愛しき竜に口づけを
竜は謳う。その少女の哀しみを。
竜は謳う。人の命の儚さを。
竜は謳う。気高き愛を。
竜は謳う。呪いの唄を……—―
§§§
私の名前はレイラ。
私は捨て子だった。
五歳の時に竜の谷に捨てられ、竜に育てられて、今、十四歳になる。
竜の谷と言っても、今は年老いた賢竜が一頭いるだけ。
竜の角や鱗、肉、血の一滴にさえも強い生命力と魔力が満ち溢れているとされ、人々に乱獲されてしまったから。
もちろん世界のどこかにはまだ何頭かいるだろう。けれど、竜たちは皆、身を隠しひっそりと暮らしている。もし人が近づけば、大抵の場合、食べられてしまうだろう。
小さなこの国――ヴィロワール大陸の東に位置するザザン帝国には、私の親代わりとなってくれた赤い竜、ヴァーン・ルーシェ・ドラクレアただ一頭。
この国ではヴァ―ンは『紅き賢者』と呼ばれ崇められてきた。ヴァ―ンは人々に望まれれば、少量の血や鱗を分け与えていたから。だから私たちは平和に暮らしている。
竜は一〇〇〇歳を超えると人の姿に擬態することができる。
ヴァ―ンは齢三〇〇〇歳にもなる老竜だから、当然人の姿にもなれるのだ。
彼はいつも幼い私に合わせて少年の姿をしている。
「さあ、レイラ。たんとお食べ。」
焚火の上にかけられた鍋には、ほかほかと湯気を立てる野兎のスープ。
私たちは谷底の小川のほとりにある小さな洞窟の中で暮らしている。
「いただきます!」
「ヴァ―ンはもう食事は済んだの?」
「ああ。ちと小腹がすいたでな。さっき上の森で鹿を二頭ばかり喰ろうてきた。」
「そう。」
食べ終わると、ヴァ―ンから優しいおとぎ話を聞かされながら、やがて眠りにつく。
変わらぬ日常。ずっとこんな日々が続くと思っていた。思い込んでいた。
けれど……——
§
ただならぬ喧騒に目を覚まし、見渡すと、王都ヨンダム全体が、夕暮れ時のような赤に包まれていた。赤い炎が家を、街を、全てを飲み込み、まるで生き物のように轟々と燃え盛っているのを、ヴァ―ンの背からぼんやりと眺めていた。
真っ暗な上空に、大きな紅い翼が羽ばたき、その大きな口から、真っ赤な炎を吹き出している。炎の下から、数多の弓矢が盛大に放たれるのが、かすかに見えた。それと同時に、地上からも炎の魔法が揺らめいた。国王直属軍の魔導騎士たちが、私たちを追い詰めている。
どうしてこんなことになっているのか、さっぱりわからない。
私は、この世の終わりのような惨状から目をそらすと、ヴァ―ンに問いかけた。
「ヴァ―ン、どうしたの? なんでヨンダムを燃やしちゃうの?」
「起きたか、レイラ。……この国の王が病の床に伏しているのは知っておるか?」
「うん。知ってるよ。それで宮廷魔法使いの人が最近よく谷に来ていたよね。」
いつの間にか私たちは王都を遠く離れ、隣国タダイとの国境近くまで来ていた。
ヴァーンは炎を吐くのをやめてこちらを振り向く。その目に宿る紅が、一層濃くなったような気がした。
「その余命、幾ばくもなく、延命のため、我が胆を欲するようになった。」
竜の生き胆には不治の病に効果がある、不老長寿の妙薬だと言われていた。つまり王は、自分が死にたくないからと言って、こともあろうにこの国の守り神である、大恩あるヴァ―ンを手にかけようとしたというのか。
「ひどい……。」
「この国の建国の時から王家を見守ってきたが……、よもやこんな仕打ちを受ける日が来ようとはとは努々思わなんだ。」
ザザンは竜の庇護下で栄えた国である。ヴァーンの落とす鱗や生え変わった牙などを用いて作られた魔具は強い炎の魔法を宿し、魔導騎士たちの重要な武器となる。
他国と戦となればヴァーンは強力な味方となったし、その力を宿した魔具を身につけた騎士達は、竜に引けを取らない強力な魔法を用いることが出来た。
ヴァーンが居るおかげで他の竜から襲われる心配もなかったし、星を読む術や魔法についてなど、この賢竜のおかげでザザンの文化は発展したのだ。
「なに、これも一重に時代の流れというものよ。」
ヴァーンはどこか遠くを見つめながら、こともなげに笑う。
「恩人であるヴァ―ンにこんな仕打ちをするなんて……ヴァ―ンは人が憎くないの?」
「無論、我が命を狙う者には容赦はせぬ。今頃王都は儂が放った炎で焼け滅んでしもうただろうよ。」
「じゃが、儂にはたった一人の愛し子が居るでな。人間全てが悪とは思うとらんよ。」
「……そう。」
こんなことになってしまって悲しいけれど、愛し子なんて言われてしまうと、なんだか安心したような、嬉しいような、胸の奥がこそばゆいような感じがした。
私の大事なお父さん。かっこいい、真っ赤な竜……。
今夜はタダイの森で野宿することになった。
ヴァーンは森の中の開けた一角に着地すると、私が背から降りるのを待って、いつもの少年の姿に戻る。
すると、その二の腕に大きな傷があり、たくさんの血が流れていた。
「ヴァーン! その腕……!」
「ああ、あの魔導騎士めらはなかなか厄介だったからのう……。」
「傷! 手当しなきゃ……!」
後ろでヴァーンが何か言っていたけれど、私は慌てて町まで降りると、薬屋を探す。やっと見つけた薬屋は当然閉まっている。こんな夜遅くに開いているわけもない。
私は必死に戸を叩いて、何とか薬屋を叩き起こすことに成功した。
「包帯と傷薬をください。」
「……ったく。こんな時間に。……はいよ。二六〇〇ジェリーだ。」
不機嫌そうな店主がぶっきらぼうに薬と包帯を差し出す。
しまった、お金を持っていない。
「あの……、これでいいですか?」
そう言ってヴァーンが「何かあった時の為に」と言って持たせてくれていた、ヴァーンの鱗を一枚差し出す。
「……ああ!? こりゃ竜の鱗じゃねえか! ……どう見ても本物だ。なんでお嬢ちゃんがこんなものを? いやぁ、これじゃぼったくりになっちまう。他に入用のものはあるかい?」
大きな鞄にナイフとランプ、薬を数種類に朝食用のパンを一切れもらった。
「本当にそれだけでいいのかい? いやあ、儲かった!」
機嫌良さげな店主に別れを告げ、急いでヴァーンの元へと戻る。
「ヴァーン! 薬買ってきたよ! 手当てするから、服脱いで!」
「やれやれ。このくらい、大したことないというのに……。」
