ソラと名付けた群青
雲はなかった。所謂、蒼穹。しかしながら、清々しい空の様子とは裏腹に、もしくは比例して、外気はひたすらに熱と湿気を孕み人々を責めたてる。
そんな中、空に程近いビルの屋上に平戸瑠璃はいた。
鬱陶しげに街の騒音を聞き流し、親の敵とばかりに青空を睨めつける双眸から読み取れる感情は苛立ちだろうか。熱から逃れるためとはいえ、気怠るげに着崩したスーツは姿は控えめにいってもだらしない。
瑠璃が仕事の合間を縫ってここにきたのは考え事をするためであった。それというのも再来月に瑠璃の子どもが生まれるからである。
瑠璃の頭を悩ませているのは子供の名前だ。
「どんなのがいいんだろう」
瑠璃の口から意識せずにそんな言葉が漏れた。
瑠璃はなにかに名付けるという経験が今まで一度もなかった。それでも、その行為がどれだけ重要なのかは身に染みてわかっている。
ため息をつく。瑠璃はポケットから取り出したタバコの箱から一本抜き取り、火をつける直前で思い直すように握りつぶした。
ワイシャツのボタンを留め、タイを直して、手首の外側に巻きつけた腕時計を見る。
「そろそろ戻らないと」
瑠璃は結局考え事を終えることはなく、屋上を後にした。
平戸瑠璃。年齢は26歳の既婚者。性別は男である。
瑠璃が佐上昴と出会ったのは大学三回生の頃に友達に誘われた飲み会だった。
瑠璃が彼女の名前を初めて聞いたときの印象は男みたいな名前の一言に尽きる。
自分のことを棚上げしてそんなことを考えた瑠璃の様子を察したのか、昴は少し不機嫌そうに瑠璃にも名乗るように促したのがそもそもの始まりだった。名前を聞いて隠そうともせずに笑声を上げた昴の様子を今でも瑠璃は鮮明に思い出すことが出来る。
「あの時はなんて嫌なやつだろうと思ったのにな」
束の間の追想に触れ、瑠璃は優しく微笑んだ。仕事から帰ってきた瑠璃はそのまま子どもの名前をどうするか考え始めた。
帰ってきた瑠璃を出迎えてくれたのは昴の母である咲枝であった。昴はもう寝ているらしい。瑠璃は咲枝に頭を下げた。彼女は瑠璃たちが住む場所としてこの家を提供してくれたばかりか、昴の面倒も見てくれている。御産の知識が乏しい瑠璃にとって、それは願ってもないことであった。
なによりそこまでのことをしてくれているにも拘わらず「気にしなくてもいいのよ。早く孫の顔が見たいものね」と朗らかに笑ってくれる彼女に瑠璃は頭が上がらない。
壁掛け時計を見てみるると、子どもの名前を考え始めてから1時間半が過ぎていた。それを見計らって咲枝は瑠璃に話しかけた。
「少し休憩なさったら?」
「いえ、まだ粘ってみます」
「そう?確かに瑠璃さんが子どもの名前を一生懸命に考えてくれるのはとても嬉しいことだわ。なにせあの子は、ほら……お父さんが男の子みたいな名前をつけちゃったから。多少捻くれちゃって、嫁の貰い手を心配していたし」
おどけた風に咲枝は言った。とても50歳を過ぎているとは思えない。
「そうだ、明日昴を任せてもいいかしら?」
「ええ、かまいませんけど。どうしたんですか?」
「ちょっとお買い物にね」
「わかりました。昴のことはお任せください」
そう言って、寝室に移動する咲江を見送った後、瑠璃はまた思考の中に埋没していった。
「まだ考えているの?」
昴がそう訊ねたのは、瑠璃が昨日の夜から寝た様子がないからだ。いくら今日が休みの日だからといっても徹夜して子どもの名前を考える夫の姿を昴は心配に思い、それ以上に愛おしく感じる。
