婚約者は親友と駆け落ちした。次期伯爵だと思われた婚外子の俺は全てを失ったが、父の遺書が真実を語った
伯爵領の朝は早い。
まだ日も昇り切らぬ訓練場に、金属のぶつかる音が響いていた。
カンッ!
カンッ!
カンッ!
鋭い剣戟。
互いに一歩も譲らない攻防。
激しく打ち合う二人の青年を、使用人たちは遠巻きに眺めていた。
「また始まったな」
「毎朝飽きませんねえ」
「どっちが勝ってるんだ?」
「さあな」
誰も答えられない。
なぜなら。
本当に互角だからだ。
伯爵家嫡男。
レオンハルト・グランディア。
金髪碧眼の美青年。
女性関係は派手。
座学はそこそこ。
遊びも大好き。
だが剣だけは違った。
誰より努力し。
誰より強い。
次期当主として期待される青年だった。
そして。
その剣を真正面から受け止める男がいた。
「甘いぞ、レオン」
「そっちこそ!」
ガキィン!
火花が散る。
黒髪の青年。
アレング・グランディア。
伯爵の婚外子だった。
愛人の子。
正式な家族ではない。
だが伯爵は認知していた。
屋敷に住み。
教育を受け。
嫡男と共に育った。
ただし立場だけは違う。
誰も口には出さない。
しかし皆知っている。
伯爵家を継ぐのはレオンハルトだ。
アレンではない。
だからこそアレンは努力した。
必死だった。
誰よりも。
認められたかった。
剣だけは負けたくなかった。
剣だけが自分の価値だと思っていた。
「はあっ!」
レオンの一撃を受け流し。
アレンが踏み込む。
だがレオンも読んでいる。
避ける。
斬る。
受ける。
弾く。
互いに譲らない。
そして。
「そこまで」
低い声が響いた。
二人が同時に動きを止める。
訓練場の入口。
伯爵が立っていた。
以前より明らかに痩せている。
顔色も悪い。
最近は咳も増えた。
「父上」
「伯爵様」
二人が頭を下げる。
伯爵は苦笑した。
「まったく。毎日毎日飽きないな」
「負けられませんから」
「そうか」
その笑顔が少し寂しげだったことに。
この時誰も気付かなかった。
その日の夜。
屋敷は騒然となった。
伯爵が倒れたのである。
魔物討伐の際に受けた傷。
そこから毒が回っていた。
治癒魔法も効かない。
高位神官も首を振った。
余命三か月。
突然の宣告だった。
それからの日々は慌ただしかった。
家臣たちは奔走。
領地も騒ぐ。
誰もが考える。
次の当主を。
そして答えは一つだった。
レオンハルト。
嫡男。
伯爵家の正統後継者。
当然である。
誰も疑わない。
アレン自身もそう思っていた。
レオンもそう思っていた。
伯爵もきっとそうだろうと。
一か月後。
大広間。
主要家臣が集められた。
空気は重い。
玉座に座る伯爵は以前よりさらに痩せている。
しかし瞳だけは鋭かった。
「皆、集まってくれて感謝する」
伯爵が立ち上がる。
ざわめきが止まる。
「私はもう長くない」
誰も反論しない。
できない。
「ゆえに本日、一つ決定を下す」
レオンが背筋を伸ばす。
家臣たちも緊張する。
誰もがその言葉を待っていた。
次期当主。
その発表を。
だが。
伯爵の口から出た名前は。
「アレン」
「……は?」
「何をしている。アレン!アレン・グランディア!」
「は、はいっ!」
思わず本人が声を漏らした。
伯爵は続ける。
「本日付でアレンを当主代理に任命する」
静寂。
完全な静寂。
誰も理解できない。
当主代理。
アレンが。
婚外子のアレンが。
レオンではなく。
アレンが。
家臣たちの顔色が変わる。
レオンも固まっていた。
アレン自身も何を言われたのかわからない。
「伯爵様、それは――」
「決定だ」
伯爵が遮る。
そしてアレンを見る。
まっすぐに。
「任せたぞ」
その一言だけだった。
◇
会議終了後。
屋敷中が大騒ぎになった。
「当主代理だと?」
「つまり後継者か」
「レオン様ではなく?」
「まさか……」
噂が飛び交う。
尾ひれがつく。
瞬く間に領内へ広がっていく。
次期当主はアレン。
伯爵は嫡男を見限った。