そう言いながら、ヴァーンはゆっくりと服を脱いだ。逞しい少年の身体が、月に照らされて青白く浮かび上がる。その妙に艶かしい様子に、私は思わず顔を背ける。自分でも頬が熱くなっているのがよくわかった。
「……年頃の乙女には少々刺激が強すぎたようじゃの。」
ヴァーンが妖艶な笑みを浮かべながら、愉しげにくつくつと肩を震わせた。
結局、ヴァーンは自分で薬を塗ると、器用に包帯を巻いて服を着た。
「ごめんなさい……。」
結局何にも出来なかった私を責めることもなく、ヴァーンは笑っていた。
「良い良い。こどもは何も出来ぬくらいの方が返って可愛いものじゃ。」
私だってもう、こどもじゃないのに。ほんの少しだけ、悔しいような、いたたまれない思いがした。
翌朝。
「さて、これからどこへ行こうかの?」
「わかんない。」
「ではふらふらと、気の赴くままに、旅などしてみよう。あの谷しか知らぬお前が見聞を広げるにはいい機会かも知れぬ。」
「うん……!」
ヴァーンと一緒に旅だなんて。なんだか素敵。
ザザンにはもう帰れないし、ヨンダムはもう燃えてしまったけれど。ヴァーンが一緒なら、どこにいたってきっと幸せだ。
「一先ずレイノルド諸島のほうにでも行くとしよう。あの辺りは気候も温暖で、過ごしやすい。旅慣れぬ幼いお前が最初に赴くには悪くない筈じゃ。」
こうして私たちの長い旅は始まった。
§
ヴァーンの背に乗って西へ、五日ほど。
途中いくつかの無人島で休憩をして、ようやくレイノルド諸島の一国、カナパンテアイランドに到着した。
カナパンテアイランドは竜に対して友好的な国で、二頭のつがいの竜が暮らしているのだという。その為か、ヴァーンの姿を見ても、この国の人たちはあまり驚く様子はなかった。
ヴァーンは港で私を降ろして、自らの鱗を数枚剥いだ。剥いだ鱗を街の市で売って、当面の旅費に変えるつもりらしい。痛そうで心配だったけれど、大した痛みはないとの事で安心した。
鱗を剥ぐと、ヴァーンはたちまちいつもの少年の姿へと変身した。ここからは、歩いて進むらしい。
カナパンテは魔術師の国としても有名だった。私は知らなかったけれど、歩きながらヴァーンが教えてくれた。
魔法というのは、体内に流れる魔素を用いて発動させる。誰の身体にも魔素が含まれていて、竜も人も、草も木も、それぞれが炎、風、水の属性を持っている。竜は体内を巡る魔素の量が極めて多く、強力な魔法を使うことが出来る。一方、魔術師や魔導騎士たちのような魔素が通常の人間より多い体質の人たちでも、竜の身体の一部を使って作った魔具を、自分の属性に合わせて用いることでやっと魔法が使えるのだという。
ザザンは竜の庇護下で栄えた国だけれど、カナパンテは魔具の流通が盛んで、近隣の島国との貿易も広く行われていた。
「へえ、こりゃ驚いた。これはさぞ名のある竜の鱗だろう。三枚で二三〇〇万ジェリーはくだらないぜ。坊ちゃん、これをどこで手に入れたんだい?」
素材屋に鱗を持ち込むと、素材屋の店主は随分と驚いた様子で言った。
「さての。企業秘密じゃ。こう見えて、魔術師の端くれ故な。」
ヴァーンが不敵に笑ってぱちりとウインクした。
「はあ、そうかい。小さくても魔術師様じゃあなぁ。こりゃ失礼したぜ、坊ちゃん。それで、三枚とも売ってくれるのかい?」
「いや、二枚は売るが、もう一枚は加工して欲しい。タリスマンにして欲しいのじゃが、この店でお願いできるかの?」
こどもふたりで魔術師だなんて嘘をついて、怪しまれやしないかとどきどきしたけれど、どうやら杞憂だったようだ。やっぱり、ヴァーンに見た目年齢には不相応な、なんとも言えない魅力があるからだろうか。
「よっしゃ、任せときな。二枚で八〇〇万ジェリーに、加工代の五〇万ジェリーを差し引いて七五〇万ジェリーだよ。」
「おう。」
ヴァーンは店主からお金を受け取った。
タリスマンってなんだろう。ヴァーンの鱗を使って作るのだから、きっと何かしらの魔具なのだろう。でも、そんなものを持たなくても、ヴァーンは魔法が使えるのに。
鱗を換金した後は、タリスマンが出来上がるまでふたりで市を見て回ることにした。
「すごいね、色んなものが売ってる!」
ザザンとはまた違う、商人たちの活気に溢れる独特の雰囲気。たくさんの天幕の下には色とりどりの果物や花、薬草に野菜、それからなんと言っても、見たこともないような様々な魔具が所狭しと売られている。そして、鼻腔をくすぐる香ばしい匂いのする一角を見やれば、カナパンテの郷土料理らしい食べ物の屋台が並んでいた。
「レイラはどれが食べたいんじゃ? 好きなものを買ってやろう。」
「それじゃあ私、あのお肉の串焼きみたいなのが食べたい!」
「よしよし、では儂もそれを食べよう。」
串焼きは甘じょっぱい特徴的なタレが染み込んでいて、一口食めば熱い肉汁がじゅわりと口の中に広がった。
「おいしいね!」
「うむ、悪くないのぅ。」
串焼きに舌鼓を打ちつつ歩いていると、目に留まるのはやはり、様々な魔具だった。
「ねえ、ヴァーン。あれは何?」
私が指さすと、ヴァーンはそちらに顔を向ける。
「ああ、あれは竜の角で出来た剣じゃの。角は時々生え変わる故、そう珍しくもない。」
その言葉に、私は目を見開いた。
「ヴァーンの角も生え変わるの?」
「勿論じゃとも。儂とて、生きた竜故な。」
「生え変わるとこ、見てみたい!」
そう言うと、ヴァーンは困ったような顔で考え込んでしまった。
「さて、次に生え変わるのはいつ頃じゃったか……?」
「どのくらいで生え変わるの?」
「数十年に一回くらいかの?」
「えー……。それじゃあ私、お婆ちゃんになっちゃう!」
そんなに珍しくないというから、もっと頻繁に生え変わるものだと思ったのに。
膨れる私を宥めるように、穏やかな口調でヴァ―ンはつぶやく。
「……人とは老いるものじゃ。仕方がない。」
「でも、約束ね。お婆ちゃんになっても、一緒にいるから。その時見せてね。」
「……ああ。」
微笑みかける私に、ヴァーンは一瞬、どこか暗い表情を浮かべたけれど、この時の私はまた別の魔具に目を引かれていて、気付かなかった。
「あ、ヴァーン。これは何?」
「おお、これはな……——」
私は初めて見る魔具の数々に夢中になって、ヴァーンを質問攻めにしていた。
