マイ・スタイル
恋がしたい。
愛煙家が見事に集った職場から逃げるように、ビルの屋上のフェンスに凭れかかりながら、わたしはふと思った。
今日は風がきつく、空を見上げると雲の流れが一段と速い。隣のビルのアンテナにとまっていたカラスが、大きな羽を広げて空高く威厳たっぷりに飛び立つのを見つめながら、わたしは冷えた手をスーツのポケットに突っ込んだ。
そう、恋がしたい。
冷たく、鋭いくらい研磨されたような冬の風に、長い年月をかけて伸ばした髪が靡くのを手で押さえつけて、手首につけていたシンプルなデザインのシュシュで団子状に纏め上げる。いつ頃だっただろうか、願掛けのように髪を伸ばしはじめたのは。もう、夏場なんてスキンヘッドにしたい衝動に駆られるくらい、煩わしく伸びた髪なのに、なぜか切ろうという気にはならない。むしろ、もっと長く伸ばしてやろうと、ある種のチャレンジ精神すらわき上がってくるほどだ。けれど、別に髪にそこまで愛着があるわけでもないし、ましてや長髪が好きという恋人と付き合ってるわけでもない。ときたま、どうしてこんなにわたしは髪を大事にしてるのだろうかと問いたくなることもある。
わたしは前髪をかき上げると、空を仰いで目を細めた。
体当たりする北風が、ついさっき露わになった首元をすうすうと通った。
***
「佐藤 十です。よろしくお願いします」
部長の長ったらしい紹介が終わった直後、臆病な子犬のように微かに震えながら、いつ裏返ってもおかしくないようなトーンの安定しない声でそう言いながら頭を下げたのは、わたしの所属するマーケティング部に配属された新入社員だった。黒い短髪に痩せた長身。なかなかの男前だが、ホワイトボードにでかでかと書かれた名前に不釣合いなくらい、肝が小さいように見える。ぱらぱらと感情のこもってない、お愛想のような拍手に、佐藤という男はぺこぺこと頭を下げながら、今にも胃が九つくらいに分裂しそうなくらい、顔を真っ青にしていた。
前に、部長に次の新入社員の面倒はわたしの担当になる、という予告を思い出して、わたしは拍手する手をとめて深くため息をついた。
***
「あの、灰谷先輩」
佐藤が配属されてから一ヶ月。
呑み込みの遅い佐藤は、何かしら配られた企画書やサンプルを持ってはわたしの元へやってくる。
佐藤の机はわたしの隣。書類で溢れかえったわたしの机とは対照的に、元来身の回りは清潔に、というモットーを持って生きてきた根っからのきれい好きみたいに、彼の机はいくら分厚い資料やプリントを渡しても、わたしのような惨状になることはまずなかった。
椅子をくるりと回して佐藤の方に体を向けると、コーヒーをすすりながら何、と問う。
「ここ、この部分なんですけど」
佐藤は書類をわたしの目の前につきつけて、黄色の蛍光マーカーでなぞられた文字列を指さす。
わたしは少し仰け反って、佐藤を椅子に座るように促しながら、細々と細部までわかりやすいように説明する。
うんうんと頷きながら、素直にわたしの言葉にいちいち返事をする佐藤の姿はなかなか健気で可愛らしい。だが、彼の容量の悪さを即座に思い出し、実はわたしの言ってることの半分もわかってないのだなと思うと、急にどっと疲れが出てきた。
仕事熱心なのはいいことなのだが、少し問題がある。
「じゃあ、大橋さんのところに行けばいいんですね」
ああ、と納得したように佐藤は言うと、勢いよく立ち上がるが、そのまますぐに萎んで、大橋さんって、どこの部でしたっけ、と苦笑いしながら訊いてくる。
慌しく動き回る、ごった返したような職場にいる社員を尻目に、この男はいつまでも染められず、のほほんと一生懸命に仕事をしていることに、感心していいのか、呆れていいのかわからなくなる。
わたしは渋々むくんだ脚を奮い立たせて立ち上がると、佐藤を大橋の元まで案内する。
マーケティング部の部屋を出た瞬間、佐藤はヘビースモーカーが多いって、いやですよねえ、と声を潜めて言ってきた。
いくらマーケティング部を出たからとはいえ、狭い通路でいつもの調子で話していれば、いやでも他人の耳に話が筒抜けになってしまうことを心得ていた佐藤の、ほんの少しの警戒心なのだろう。けれども、あまりにも佐藤の声が小さすぎて、わたしは少々首を伸ばして佐藤の方に耳を近づけなければならなかった。
わたしはそこまで煙草を嫌ってはいないが、まだまだ新しく、清潔感の漂う洒落たデザインの白い壁が、煙草の煙によって日に日に黄ばんでいくのを見るのはあまり好ましくなく、わたしは曖昧に頷いた。