婚外子が後を継ぐ。
誰もがそう判断した。
誰一人。
伯爵が口にしたのは。
"当主代理"だけだということを。
気にも留めなかった。
窓の外では夕日が沈み始めている。
アレンは一人。
執務室で任命書を見つめていた。
胸騒ぎが消えない。
そして。
その頃。
レオンは誰もいない中庭で。
初めて拳を震わせていた。
父に認められなかったかもしれないという恐怖と共に。
静かに。
本当に静かに。
何かが壊れ始めていた。
アレンが当主代理となってから一か月。
屋敷の空気は目に見えて変わっていた。
いや。
変わったのは空気ではない。
人々の視線だった。
「アレン様」
「こちらの決裁を」
「こちらもご確認を」
「領軍の件ですが」
次から次へと仕事が押し寄せる。
朝から晩まで書類。
視察。
会議。
家臣との面談。
訓練。
そしてまた仕事。
息をつく暇もない。
だがアレンは弱音を吐かなかった。
吐ける立場ではなかった。
婚外子である自分が任されたのだ。
結果を出さなければならない。
認められなければならない。
失敗は許されない。
誰よりも。
誰よりも。
努力しなければ。
「アレン」
執務室を出たところで呼び止められた。
振り返る。
レオンだった。
以前と変わらない笑顔。
だがどこかぎこちない。
「どうした」
「いや。少し話でもと思ってな」
「すまない。次の会議がある」
「ああ」
レオンが笑う。
「忙しいよな」
「……悪い」
「気にするな」
そう言って去っていく。
アレンは少しだけ胸が痛んだ。
昔なら。
こんなことはなかった。
訓練して。
飯を食って。
馬鹿話をして。
笑っていた。
親友だった。
今もそう思っている。
だが。
気付けば顔を合わせる回数も減っていた。
「最近、元気がないわね」
そう声を掛けたのはアレンの婚約者だった。
幼なじみ。
エミリア。
小さな頃から共に育った少女。
アレンが婚外子として陰口を叩かれていた頃も。
変わらず隣にいてくれた。
「そう見えるか」
「見えるわよ。何年一緒にいると思ってるの?」
庭園のベンチ。
久しぶりの時間だった。
エミリアは少しだけ嬉しそうだった。
「無理してない?」
「していない」
「嘘よ」
即答だった。
「だって顔色が悪いんだもん」
「そうか」
「食事は?」
「取っている」
「睡眠は?」
「……取っている」
「また。それも嘘」
見抜かれた。
アレンは苦笑する。
昔から彼女には敵わない。
だが。
その会話も長く続かなかった。
「アレン様!」
家臣が走ってくる。
「緊急の報告が!」
「分かった」
立ち上がる。
「もう行くの?」
エミリアが尋ねる。
少しだけ寂しそうに。
「すまない」
「……んーん、引き留めてごめんね。行ってらっしゃい」
彼女は笑った。
優しく。
いつものように。
だがその笑顔の奥にあった感情に。
アレンは気付かなかった。
一方。
レオンは日に日に追い詰められていた。
「おや、レオン様」
「……ああ」
「最近お暇そうで羨ましいですね」
家臣の一言。
悪意はない。
だが刺さる。
「当主代理は忙しそうですから」
「……」
「さすが伯爵様のお眼鏡にかなっただけあります」
笑顔。
悪意のない笑顔。
だからこそ痛い。
町へ出れば。
「アレン様は立派だ」
「若いのに大したものだ」
「次の伯爵様も安泰だな」
そんな声が聞こえる。
誰もレオンを見ない。
誰も。
何も言わない。
だから余計に苦しい。
夜。
訓練場。
レオンは一人で剣を振っていた。
何度も。
何度も。
何度も。
汗が飛ぶ。
息が切れる。
それでも止めない。
昔なら。
隣にアレンがいた。
競い合った。
笑った。
負けて悔しがった。
勝って喜んだ。
だが今はいない。
誰もいない。
「くそっ……!」
剣を振る。
振る。
振る。
そして。
初めて。
心の奥底に黒い感情が生まれた。
嫉妬だった。
「大丈夫ですか?」
その声がした。
振り返る。
エミリアだった。
「こんな時間に何してる」
「散歩です」
「嘘だな」
「そうですね」