あちこち見て回っているうちに、あっという間に時が過ぎ去り、タリスマンを引取りに行く時間が来た。
「はいよ、お待ちどう。」
「うむ、なかなかの出来じゃな。」
ヴァーンは素材屋の店主からタリスマンを引き取ると、そっと私に手渡した。それは、魔法陣のようなものが刻まれた、ペンダント状のお守りだった。
「レイラよ、これを持っておくが良い」
「私に?」
「お前以外に誰がおる?」
「でも私、魔法なんて使えないわ。」
「お前からは僅かじゃが炎の魔素を感じる。魔術師のような大技は使えなくとも、もしもの時の護身用くらいにはなろう。何せ、素材が良いからの。いいから、持っておけ。」
「うん。」
私は緋色のタリスマンを首から下げた。よく研磨されたそれはキラキラと輝いて、まるで宝石のようだった。こんな立派なもの、私には似合わないのではないかと思ったけれど、ヴァーンは納得したように頷いた。
「うむ。よく似合っておるぞ」
「そうかな? ありがとう。」
私が笑うと、ヴァーンもにっこりと頬笑みを浮かべた。
翌日。
私はヴァーンの背に乗り、この島で一番大きな山の頂に住むという二頭の竜に会いに向かった。
なんでも、ヴァーンとは旧知の仲らしい。
やがて山頂に着くと、そこには大きな緑色の竜が二頭、仲睦ましく並んでいた。
「リリィー、ガブリエル。息災で何よりじゃ。」
ヴァーンが、嬉しそうに目を細める。
「久しい顔だの。何百年ぶりか?」と、やや小ぶりの竜。
それに、ヴァーンよりも少しだけ大きな竜が答える。
「もう五〇〇年にはなろうよ。其方も息災で何より……と言いたいところだが、ザザンでの話は此方にも届いているよ。」
大きな竜は心配そうにヴァーンを見つめる。
「何、もう済んだことじゃ。寧ろこうして自由の身となり、其方らの顔を見られてよかったわい。」
こともなげに答えるヴァーンに、大きな竜は少し呆れた様子で私に視線を落とした。
「その割にはまだ凝りもせず人間を連れているようだが……?」
「これは儂の愛娘じゃ。」と自慢げに答えるヴァーン。
「……レイラと言います。」
私はおずおずと名乗ると、そっと頭を下げる。
「ふむ。礼儀はなっておるようだの。」
小ぶりの竜が感心したように頷いた。
「当然じゃ。」
「それで、其方ら、これから何処へ?」
「特に決めておらんが……。」
「我らは生まれいずる時より此の地にいる。其方も故郷に戻ってはどうだ?」
「そうだの。わらわもそれが良いと思う。」
「なるほど……。ポレメにはもう一〇〇〇年以上帰っておらぬが……。どうせなら故郷へ戻るというのもありかも知れぬ。」
ここで生まれ育った二頭の幸せそうな様子を見て、ヴァ―ンも故郷を目指すことに決めたようだった。
「どうじゃ、レイラ?」と確認されるまでもない。私の答えは決まっていた。
「私も、ヴァーンの故郷に行ってみたい!」
旅の行き先が決まり、私たちはゆっくりとヴァーンの故郷——アルビウス大陸の最北端、ポレメの谷を目指すことになった。
§§§
二年後。
いつの間にか、私はヴァーンの身長を追い越してしまっていた。
けれどもヴァーンは少年の姿のままで居続けている。
「私も大きくなったし、ヴァーンも少し大人の姿に変えてみたら?」と言ってみたけれど、「儂はこのくらいの方が可愛くていいじゃろ?」と言って譲らなかった。
彼より拳ひとつ分ほど高くなった視線が、私を嬉しいような、寂しいようななんとも言えない複雑な気分にさせる。
私たちはレイノルド諸島の最北端の島、アルフガルドまでやってきた。
アルフガルドは竜の襲撃を受け、荒れ果てていた。
毎月一人の人間を竜に生贄を差し出すことで、なんとか他の国民が生き延びている。そんな国だった。
長旅の疲れか、私は高熱を出して寝込んでしまった。何日も宿から出られない私を、ヴァーンが甲斐甲斐しく世話してくれる。宿の主人に頼んで作ってもらったスープを、ヴァーンが匙で掬って食べさせてくれた。
「ごめんね、ヴァーン。迷惑かけて……。」
私はいつもヴァーンの手を煩わせてばかりいるように思う。
本当に一緒に旅をしていて大丈夫なのだろうか。ヴァーンは私をどう思っているのだろうか。
「何を言っておる。気にするでない。」
ふっと微笑むその顔に、安心感を覚える。
「ヴァーンはどうしてそんなに優しいの?」
「さてな。お前が可愛いからではないか?」
そう言って、ヴァーンはわたしの口元に手を伸ばす。
「付いておるぞ。」
ヴァーンはそのまま指先でつうっとわたしの唇を拭い、それを自分の口元に運ぶ。ぺろりと舌を出してそれを舐め取る姿は妙に艶っぽくて、私はどきりとしてしまう。頬が熱いのは、決して熱のせいだけではなかった。
食事が終わると、ヴァーンは薬草を煎じて飲ませてくれた。
「さあ、もう寝てしまうと良い。」
優しい囁きに促されて、ベッドに身体を横たえる。身体が重たく、熱いのに寒気が止まらない。
§
夢を見ていた。母に殴られる夢。お前がいるせいで生活が苦しい。お前のせいで客が取れない。お前のせいで。お前のせいで……。
お腹がすいて、身体が痛くて、ひもじくて、とてもさみしい夢。
夢の中の私は森の中でヴァーンを探したけれど、ヴァーンはいなくて、ひとりぼっちだった。そのことが、悲しくて、悲しくて……。
目を開けると、そこはいつもの宿だった。どうして今更こんな夢を見たのだろう。
私が初めてヴァ―ンに会ったのは、忘れもしない五歳の冬の日……——
「おや、人の子か。」
深夜、竜の谷の絶壁の淵に捨て置かれた私を上空から見下ろす、大きな緋色の瞳。
「わたしを、たべるの?」
そう問いかけると、彼は可笑しそうに笑った。
「慌てるでない。儂は人は喰わぬ。」
気がつくと目の前に、紅い瞳の少年が立っていた。月の光が、少年の端正な顔に妖しげな影を落とす。
瞬きするより早く、竜は人の姿に化け、私の前へと移動したのだと理解するまで、数秒かかった。
「どうじゃ、とりあえず童に化けてみたのだが……これなら落ち着いて話せそうか?」
そう言って心配そうに小首を傾げる。黒く艶のある前髪が、さらりと揺れた。
「はなし……?」
尋ねると、少年はにっこりと頷いた。
