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「ズボンなんて履いている女性を妻にするわけがない」と婚約破棄された令嬢ですが、私が去った後の侯爵家が崩壊していくのを眺めながら、隣国の王子様と幸せになります

作者: uta
掲載日:2026/03/11

第一章 断罪の夜、硝子の仮面


「ズボンなんて履いている女性を妻にするわけがないだろう。君との婚約は今日限りだ」


侯爵邸の大広間に、エドワードの声が高らかに響き渡った。


シャンデリアの光が数百の宝石を煌めかせ、社交界の名士たちが息を呑む。私——リーネ・フォン・ヴァイスフェルトは、その視線の中心に立っていた。


(ああ、やっと来たのね)


不思議と心は凪いでいた。七年間。二千五百五十五日。その全てが、たった一着のズボンで否定される瞬間。なのに私の胸に去来したのは、悲しみではなく——Loss奇妙な解放感だった。


「やっと分かってくださったのですね、エドワード様」


エドワードの隣で、ソフィア・メイベル・リントンが勝ち誇った笑みを浮かべている。淡い桃色のドレス、完璧に巻かれた蜂蜜色の髪、そして見下すような青い瞳。絵に描いたような「淑女」がそこにいた。


「淑女とはかくあるべきですのに。視察先でズボンだなんて、侯爵家の恥ですわ」


——恥。


その一言が、私の七年間を要約するらしい。


三つの赤字領地を黒字化させたこと。十二カ国との貿易交渉を陰で支えたこと。百四十七冊の財務帳簿を独自の暗号で管理し、五カ国語で書簡を書き続けたこと。全ては「恥」の一言で塗り潰される。


(馬に乗り、泥濘の道を歩き、農民と共に畑を見て回るために選んだズボンだったのに)


私は静かに左手を持ち上げた。


婚約指輪——エドワードから贈られた青い宝石が、シャンデリアの光を受けて冷たく輝く。七年前、「君を幸せにする」と言われて嵌められた指輪。今となっては、枷でしかなかった。


するり、と指輪を外す。


「七年間、お世話になりました」


私は微笑んだ。完璧な淑女の微笑みを。この七年で嫌というほど身につけた、感情を殺す仮面を。


「どうぞお幸せに」


エドワードの手に指輪を押し付け、踵を返す。


「待て、リーネ」


背後から声がかかった。


「帳簿の引き継ぎは——」


私は振り返らずに答えた。


「百四十七冊の帳簿でしたら、全て書庫にございます。お読みになれば宜しいかと」


「読めばいいだと? あの暗号のような数字の羅列を——」


「暗号……ああ、そうでしたわね」


私はゆっくりと振り返り、ソフィアに視線を向けた。


「ソフィア様なら、きっとすぐに解読してくださいますわ。淑女でいらっしゃいますもの」


「な……帳簿ですって? 私が?」


ソフィアの顔が引きつる。


「ええ。来月には十二カ国との貿易契約の更新もございますし、五カ国語での書簡対応もございますわね。ラヴェンナ商会は古アルカディア語でなければ契約書を受け付けませんし、フィレンツェ織物組合は独特の商業用語を使いますの」


「五カ国語……?」


エドワードが呆然と呟いた。


「お前、そんなことまで——」


「ご存じなかったのですか? 七年間、ずっとお傍におりましたのに」


私の声は、自分でも驚くほど平坦だった。


(知らなかったのね。当然だわ。あなたは一度も、私の仕事を見ようとしなかった)


群衆が左右に割れた。哀れみ、嘲笑、好奇——様々な視線が背中に突き刺さる。けれど私は振り返らない。涙も見せない。


(泣いてなんかやるものですか)


大広間の扉に向かって歩きながら、私はひとつだけ誓った。


もう誰かのために自分を殺すのは終わり。


扉の脇に、見慣れない青年が立っていた。黒髪に深緑の瞳。精悍な顔立ちの中に、知性と——なぜか、興味深げな光が宿っている。


一瞬だけ視線が交わった。


彼は小さく目を細め、まるで品定めするように私を見つめていた。


「あの女性が、噂に聞く『影の宰相』か」


低い呟きが耳を掠めた。けれど私は足を止めなかった。


今夜、リーネ・フォン・ヴァイスフェルトの七年間は終わった。


明日から生まれ変わる私が、どんな姿をしているのか——それはまだ、私自身にも分からなかった。



第二章 七年の残像


馬車の中で、ようやく仮面が剥がれ落ちた。


「お嬢様……」


向かいの席で、マーサが目を潤ませている。私付きの侍女頭。十七年間、誰よりも近くで私を見守ってきた女性。


「泣かないで、マーサ」


私は窓の外に目を向けた。夜の街並みが流れていく。侯爵邸の明かりが、どんどん小さくなっていく。


「お嬢様こそ……泣いてもよろしいのですよ」


「泣く?」


思わず苦笑が漏れた。


「何を悲しめばいいのかしら。七年間、私は——」


言葉が途切れる。


七年間、私は何だったのだろう。


婚約者? 違う。私はエドワードの傍らに立つ飾りではなかった。


財務官? 経営顧問? 外交補佐? そのどれもが正しく、そのどれもが正式な肩書きではなかった。


十七歳で婚約し、十八歳で侯爵家の帳簿の矛盾に気づいた。誰も手をつけられなかった赤字領地の立て直しを買って出たのは十九歳。二十一歳で最初の貿易交渉をまとめ、二十三歳で十二カ国との取引網を完成させた。