昴はマグカップにコーヒーを淹れ、ソファーに腰掛けノートパソコンと睨み合っている瑠璃の横にそっと腰かけ、差し出した。
「ありがとう」
瑠璃はそうとだけ言ってカップをノートパソコンの横に置いた。昴は瑠璃の少しだけ隈ができている横顔を見ながら考え、瑠璃の肩に頭を預けながら言った。
「私があなたに名前をつけてと言ったのは、もちろんすばらしい名前をつけてほしいというのもあったのだけれど、ただ単純にあなたのつけた名前で私たちの子どもを呼びたかったからよ。そこまであなたに根を詰めさせるためではないわ」
「うん、わかってる。でもこれは大切なことだから。キミだって自分の名前が男みたいだって、嫌な思いをしていただろう?だからちゃんと考えてあげたいんだ」
「そうね。うん、そうだった。そんなこと今まで忘れていたわ」
瑠璃は少なからず驚いた。昴のほうを向いたのもそのためだ。
「どうして?キミは結構気にしていたじゃないか。始めて会ったときなんかボクのこと睨みつけてきたじゃないか」
「そうね、でも――」
昴は苦笑した。確かにそうだったかもしれないと思ったからだ。けれどだからこそと思う。
「だからこそあなたと仲良くなって、今お腹に子供までいる。私は今とても幸せだし。自分の名前が大好きよ」
「そう、か」
そうだなと、瑠璃も思った。心の中で自分の名前を呼んでみる。昔持っていたような嫌悪感は微塵も感じなかった。
窓の外を見ると、澄み渡る大空が目に入る。太陽の光がまぶしく、瑠璃の徹夜した目に染みた。
「そうだ、外に出てみない?今日もいい天気、きっと今夜も星が綺麗ね」
「……星、か。そうだ」
瑠璃は頭に浮かんだ様々な単語をパソコンに打ち込み、それから一つを残してすべて消した。瑠璃はもう一度それを見て満足げにうなずく。
ディスプレイには、見上げれば何処にでもある群青色の名が書き記されていた。
瑠璃が隣を見ると昴が笑っていた。瑠璃も笑った。
気が抜けて上ってきた欠伸を噛み殺し、淹れてもらったコーヒーを口に含む。
けれど飲み下す前に噴き出した。
「なにこれ。すごく甘い」
もう一度瑠璃は隣を見た。やはり昴は笑っていた。
彼女の目の縁にたまっていた涙の理由を瑠璃が考えないことにしたのは、きっと気恥ずかしかったからだろう。
↓はいらないかなと思って省いたもので、ラストの続きです
赤子が泣いた。おぎゃーおぎゃーと。
瑠璃はすぐさま立ち上がり、分娩室の扉の前まで駆け寄った。出てきた看護師に頭を下げ、どうにか冷静さを取り繕う。
「元気な女の子ですよ」
看護師の言葉で取り繕ったはずの冷静さはすべてどこかに飛び去った。
安堵と興奮が瑠璃の心に渦巻く。であるというのに、いまだ実感は湧かず、体は宙に浮いているような気さえした。
それほど長くはないはずであるのに、面会までの時間を瑠璃は永劫のようにも感じた。
看護師から声がかかる。扉を開ける手が震えた。咲枝がそっと瑠璃の背中を押す。
開いた扉の中、患者用のベッドの上に昴がいた。
その腕の中にいる赤ん坊を見た瞬間、一気に実感が追いついた。
瑠璃の瞳から涙が溢れる。見れば昴と咲枝も泣いていた。それを感じ取ったのか赤ん坊も泣いた。みんな泣いた。
――大きな声で泣いたのだ。
泣きつかれたのだろう、赤ん坊は眠ってしまった。瑠璃も昴も咲枝も泣き止んだ。
咲枝は思い出したように手を叩いて瑠璃に箱を一つ手渡した。
「これは……なんですか?」
「開けてみればわかるわ」
瑠璃が箱を開ける。どうやら一度開けたようで、梱包は雑だった。
中にはベビードレスが入っている。ベビードレスには「ソラ」と瑠璃色で刺繍がしてあった。