「ああ。少し、話をしよう。お前、何故このような夜更けに、人里離れた此の地に?」
少年が瞳を瞬かせる。大きな瞳に私の顔が映る。少年の姿に落ち着きを取り戻しつつある私は、少しずつ身の上を話した。
生まれてから今日までの五年間、ヨンダムで暮らしてきたこと、母は娼婦で、私を邪険にしていたこと、何度も何度も捨てられかけて、数刻前、ついにこの森に連れてこられ、捨てられたこと、父の顔は知らないこと……。
「ふむ……。つまりは帰る当てがないということか。」
少年の長いまつ毛が思案げに揺れた。
「うん……。」
「お前、名は?」
「レイラ。」
「レイラか。良い名じゃ。」
少年がふっと笑う。
「我が名はヴァーン。ヴァーン・ルーシェ・ドラクレア。紅き賢者と呼ばれし竜よ。」
誇らしげに名乗りを上げる姿に、思わず見惚れる。
そして、私は静かに頷きを返す。
「しってるわ。この国であなたを知らない人なんていない。」
やや間をおいて、私は言葉を続ける。
「……おかあさんは、わたしみたいな悪い子は竜にたべられてしまえばいいっていってたわ。」
「喰わぬと言うたではないか。竜とは気高き生き物なのじゃ。元々、人を好んで喰らうような悪食はせぬものだった。」
心外そうに眉を寄せると、わざとらしく肩を竦めてみせる。軽い口調で言われた言葉だったけれど、私に衝撃を与えるのには充分だった。
竜とは本来、恐ろしいものだ。人を喰らい、蹂躙していく。そうなったのは、元を正せば人の業の深さのせいだったというのか。憎しみが竜を恐ろしいものに変えてしまったというのか。
「……賢い子じゃな。じゃが、そう神妙な顔をするでない。どうじゃ、お前、儂と一緒に暮らさぬか?」
突然の提案だった。
「どうしてわたしと? あなたならひとりで生きていけるでしょう?」
私の問いに、ヴァーンはしみじみと答える。
「どれだけ歳を重ねても、孤独というものには慣れぬでな。」
「ひとりはさみしいっていうこと?」
「ああ。」
飄々とした様子からは本心は見抜けない。けれど、気高く偉大な竜がさみしさを埋めるために私と一緒に暮らそうだなんてありえない。
きっとこの竜は私のためにそう言ってくれたのではないか。ひとりきりでは生きられない、弱く非力な私のために。だとしたら、この竜はどれだけ慈愛に満ちているのだろう……——
§
無性にヴァーンの顔が見たくって、辺りを見渡したけれど、隣のベッドは空っぽで、私は慌てて重たい体を起こした。
「ヴァーン、どこ? ヴァーン!」
ふらつきながらも何とか立ち上がると、胸元のタリスマンが揺れた。わたしはそれを握りしめながらベッドを離れ、ドアのほうへと向かう。ゆっくりとしか動かない身体がなんとももどかしい。
なんとかドアの前まで来た時、ドアが外側から開けられた。
「レイラ……?」
目の前には馴染んだ顔がある。ヴァーンだ。ヴァーンが、私のそばにいる。
「ああ、ヴァーン……。」
思わず安堵の声が零れる。
「どうした、泣きそうな顔をして。」
ヴァーンは優しく微笑むと、私を横抱きに抱えてベッドへと向かう。間近にあるヴァーンの顔を見上げながら、私はおずおずと尋ねる。
「どこに行ってたの?」
「薬草が切れたのでな。近くの森まで探しに行っておった。」
言いながら、ヴァーンが私をベッドへ下ろす。
「もうどこにも行かないで。」
言いながら、ヴァーンの腕にしがみつく。
声が震えて、涙が目から溢れ出した。
「熱に浮かされて怖い夢でも見たのか? 安心せい。儂がずっと傍におる。何も怖いものなどありはせぬ。」
幼子をあやす様にそう言って、ヴァーンが隣に添い寝する。
「そうじゃ。子守歌を歌ってやろうのう」
それは、ザザンに昔から伝わる、懐かしい子守歌だった。優しい歌声が、耳に心地よい。
「ねえ、ヴァーンには家族はいないの?」
すっかり落ち着いた私は、ふと疑問に思ったことを口にした。
するとヴァーンは、囁くように答えた。
「儂にも生涯を誓った伴侶がおった。……子を成す前に、亡うなってしまったがの。」
竜は一度つがいとなると生涯を添い遂げる生き物だ。つまりヴァーンはこれから先もずっと他の竜に恋することはない。
悲しげに微笑むヴァーンの彫刻のような美しい顔を、私はすぐ横から見つめるしか出来なかった。
じんわりと胸が痛むのは、ヴァーンがかわいそうだからではない。ヴァーンに一生を誓った相手がいた、ということがとても苦しくて仕方がなかった。
ああ、私はこの竜がたまらなく愛しいのだ。
そう思っていると、不意にヴァーンが茶化すように笑った。
「お子様のレイラにはちと早い話だったかの?」
「こども扱いしないで!」
私は強く言い返した。けれどもヴァーンはくつくつと笑うだけだった。
「こどもじゃろうて。」
「こどもじゃないってば。」
夜の闇の中で、私たちは何度も言い合った。ヴァーンの大きくて全てを見通せるかのような紅い瞳が、私を捕らえて離さない。
この届かぬ恋心まで全てを見透かされているようで、私は自分のどうしようもない幼さが恥ずかしかった。
§§§
四年後。
私たちはエリスフィア大陸の中央にある、ルルド公国の万屋にいた。
「ところで、お姉さんたち、この国の魔術師じゃないだろう。お姉さんたちもロゼリアを狩りに来たのかい?」
「ロゼリア?」
私は確認するようにヴァーンを見つめる。
「……聞かない名じゃの。竜か?」とヴァーン。
「ああ。水の竜だから、炎のタリスマンじゃ太刀打ち出来ないよ。こことは反対の、ジルビアとの国境の、マオール山脈あたりによく出るらしい。麓の村は全壊だって噂だぜ。」
くわばら、くわばら、と、店主は大して困ってなさそうに付け加えた。
実際、国外の魔術師まで動員して竜と対峙しているのならば商売繁盛、万々歳で困ることなどないのだろう。
「マオール山脈か。ちょうど通り道じゃの。何も、なければ良いが……」
ヴァーンが小さく呟いた。
ロゼリアって、どんな竜だろう。私もロゼリアと遭遇することになるんだろうか。
そんなことを思いながら万屋を出ると、私たちは早速今日の宿探しに取り掛かった。
ルルド公国に来て、数週間が経とうとしていた。
今日は生憎の雨だったので、早めに宿に入った。
天井から吊るされたランプの炎が、ゆらゆらと揺らめく。
