足で蹴られた時のダメージなんか問題にもならないだろう。
しかも、だ。裸足での蹴りの場合、攻撃は足の甲か踵を相手に打ち込むようにするわけだが。靴をはいていれば、つま先での打ち込みが可能だ。足の甲を当てるより、直線的で鋭い攻撃が可能になる。
その上、先生は柔道の技も多く習得している。うかつに間合いを縮められたら、何をされるか分からない。俺は後ろに跳んで、大きく間合いを取った。だが実はあまり下がりすぎても危ない。
下天一統流は『格闘術』ではなく『武術』だ。剣術、槍術、果ては弓術や手裏剣術まで含む総合武術なのだ。で、この道場の壁には木刀やら、模造槍やら、そういう物騒なものがたくさん掛けてある。前に、壁まで追い詰められた俺は、そういう武器の一つを手に取った先生によって、更にさんざんな目に遭わされた。
思い起こすと、さんざんな目に遭わされた思い出ばかりである。
まあ、だから先生との立ち合いは得難いものであるのだが。道場では普通、遭遇することのない実戦に近い立ち合い。そこから俺が得たものは大きい。
毎回毎回、思いもしないことをやってくれる。靴をはいた先生に、裸足の俺はどう立ち向かったら良いのか。ここはやはり、リーチの長さを生かして先生の間合いの外から蹴り技を決めるべきか。
しかし、それが先生に通じるか? 下手に足を伸ばせば、間合いの中に飛び込んでこられる。
俺は必死に考えた。