少し笑う。
レオンも苦笑した。
昔から彼女はこうだ。
「アレンを探していたのか?」
「……少し」
沈黙。
そして。
「忙しいみたいですね」
エミリアが呟く。
「そうだな」
「最近全然話せません」
「そうか」
「昔は違ったんですけどね」
寂しそうな声。
レオンは何も言えなかった。
自分も同じだったから。
それから少しずつ。
二人は話すようになった。
最初は偶然。
次は挨拶。
そして世間話。
気付けば自然になっていた。
どちらも孤独だった。
だからかもしれない。
一方でアレンは。
何も知らない。
朝から仕事。
昼も仕事。
夜も仕事。
そして訓練。
ただ前を向いていた。
必死だった。
認められたかった。
伯爵の期待に応えたかった。
それだけだった。
そんなある日。
伯爵に呼び出された。
病室だった。
以前よりさらに痩せている。
死が近いことは誰の目にも明らかだった。
「アレン」
「はい」
「疲れているな」
「問題ありません」
「そうか」
伯爵は小さく笑う。
そして窓の外を見る。
夕日が差し込んでいた。
「大切なものを見失うな」
「……?」
「いや」
伯爵は首を振る。
「忘れてくれ」
それ以上は何も言わなかった。
病室を出たアレンは首を傾げた。
意味が分からなかった。
だから考えるのをやめた。
やるべき仕事がある。
訓練もしなければならない。
立ち止まっている暇はない。
その夜。
レオンとエミリアは屋敷の外れにいた。
星空の下。
並んで座る。
どちらも何も言わない。
だが不思議と心地良かった。
「……俺は」
レオンが呟く。
「父上に必要とされてないのかもしれない」
初めて漏らした本音だった。
エミリアは黙って聞く。
「馬鹿だろ」
レオンが笑う。
「こんなこと言うなんて」
「そんなことありません」
「あるさ」
「ありません」
きっぱりと言った。
レオンが驚く。
そして。
エミリアは少しだけ俯いた。
「必要とされないのは……つらいですから」
「エミリア……」
その言葉に。
レオンは何も返せなかった。
ただ。
二人の距離だけが。
少しずつ。
本当に少しずつ。
近付いていった。
冬が訪れようとしていた。
伯爵の容態は日に日に悪化していた。
医師も。
神官も。
もう何も言わない。
言う必要がなかった。
誰もが分かっていたからだ。
終わりが近いことを。
アレンは病室を訪れていた。
「失礼します」
返事はない。
眠っている。
細くなった腕。
深く刻まれた皺。
かつて巨大に見えた背中はもうない。
ただの老人だった。
死を待つだけの。
「……」
アレンは椅子に座る。
何か言いたかった。
感謝を。
恩を。
伝えたかった。
だが言葉が出てこない。
代わりに。
「必ず領地を守ります」
そう口にしていた。
伯爵は目を閉じたまま。
小さく笑った気がした。
病室を出る。
廊下の先。
レオンが立っていた。
「見舞いか」
「ああ」
短いやり取り。
昔ならもっと話した。
だが今は続かない。
「父上も喜ぶ」
「……そうだな」
レオンが笑う。
だが目は笑っていなかった。
その夜。
アレンは執務室で倒れた。
机に突っ伏したまま眠ってしまったのである。
家臣に起こされるまで気付かなかった。
「少し休んでください」
「問題ない」
「あります」
「ない」
「あります」
押し問答。
最後は強制的に寝室へ送られた。
翌朝。
アレンはエミリアを探した。
ふと思い出したのだ。
最近まともに話していないことを。
だが部屋にいない。
庭にもいない。
屋敷にもいない。
侍女に聞く。
「エミリアですか?」
「ああ」
「最近はよく外出されています」
「そうなのか」
「レオン様と」
アレンは頷いた。
不思議と何も思わなかった。
親友と婚約者。
二人とも大切な存在。
仲が良いのは良いことだ。
本当にそう思った。
三日後。
伯爵が死んだ。
鐘が鳴る。
何度も。
何度も。
領地中へ響く。
領民たちが祈る。
兵士が黙礼する。
使用人たちが泣く。
誰からも慕われた領主だった。