私は少し固いベッドに寝そべり、隣のベッドに座って足を組む、ヴァーンへ目をやった。
「今日は何の話を聞かせてくれるの?」
「そうじゃな。では、ルヴランがまだハイハイしとった頃の話をしようかの。」
幾分成長した私は、おとぎ話ではなく、ヴァーンの過去の話を好んで聞いた。
「ルヴランって、賢王だったって言われている、あの?」
「あれは小さい頃はとんだ泣き虫での。」
「えー、嘘でしょう?」
「嘘ではない。いつだったか儂の背に初めて乗せてやった時には怖い怖いと泣いて暴れておったわ。」
「そんなことで泣いていたの?」
「おうとも。いつも鼻水を垂らして泣いてばかりおる鼻たれ小僧じゃった。」
ヴァーンはザザン王家の一族がこどもだった頃の話をよく話してくれた。懐かしそうに目を細めるその姿に、ちくりと胸が傷む。ヴァーンはザザン王家をとても大事に思っていたのだろう。それなのに、王は、そんなヴァーンの想いを踏みにじったのだ。許せない、と思った。
「そんな顔をするでない。もう、済んだことじゃ。」
「でも……。」
「お前、こーんな顔をしとったぞ。」
そう言って、ヴァーンは綺麗な長い指先で目元をきゅっと釣り上げる。意地悪っぽくくつくつと笑うその顔はすっかりいつも通りで。何だかそれが、かえって悲しく感じられた。
「でも、だって、ヴァーン。」
「さあ、そろそろこどもは寝る時間じゃぞ」
笑顔のままのヴァーンに、無性にさみしさを覚える。
少年の姿をしていても、ヴァーンはなんでも知っている竜なのだ。悲しいことも苦しいことも、みんな知っている、老竜なのだ。知的で優しく、優雅で気品のある気高き竜……。
私にもいつか、ヴァーンの気持ちがわかる時が来るだろうか。
考えても答えは見つからず、ちくちくとした胸の痛みは増していくばかりだった。
マオール山脈に差し掛かると、時折国内外から来たという魔術師たちに出会った。彼らは皆、ロゼリア討伐のために来たらしい。
噂通り麓の村は全壊で、野宿を強いられることが多くなった。幸い、マオール山脈は比較的なだらかな山々で、野草や小動物、川魚なども豊富で、食べるものには困らなかった。
そうして今日も、私たちは山中の生き物や木の実などを二人で探して歩く。
ヴァーンは野草やきのこにも詳しく、毒があるもの、食べられるもの、薬になるものなどを教えてくれたが、私には見分けがつかず、なかなか覚えることが出来なかった。
二手に分かれて食料探しをしている時、鳥たちが急にざわつき始め、やがて皆同じ方向へと一斉に飛び立っていった。
刹那、森の空気がひんやりと冷えて、どこかじめっとした嫌なものへと変わっていく。
「何……?」
不穏な空気を感じ取り、胸がざわざわと騒ぎ始める。
すると、突然、大きな影が落ちた。
顔を上げると、濃紺の大きな竜がそこに居た。
途端に、竜の前足に組み敷かれる。
「人間め、許さぬぞ……!」
濃紺の竜が牙を剥き、その大きな顔がわたしに向かって迫ってくる。この竜は私を食べる気なのだ。
私は無我夢中で身体を動かそうとしたけれど、鋭い竜の爪で地面に縫い付けられた身体は少しも動かない。
もうダメだと思った時、竜の顔の辺りに炎が舞った。
「悪いがその娘は儂の連れじゃ。見逃してはもらえぬか?」
慌てて身を起こせば、いつの間にか大きな翼に守られるように包まれている。久しぶりにヴァーンの竜の姿を見た。
「貴様、ザザンの紅き賢者か。我が名はロゼリア・ローグ・ドラグーン。」
ロゼリア。この竜が麓の村を滅ぼした、恐ろしい竜。
「紅き賢者と謳われたお前が、国を失ったという噂は聞いたが……この期に及んでまだ人を庇うのか。愚かな。」
「そう言うでない。これは親に捨てられた哀れな娘よ。」
ヴァーンの長い尾がゆらりと揺れる。巨大な二頭の竜が対峙する中、私は何も出来ず、ただその言葉に耳を傾けていた。
「ふん……だからと言って人と竜が共存など出来るわけがない。」
ぎくりとした。私はヴァーンと一緒には生きていけないのだろうか。
そう思うと、とても悲しい気持ちになる。そんな自分に気付いて、私は自分がいかにこの緋色の竜を頼っていたのか改めて思い知らされていた。
「其方は、人と見れば全て憎いのじゃな。」
「当たり前だ。人は我が愛しき背の君を殺した上、残った卵まで奪ったのだ。許すことなど出来ようものか。」
ヴァーンは否定も肯定もせず、ただ黙ってロゼリアの言葉を聞いていた。
ロゼリアはつがいの竜と卵を人の手によって失ったのか。それで人を憎み、村を滅ぼしたのか。だったら、悪いのは人間ということになる。でも、だからと言って私は殺されたくはない。
近くに水源などないのに、ロゼリアの周りに水柱が立ち上る。これが、ロゼリアの魔法か。
「私は水の竜。炎の竜である貴様は私に勝てぬ。それでもなお、そのちっぽけな小娘を庇うというのか?」
「当然じゃ。」
間髪入れずに即答してくれたヴァーンに、感謝の想いが込み上げる。私は人間なのに、それでも私を守ってくれるんだね。ありがとう、ヴァーン……。
ロゼリアの視線を真っ直ぐに受け止めるヴァーン。その口から、真っ赤な炎が吐き出される。それを跳ね除けるようにロゼリアの周りの水柱が渦を巻く。
不意に、ロゼリアの視線が私の胸元のペンダントに向けられた。
「竜が人の為に身体を削るとは……!」
苦虫を噛み潰したような声でロゼリアが言った。
「可愛い子の為じゃ、そのくらい易いものよ。」
ヴァーンが告げると、ロゼリアは吐き捨てるように呟いた。
「興醒めだ。忌々しい。私の気が変わらぬうちに早々に去ね。」
「ああ。」
ヴァーンは短く答えると、私に背に乗るようにと促し、ばさばさと翼を羽ばたかせて虚空へと舞い上がった。
§§§
三年後。
ヴァーンは相変わらず、ザザン王家の一族たちのこどもの頃の話を好んでした。
何度も聞かされるにつれ、次第に覚えてしまったが、それでも私はヴァーンの話を聞くのが好きだった。
たとえヴァーンが悲しげに見えても、以前のように顔には出さない。ただ、笑って聞くことが、自分に出来る唯一のことだと気づいたのだ。そうするようになってからは、ヴァーンも、満足げに話を終えることが増えてきた。だいぶヴァーンに近づけた。そんなふうに思っていた。