「それより、先輩の髪って、いつ頃から伸ばしてるんですか」
何の脈絡もなく、唐突な質問にわたしは一瞬眉を寄せる。
「さあ」
思いつく節もなく、わたしは適当に答えた。
「髪、染めたりしないんですか」
「わたし、そういうの嫌いだから」
「どうしてです?」
「白人系の外国人から見たら、日系の人の髪染めほど笑えるものはないんだって。わたしも日系の人は黒髪の方が似合うと思うし」
「結構ミーハーなんですね」
「そうでもないわよ。ちゃんとアイデンティティぐらい持ってるんだから」
「でも、俺、先輩の長い髪すごく好きですよ」
「へえ」
突然の予想していなかった言葉に、わたしはらしくなく少し鼓動が速くなった。少しだけ佐藤を気に掛けていただけに、ダメージは大きい。
それを悟られたくなくて、わたしはさも無関心そうに、適当に流す。
「あ、今スルーしましたね」
「あら、そう? ごめん。そんなつもりなかったんだけど」
「長い髪って、そそられません? 特に、先輩の黒い長髪って、結構俺のツボに入るんですよねえ」
佐藤は、意外によくしゃべる。それもべらべらと。意識的なのか、それとも無意識なのか。それでも、わたしが佐藤の言葉にいちいちときめくには充分の話しっぷりだった。
***
仕事もようやく一息つける時期に差し掛かった頃、職場内の女性はみんな佐藤狙いでアタックをしていた。
メタボリック症候群ではないかと、目を疑うほどの太りっぷりの男性職員が多い中、佐藤という好青年タイプの男性職員は、愛と恋愛に飢えた女性職員には恰好の的となっていたのだ。
佐藤は毎度毎度、わたしと二人で飲みに行くときに、そのことについてよく愚痴をこぼした。そんな彼に、多少なりとも嫉妬を抱いていたわたしは、まんざらでもないんじゃない、と軽くあしらった。そのたびにそんなことないですよお、と非難の声を上げる佐藤は、やはり可愛い後輩であると同時に、確かに恋愛感情を抱いているということもわかった。
「やっぱり先輩って、年上好きですか」
飲みながら、半ば酔っ払ったような口調で佐藤はわたしにそう訊いてきた。
見ればもうグラスに入っている酒は底をついている。
「別に。好きになれば誰でも」
「じゃあ、俺って恋愛対象に入りますかねえ」
確実に酔っている。
洒落たバーに見合った、少しイケメンの店員が、苦笑しながら酒をくれとせがむ佐藤に、ワインを注いだ。
店内を見回すと、もう大分遅い時間のせいか、客は点々と、お互い暗黙の了解で距離を置くようにはなれた場所に座っていた。
薄暗い、ブルーライトの照明が心地よくて、ほろ酔い気分のまま佐藤が眠ってしまうんじゃないかと心配になる。
「あんたはどうなのよ」
「俺ですかあ? 俺は好きですよ、先輩の髪」
「いや、髪で好き嫌い判断しないでよ」
「そりゃあ先輩のサバサバした性格とかは、今までにない感じで好きですけど、やっぱり決め手は髪ですよお」
「それって、あんま嬉しくないわね」
わたしはぽつりと呟いてから、帰るわよ、と佐藤の鼻を軽くつまんだ。
「今日はあんたが払ってね」
「ええ! いっつも先輩が出してくれるじゃないですか!」
急に目が覚めたように起き上がる佐藤を見て、わたしは呆れたようにため息をつく。
「いいから払いなさい。たまには先輩に楽させなさい」
そう言うと、佐藤はぶつぶつと文句を言いながらも、ポケットから財布を取り出した。
***
次の日の休日、わたしは朝起きてすぐに美容院へ向かった。
雑誌を読んで髪型を研究するわけでもなく、若くて可愛らしい美容師に、「短く切って」とあっさり告げて、ほんとにいいんですかあ、と訊いてくる美容師にいいのいいの、と乱暴に言い捨てた。
ジョキジョキ、とハサミが髪を切り落としていく。ぱらぱらと落ちていくわたしの髪は、昨日の決意を更にかためてくれるようだった。
どうせ好きになるなら、恋がしたい。愛はしたくないのだ。ただ無償で与え続けるだけの好意なんて、馬鹿らしくてやっていられない。身勝手で、傷つけた傷つけられたとヒステリックになっては、大人だけが所有できるエゴイスティックで、ひどくぼろぼろになるような恋がしたい。それにはリードは必要ない。どうせなら、対等に勝負して、負けてもいいから燃焼するのだ。
髪を切り終えて、大きな鏡に映ったわたしの髪は、肩にもつかないくらい短くて、わたしのちょっと勝気な顔にはお似合いだった。
月曜に会ったときの佐藤の反応が手に取るように予想できて、わたしはあまりのおかしさに思わずぷっと小さく笑った。
---了