葬儀の日。
アレンは一睡もしていなかった。
喪主として。
当主代理として。
全てを取り仕切る。
涙を流す暇すらない。
棺が運ばれる。
花が供えられる。
別れの言葉が続く。
そして。
アレンはふと気付いた。
レオンがいない。
「レオンはどこだ?」
誰も知らない。
「エミリアは?」
誰も知らない。
嫌な予感がした。
葬儀終了後。
アレンは屋敷へ戻った。
そこで。
一通の手紙を受け取る。
封を切る。
見覚えのある字だった。
『アレンへ
ごめんなさい』
その一文で理解した。
手紙を握る手が震える。
続きを読む。
『私は弱い人間でした。
ずっと寂しかった。
あなたを支えたいと思っていました。
でも。
あなたはどんどん遠くへ行ってしまった。
私を見てくれなかった。
何度も話そうと思いました。
何度も待ちました。
でも。
最後まで言えませんでした。
レオン様は話を聞いてくれました。
笑ってくれました。
泣いた時は隣にいてくれました。
最低だと思います。
分かっています。
でも。
もう戻れません。
私のお腹には。
この人の子供がいます。
ごめんなさい。
本当にごめんなさい。
どうか幸せになってください。
エミリア』
手紙が落ちた。
何も考えられない。
頭が真っ白だった。
妊娠。
レオンの子。
駆け落ち。
理解はできる。
だが理解したくなかった。
その場に崩れ落ちる。
「アレン様!」
家臣たちが駆け寄る。
声が聞こえる。
だが届かない。
なぜだ。
なぜ。
なぜ。
なぜ。
剣を振った。
努力した。
認められたかった。
必死だった。
それだけだった。
それだけだったのに。
気付けば。
何も残っていなかった。
伯爵は死んだ。
親友は消えた。
婚約者も消えた。
何も知らなかったのは。
自分だけだった。
夜。
誰もいない訓練場。
アレンは一人で剣を握っていた。
昔と同じ場所。
昔と同じ剣。
だが。
隣には誰もいない。
振る。
振る。
振る。
何百回も。
何千回も。
血が滲んでも止めない。
そして。
突然。
笑いが込み上げた。
「はは……」
笑う。
笑う。
笑う。
涙が止まらない。
「そうか……」
ようやく分かった。
自分は。
伯爵に認められたかった。
レオンに負けたくなかった。
強くなりたかった。
そのことばかり考えていた。
エミリアが何を考えていたのか。
レオンがどれだけ苦しんでいたのか。
何一つ見ていなかった。
ただ前だけ見ていた。
だから。
全部失った。
夜空を見上げる。
星が滲む。
泣いているのか。
笑っているのか。
もう分からなかった。
その頃。
遥か遠く。
領地を離れた街道で。
馬車が一台走っていた。
レオンは眠るエミリアを見つめる。
その手は震えていた。
「俺は……」
呟く。
だが続きは出ない。
父を裏切った。
親友を裏切った。
全てを捨てた。
それでも。
彼女のお腹には命がいる。
もう戻れない。
馬車は闇の中へ消えていく。
そして。
伯爵の葬儀から七日後。
家臣団が集められた。
故伯爵が残した遺書を開封するために。
誰も知らない。
その遺書が。
全てを覆すことになるとは。
遺書の開封は伯爵家の会議室で行われた。
重苦しい空気が漂っている。
長机を囲む家臣たち。
皆、疲れた顔をしていた。
伯爵の死。
嫡男の失踪。
そして当主不在。
領地は表向き落ち着いているが、内側は決して穏やかではない。
その中心に座るアレンもまた同じだった。
いや。
誰よりも疲れていた。
七日。
たった七日。
だが彼にとっては数年にも感じられた。
執事が一通の封書を取り出した。
伯爵の印章。
間違いなく本人のもの。
「旦那様より預かっております」
静かに封が切られる。
執事が読み上げた。
『我が死後、この手紙を開封せよ』
誰も口を開かない。
『まず最初に伝える』
『私は後継者を指名していない』
会議室が凍り付いた。
「な……」
「は?」
家臣たちが顔を見合わせる。
アレンも目を見開いた。
後継者を指名していない?