それなのに、ヴァーンは近頃、時折難しい顔をして何かを考え込んでいることが多くなった。
これまで様々な国々を旅してきたが、その度に人と竜との揉め事の噂を聞いた。時には巻き込まれそうになったりもした。
でも、ヴァーンは頑としてどちらの味方もしなかった。
「貴方はいつも、竜の味方も人の味方もしないのね。」
ある時、私はヴァーンにそう言った。大きな街道を二人で並んで歩きながら。
「儂にどちらかの側について欲しいのか?」
ヴァーンが、長い睫毛に縁取られた美しい瞳を私に向ける。
「いいえ。ただ、どうしてかなと思って。貴方は竜なのに、竜の味方をしないのは何故なの?」
「竜は孤高な生き物じゃからな。他者の生き様に口出しするなど無粋というものよ。」
「貴方らしい。ねえ、それならどうしてザザンを庇護していたの?」
「……始まりは、ミシェルの影響じゃったかの。」
「ミシェル?」
「今は亡き、我が伴侶の名じゃ。」
「そう。」
胸がきゅっと締め付けられる。三年経っても、ヴァーンに対する想いは変わらなかった。それどころか、強まるばかりだった。
「ああ。」
つかの間の沈黙の後、ヴァーンがゆっくりと口を開いた。
「ザザン建国の手助けをしてやったのも、最初はほんの気まぐれじゃった。じゃが、短い命を必死に生きる姿がいじらしくてな。つい可愛がりすぎてしもうた。」
ヴァーンは懐かしそうな、悲しそうな、なんとも言えない表情をしている。
私はヴァーンから視線を逸らすと、わざとヴァーンの表情には気付かないふりをして、ヴァーンに呼びかける。
「ねえ、ヴァーン」
「ん?」
「ミシェルと貴方の思い出の土地に行ってみたい。」
この唐突な申し出に、ヴァーンはしばらく黙って何かを考えている様子だったが、やがてふっとため息をついてから口を開いた。
「そうじゃのう。では、久しぶりにあれの墓参りにでもいくとしよう。」
こうして私たちは、一路ヤターシャ公国マヌーレ高原へ向かった。
そこはヴァーンのつがいの竜だった、ミシェル・ヴァール・ドラコーネの故郷だった。
ヤターシャはあまり裕福ではない国だったけれど、マヌーレ高原のすぐそばにある首都ワイラミには大きな神殿があった。
神殿は通常、貴族以外は入れない神聖な場所らしかったけれど、ヴァーンが君主の前で竜の姿に戻り、名を告げると、好きなだけ滞在してくださいと頭を下げられた。
「随分大きな神殿ね。一体何を祀っているの?」
目の前にそびえ立つ、立派な神殿を見上げながら、わたしは感慨深く呟いた。
「ミシェルじゃよ。」
「え?」
思わず横に立つヴァーンを見やると、ヴァーンは神妙な面持ちで神殿を見つめていた。
「ミシェルは人を慈しみ、人の為に死した。」
言いながら、ヴァーンは神殿の中へと足を進める。私は慌ててヴァーンの後を追った。
「人の為に?」
「ああ。ヤターシャ君主の病気の子を救うために生き胆を差し出したのじゃ。」
まさか、竜が人間のこどもひとりを救うために自らその命を投げ出すなんて。
神殿の中はひんやりとしていて、厳かな雰囲気が漂っていた。通路の両脇には、素晴らしい出来栄えの竜の彫刻や、高級そうな壺なんかが置かれていて、なんとなく緊張してしまう。そんな中を、ヴァーンは慣れた様子で歩を進めていく。
奥に進むと、広大な広間に出た。そしてそこには、巨大な骨があった。竜の骨だ。ヤターシャでは今でもミシェルを神と崇め、その亡骸を神殿に祀っていたのだった。
「ミシェルは人の子が大好きでの。我が子のように可愛がっておった。」
ヴァーンはミシェルの頭骨の前でかがみ込むと、その長い角を愛おしそうに撫でる。
「そして、儂を置いて逝ってしもうたのじゃ。」
絞り出されるように紡がれた言葉は、さみしさを隠そうともしない、ヴァーンらしくないものだった。
私は、初めて会った時、「どれだけ歳を重ねても孤独には慣れない」と言っていたヴァーンを思い出した。
あの時は、老竜がひとりはさみしいだなんて、私のためについたやさしい嘘だと思っていた。だけど、今ならあれは嘘ではなかったのだと思える。彼は、本当に孤独だったのだ。そしてそれを埋めようとしていた。そのためにザザンを庇護し、ザザンの人々を愛した。きっと心の底から。
だから、きっと彼も私を必要としていたのだ。私はどこかで、彼を、自分とは違う、遠い存在だと思っていた。でも、そうではなかったのだ。
彼も、私と同じ、孤独を抱えた一個体に過ぎなかったのだ。
そのことに気づいても、私のヴァーンへの気持ちは変わらない。寧ろ、三〇〇〇年も生きた老竜がさみしがり屋だということさえ愛おしい。
彼は本当に人が好きなのだ。人という生き物を根本的に愛しているのだ。
それは彼の弱さかもしれない。そんなところがたまらなく愛おしいのだ。そう感じられる程度には、私も成長したということだろう。
「ヴァーン。」
「なんじゃ?」
「私はずっと貴方のそばに居るわ。」
「……お前は優しい子じゃの。」
ヴァーンが切なげに微笑んだ。
「いつまでも何も知らぬこどもだと思っておったが……人の子は成長が早い。そしていつの日か、儂を置いて逝くのじゃな。」
儚げに、独り言のように呟かれた声は、とても小さかったから、私は自分が竜でないことが、たまらなく悔しくなってしまった。
私は、いつかヴァーンより先に死んでしまうのだ。ずっと一緒に居たいのに。
翌日。
ヤターシャ君主が私たちの歓迎セレモニーを開いてくれた。
それだけ、この国ではミシェルが――ひいてはその伴侶であったヴァ―ンが――大切に扱われている証拠でもあった。
セレモニーは国を挙げて執り行われ、多くの人がワイラミを訪れた。
私にも、花を飾り付けた綺麗な服が贈られて、ワイラミの人々と共に花祭りに参加することになった。
「レイラ様、よくお似合いです。」
着付けを手伝ってくれた、お妃様がにこりと微笑む。
私はお妃様にお礼を言って、ヴァーンの元へと向かう。
「おお、馬子にも衣裳じゃの。」
「……もう。」
「冗談じゃ。良く似合うているぞ。」
「……ありがとう。」
そんなやり取りをする私たちに君主様が声をかける。
「ヴァ―ン様、レイラ様。宜しければお二人も花巫女の舞にご参加を。」
柔らかな笑みをたたえるその顔を見て、私はヴァーンに声をかける。
「ねえ、たまにはこういうのもいいんじゃない?」
ヴァーンは近くの花瓶にささっていた白い花を一輪手に取ると、それを結い上げられた私の髪に刺し、ふっと笑みを落とした。
そして、「行っておいでと」私を促す。
私は神殿の周りを舞い歩く、花巫女さんたちに交じって見様見真似の舞を披露する。
うまく舞えているかは、正直あまり自信がなかったけれど、ヴァーンは楽しそうに竜の姿へと戻り、神殿の上空を旋回し始めた。
やがて夜になると、宮殿に招待されて、晩餐会が始まった。
主菜は新鮮なラム肉のソテーに、季節の野菜。独特な香りをしたスパイスが印象的だ。それに湯気を立てるあたたかなクリームシチュー。デザートにはヤターシャ特産の瑞々しいフルーツの盛り合わせ。
こんな豪華な食事は初めてで、なんだか少し緊張してしまう。場違いのような気がして。
そんな私に、ヴァーンが優しく声をかける。
「さ、早くお食べ。せっかくの料理が冷めてしまうぞ。」
「でも、これって、貴方を歓迎してのことでしょう。私なんかが頂いてもいいのかしら……。」
「何を言うておる。儂への供物であれば、お前が受け取れぬわけがあるまい。」
当然のようにそう言われて、私は胸があたたかくなっていくのを感じる。
ヴァーンの隣が、私の居場所。
それだけは、きっとずっと変わることのない真実だから……。
§§§
一年後。
とうとうポレメの谷のすぐ側の、ブレダの街に着く頃、ヴァーンは私に言った。
「ずっと考えておった。やはり人の子は人の子と共にあるのが一番良い。」
「突然何を言うの? 私もポレメの谷まで一緒に行くわ。私にとっては貴方の傍が一番よ。」
「聞き分けのない子じゃな。いいから、お前はここに残れ。」
「嫌よ!」
私はヴァーンと喧嘩をした。十八年間一緒に過ごして、初めてのことだった。
「理由がわからないわ。納得できない。私はもう、貴方を煩わせるばかりのこどもじゃない! そうでしょう? ヴァーン。」
「だからじゃよ。」
「意味がわからない!」
「レイラ。解っておくれ。これ以上はもう、耐えられそうにない。儂はもう、孤独が心臓を食む音を、一〇〇〇年も聞き続けてきたのじゃから……。」
絞り出すような声でそう言われてはっとする。
思い出すのは、ミシェルの神殿で言われた言葉だった。
「そしていつの日か、儂を置いて逝くのじゃな。」とヴァーンは言った。
今はいい。でも、数十年後は? 数十年後、私が死んだら、ヴァーンはどうなる? 私が死んだあと、ひとり取り残されるヴァーンは、その孤独をどうやって埋めればよいのだろう?
「十八年間、とても楽しかった。レイラ、ここでお別れじゃ。」
その言葉に、私は何も言い返すことが出来なかった。
その夜。
「眠れぬか?」
「うん。」
「いつぞやのように添い寝してやろうか?」
「私、もうそんなにこどもじゃない。」
「そうじゃの。」
「ねえ、少し散歩しない?」
「ああ。良いとも。」
月明かりが、私たちを照らし出す。
胸元のタリスマンに視線を落とすと、あのころと変わらない光が揺れる。
……そう言えば、初めて出会ったあの日もこんな月の綺麗な夜だった。
「あのね、ヴァーン。」
「なんじゃ?」
「私、ヴァーンが好き。」
「レイラ……。」
「わかっているんでしょう? 私、貴方に恋をしているの。」
「……ああ。じゃがな、レイラよ。儂は——」
「何も言わなくていい。全部、わかっているから。」
そう言って、精一杯微笑んでみせる。
わかっている。きっとヴァーンも私と同じ気持ちでいてくれていることを。
だからこそ、私たちはもう、一緒にはいられないのだから。
「そうか……。」
短く答えて、ヴァーンは寂しげに微笑み返した。
竜は何千年もの時を生きるけれど、人は精々百年で死んでしまう。ヴァーンは一人残されることを恐れているのだ。
その後は無言で月明かりを浴びて歩いていた。
「人の子は人の間で暮らすのがよかろう。友を作り、伴侶を得て子を産み、老いていく。それが幸せというものよ。」
ヴァーンが紅い瞳で私を見つめながらふっと切なげな笑みを浮かべる。
「だが、もし……もし、儂の助けが必要になった時はいつでも訪ねておいで。」
最後にそれだけ言って、ヴァーンは朝焼けの空に飛び去って行った。
それから一年、わたしはブレダの街で暮していた。
最初に職を探して、村長の娘の世話係として雇われた。
世話係と言っても、歳が近いこともあり、村長の娘——エリスさんとは何でも気さくに話す友達のような関係だった。
だからわたしは、ついヴァーンのことを話してしまった。
こどもの頃から一緒にいたこと、九年間もふたりで旅をしたこと、みんなみんな話してしまった。
「レイラさんったら、いつもヴァーンのことばかりね。」
なんて、笑われたりもした。
ヴァーンのいない寂しさはあるけれど、それでもこうして親しい友達ができたことはとても嬉しかったし、何より楽しくて、充実していた。
「レイラさんは、ヴァーンに恋をしていらっしゃるのかしら?」
ある日の昼下がり、アフタヌーンティーとブリオッシュを召し上がりながら、不意にエリスさんが私を見つめる。
その視線にどきりとして、私はとっさに嘘をつく。
「……まさか。ヴァ―ンは竜で、私は人間ですもの。恋なんて、そんな感情、抱くはずがありませんわ!」
「あら、そうなのかしら? では、貴女に縁談を勧めても宜しくて?」
「縁談……?」
「ええ。貴方、私にとても良くなさってくれているから。従兄のジョセフが、貴女を気に入ったんですって。」
「……少し、考えさせてください。」
「ええ。とても大切なことですから、ゆっくりお考えになって。」
その夜、私はひとりの部屋の中で考えた。
あの日から肌身離さず持っていた紅いタリスマンを握りしめながら。
こんないい話は他にはない。捨て子で、それも異国から来た私と結婚を考えてくれえる人なんて、きっとこの先もう現れないだろう。でも……。
……昔なら、迷ったときはいつだってヴァ―ンが導いてくれたのに、と考えて思わず苦笑してしまう。
たったひとつの鱗から、ヴァーンは私にお守りを作ってくれた。
このタリスマンには、たしかに彼のぬくもりがある。
私が大人になっても、どれだけ歳月を経ても、私を守るように寄り添ってくれる。