だが。
自分は当主代理に任命された。
次の瞬間。
執事が続きを読む。
『私が任命したのは当主代理である。
後継者ではない。
伯爵でもない。
代理である』
沈黙。
誰も何も言えない。
『おそらく多くの者が勘違いしただろう。
アレンを後継者に選んだと。
だが違う。
私は誰も選んでいない』
アレンの手が震えた。
では。
あの日。
あれは何だったのだ。
レオンが苦しみ。
周囲が騒ぎ。
全ての始まりとなったあの日は。
『レオンもアレンも優秀だ。
だがどちらも未熟である』
家臣たちが静かに聞いている。
『レオンには人を惹きつける力がある。
人の痛みに気付ける。
そして自然と人が集まる。
あれは私にはなかった才能だ』
アレンは初めて知った。
伯爵がそんな風にレオンを評価していたことを。
『アレンには責任感がある。
己を削り、役目を果たす。
決して逃げない。
それは領主に必要な資質だ』
執事の声だけが響く。
『だが、二人とも欠けている。
レオンは感情に流される。
アレンは人に頼らず自分で解決しようとする』
伯爵の言葉はアレンの胸に突き刺さった。
伯爵の病室。
最後の言葉。
大切なものを見失うな。
あれは。
このことだったのか。
『私は五年の猶予を与えるつもりだった。
アレンを代理とし。
レオンには学ばせる。
五年後、家臣と領民が認めた者を当主にする予定だった』
ざわめきが起きた。
つまり。
誰も見捨てられていなかった。
誰も選ばれていなかった。
全ては途中だったのだ。
『レオンへ』
そこで執事の声が少しだけ震えた。
『お前は私の誇りだ』
アレンが目を閉じる。
『お前が生まれた日を今も覚えている。
私はお前を愛している。
誰よりも』
会議室が静まり返る。
『だからこそ急いで当主にしたくなかった。
私の死があと十年遅ければ。
私は迷わずお前を選んでいただろう。
だがお前はまだ若い。
焦るな、学べ。
アレンを恨むな。
そしていつか私を超えろ』
アレンは唇を噛んだ。
レオンは。
この言葉を聞けなかった。
聞いていたら。
違った未来があったのだろうか。
そんな考えがよぎる。
『アレンへ』
呼ばれた。
『お前も私の誇りだ』
目を見開く。
『血筋だけならお前は決して恵まれていない、婚外子だ。
だが私はお前をレオンの兄弟として見ていた。
お前は気付いていなかっただろうが、私はずっと誇らしかった』
涙が落ちた。
止まらない。
『だが一つだけ言う。
お前は人を見ろ。
剣だけを見るな。
仕事だけを見るな。
数字だけを見るな。
お前は人を見ろ。
そうすればお前は立派なリーダーになれる。
そしてレオンを支えてやって欲しい。いや、支え合って欲しい。』
アレンは俯いた。
全部……失ってから気付いた。
伯爵は最初から分かっていたのだ。
自分の欠点を。
だからあの日、忠告した。
だが、自分は聞かなかった。
聞けなかった。
前しか見ていなかったから。
最後の一文が読まれる。
『二人ともお互いを失うな。
それが領主として………父としての最後の願いである』
遺書は終わった。
長い沈黙が流れる。
誰も話せない。
あまりにも遅すぎたからだ。
全てを知るには。
あまりにも。
その夜。
アレンは一人で伯爵の墓を訪れた。
月明かり。
冷たい風。
墓石の前に立つ。
しばらく何も言えなかった。
そして。
「申し訳ありません」
ぽつりと呟く。
「俺は何も見えていませんでした」
笑う。
情けなくて。
惨めで。
笑うしかなかった。
「でも」
空を見上げる。
「領地は守ります。……約束します!」
伯爵の返事はない。
当たり前だ。
もういない。
それでも。
どこか安心した気がした。
それから五年。
領地は発展した。
農地は広がり。
街は賑わい。
人々は笑っていた。
アレンは正式に伯爵となっていた。
だが。
執務机の引き出しには今も遺書がある。
そしてある日。
一枚の報告書が届いた。
遠方の村。
住民名簿。
そこに見覚えのある名前があった。
レオン。
エミリア。
そして。
二人の子供の名前。
アレンは静かに目を閉じた。
昔なら探しに行ったかもしれない。
怒ったかもしれない。
憎んだかもしれない。
だが今は違う。
報告書を閉じる。
そして小さく笑った。
「元気なら……それでいい」
窓の外では子供たちの笑い声が聞こえる。
アレンは席を立った。
もう剣だけを見る男ではない。
人を見る。
領民を見る。
未来を見る。
伯爵が望んだように静かに歩き出す。
その背中を照らす夕日は。
どこか優しかった。
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