……けれど、それはきっと、彼が私の傍にいなくなる日が来るからだ。そう思った瞬間、胸がぎゅっと痛んだ。
あの旅路の日々が、いくつも、いくつも心をよぎる。焚き火の夜、串焼きを頬張った商人の街。魔具を覗き込んでヴァーンにたずねた幼い声。高熱に倒れたとき、添い寝してくれたヴァーンのぬくもり。花祭りの日に楽しそうに飛んでいたその姿。
そして——あの月夜の告白。
「……あの時から、何も変わってなんかいない。」
私はそっとタリスマンを握りしめた。
私は結局、今だってヴァ―ンのことを考えているのだから。
こんな気持ちのまま結婚するなんて、相手に失礼だろう。
ヴァーンだって、そんな人の好意を踏みにじるようなことは望まないはずだ。
……本当に? ヴァ―ンは私が人として幸せに暮らすことを望んでくれた。
そうであれば、結婚をして、人と添い遂げることが彼の想いに報いることになるのではないか? いや、けれど……。
何をどう考えても、行きつく先は、ヴァーンのことでいっぱいになる。
ああ、私はやっぱりヴァ―ンのことを……――
堂々巡りはやむこともなく、結局一睡もできないまま朝がきてしまった。
私はいそいそと着替えを済ませて、自分の部屋を出ると、朝食の支度を整えて、エリスさんの部屋に向かった。
「エリスさん、おはようございます。」
声をかけても返事がない。
まだお休みなのかしら? いつも早起きの方なのに珍しい。
「……エリスさん、失礼します。」
そう言って、そっと部屋のドアを開けると、ベッドに横たわるエリスさんが荒い呼吸をしていることに気付く。
「……エリスさん、大丈夫ですか? エリスさん……!」
呼びかけても返事はなく、その顔は真っ赤に染まり、素人目にも高熱に浮かされているのが見て取れた。
私は慌てて村長にエリスさんの容体を告げ、医者を呼んでもらう。
診断の結果、エリスさんは流行り病に侵されていることがわかり、命の危機に瀕していることが伝えられた。
数日たっても、エリスさんの容体は一向に良くなる気配がない。
それどころか、死んでしまいそうな彼女を見て、いつかヴァーンが自分にしてくれたように薬草を飲ませれば治るのではないかと思った私は、ヴァーンの元へ向かう決意をした。
こっそりと村長の家を出ると、ポレメの谷へと歩を進める。
——久しぶりにヴァーンに会える。
この期に及んで、そんな浅はかな期待をしながら、小一時間ほど歩いた頃、ザザンの竜の谷によく似た断崖にたどり着く。
「ヴァーン、私よ。お願いがあるの。」
「レイラか。久しいのう。」
懐かしい声と共に、大きな深紅の身体が断崖から浮上してくる。
……ああ、ヴァーン!
けれど、感慨にふける間もなく、ヴァーンが苦々しい声を漏らす。
「——それにしても、随分と大人数で訪ねてきたものじゃ。」
「え?」
気がつくと、私たちは武装した大勢の村人たちに取り囲まれていた。
エリスさんが、私とヴァーンのことをみんなに話してしまっていたに違いない。
「妙な真似をすれば、この娘を殺す。」
「レイラ!」
「ごめんなさい、ヴァーン。私、まさかこんなことになるなんて……!」
「その愚かしさも、全てを赦そう。我が愛し子よ。」
村長の率いる魔術師たちはみな、腕利きだった。相当お金を積んだのだろう。彼らは濃紺色の装飾品で身を固め、竜の骨で作られているらしい杖を持っていた。その装飾品の色味は、ロゼリアの鱗を思わせた。
魔術師たちがヴァーンの周りに集まり、杖をかざすと、周囲に水柱が立ち昇る。水の結界だ。
ヴァーンは身動きが取れずに、苦しそうに呻く。
「く……。」
「これでもう動けまい。殺れ!」
四方から、ヴァーンめがけて槍が突きつけられる
私が駆け出そうとしたその瞬間、村人の一人が慌てて叫んだ。
「そいつを止めろ!」
ざわつく空気の中、私は一歩、一歩と足を踏み出す。震える膝を無理やり動かして、それでも、ヴァーンの元へ。
タリスマンの魔力が私の中を巡っていくのがわかる。
彼が私のために削った鱗、その輝きが、今も胸の中で静かに燃えている。
ふと、あの旅路の日々が脳裏をよぎった。
風を切って飛んだ空の匂い。
野宿した夜の焚き火のぬくもり。
手を引いてくれた掌の優しさ。
ヴァーンの背中はいつだって、世界で一番あたたかくて、心強かった。
「ねえ、ヴァーン……」
かすれた声が、気付けば漏れていた。
「やっと、あなたと……同じところに行ける気がするの」
私は駆け出す。誰かの叫びが背後から聞こえる。
「止めろ! 奴もろとも焼かれるぞ!」
そんなこと、どうでもよかった。
私の視界に映るのは、ただあの深紅の竜、愛しき竜の姿だけ。
竜に恋し私が、竜のもとに還る。
それが、たとえ世界のすべてを敵に回してでも……望んだ結末だったのだから。
ヴァーンが血に濡れながらも、必死に私を見ていた。
その目に、光が戻っていくのがわかった。
「レイラ……お前が……」
私は彼の前足に身を委ね、すっと目を閉じた。
「もう、ひとりにしないよ。」
——世界が、紅に染まる。
「ヴァーン!」
わたしは胸元のタリスマンを使い、押さえていた男を振り払って、ヴァーンの元へと走り寄る。
そして、ヴァーンの大きな顔に抱きついた。
「ああ、ヴァーン!ヴァーン!」
「くそ、この女……!」
わたしの胸にも剣が刺される。
胸が、痛い。
「レイラレイラレイラレイラ……!」
ヴァーンが結界を振り払い、呪いのような咆哮をあげると、飛び散った彼の血に触れた者たちは酸を被ったかのように身体が焼けてしまった。
「レイラ……。儂が間違っておった。お前を我が元から離さねば良かったのだ。」
深紅の瞳が私を捕らえて離さない。
「——あの時の答えを今、伝えておきたい 。聞いてくれるか?」
「うん……。」
「レイラ……。お前を、愛しておる。」
喧騒がどこか遠く聞こえて、私の耳に残るのは、愛しい彼が告げる愛の言葉だけ。
「これで良かったのよ。これでずっと一緒だわ。」
「ああ、レイラ……。」
血に染まる胸を見ながら、私は何故だか少し安心していた。
貴方もこんな痛みを感じているのだろうか?
私も、貴方と同じところへ逝けるだろうか?
私は微笑み、ヴァーンの大きな口にそっと唇を重ねた……——