全ては「婚約者として」という名目で。


正式な報酬も、肩書きも、感謝の言葉すらなく。


「あの帳簿を読めるのは、お嬢様だけでございます」


マーサが静かに言った。


「百四十七冊。全て独自の暗号で記録されておいでです。解読できる者は侯爵家にはおりません」


「……そうね」


私は小さく頷いた。


暗号化は意図的だった。いつかこんな日が来ると、どこかで予感していたのかもしれない。私がいなくなれば、あの帳簿は単なる意味不明の数字の羅列になる。


「十二カ国の大使が、お嬢様を名指しで信頼しておいででした。『リーネ嬢との約束なら』と、どれほどの契約が結ばれたことか」


「マーサ」


「はい」


「それを言っても、もう意味がないわ」


窓の外、月が雲間から顔を出した。


エドワードは知らないのだ。自分が何を捨てたのか。ソフィアの讒言を真に受けて、「ズボンを履く女」を切り捨てることが、どんな結果を招くのか。


(三ヶ月)


私は心の中で計算した。


次の四半期決算まで三ヶ月。貿易契約の更新時期まで三ヶ月。それまでに私の暗号を解読できなければ——侯爵家は全ての取引先を失う。


「お嬢様は、お優しすぎました」


マーサの声が震えていた。


「あの方は……エドワード様は、お嬢様の本当の価値も知らずに」


「知らなくていいのよ」


私は目を閉じた。


知らないまま、思い知ればいい。


——それが、七年間を「恥」と呼ばれた私の、ささやかな復讐。



馬車が子爵領の屋敷に着いたのは、夜明け前だった。


「リーネ」


玄関で父が待っていた。ギルバート・フォン・ヴァイスフェルト子爵。穏やかな灰色の瞳に、深い悲しみと——怒りが滲んでいる。


「すまなかった」


父は頭を下げた。子爵が、娘に頭を下げた。


「父様……」


「お前の才覚を活かしてやれなかった。あんな男に差し出してしまった。全て、私の不明だ」


「顔を上げてください」


私は父の肩に手を置いた。


「私は——大丈夫です。もう、大丈夫ですから」


父が顔を上げる。その目に、私の決意を読み取ったのだろう。


「何をするつもりだ?」


「この領地を変えます」


私は微笑んだ。今度は仮面ではなく、本当の笑みを。


「ズボンを履いて、畑に出ます。農地を改革します。女性でも働きやすい環境を作ります。——私のやり方で」


父は長い沈黙の後、深く頷いた。


「お前の好きなようにやりなさい」


その言葉が、七年ぶりに私の心を解きほぐした。



第三章 土の上の再出発


婚約破棄から二週間。


私は麦畑の真ん中に立っていた。


亜麻色の髪を実用的な三つ編みにまとめ、丈夫な生地のブラウスに、膝までのブーツ。そしてもちろん——ズボン。


風が麦の穂を揺らす。黄金色の波が視界いっぱいに広がる光景は、侯爵邸の煌びやかなシャンデリアよりもずっと美しかった。


「お嬢様、本日の視察予定地はあと三箇所でございます」


マーサが帳面を片手に報告する。彼女もまた、動きやすい服装に身を包んでいた。スカートではなく、私が新たに導入した女性用の作業着——膝丈のキュロットに、丈夫な生地のブラウス。


「北の区画の灌漑状況と、東の新品種試験区、それから——」


「西の開墾地ね」


私は頷き、手元の地図に視線を落とした。


子爵領は決して裕福ではない。だが、可能性はある。土壌の質、水源の位置、労働力の配分——全てを最適化すれば、三年で収穫量を一・五倍にできる。


「リーネ様!」


畑の向こうから、農夫のひとりが駆けてきた。日に焼けた顔に、人の良さそうな笑み。


「北区画の水路、ご指示通りに掘り直しました。水の流れが格段に良くなりましたぜ」


「ありがとう、トーマス。傾斜を二度変えただけで、随分違うでしょう?」


「へえ、まったく。お嬢様は本当に何でもご存知で」


私は首を振った。


「知っているのではなく、調べただけよ。古い農業書を五十冊読めば、誰でも分かることだわ」


——五十冊の農業書。十二冊の灌漑技術書。八冊の土壌学文献。


侯爵家の書庫で埃を被っていた本たちが、今こうして役に立っている。エドワードは一度も手に取らなかったけれど。


「それから、新品種の麦の種子が届きましたぜ。隣国から取り寄せたやつ」


「ああ、ヴェルディア産の冬小麦ね。寒さに強くて、収穫量も従来の一・三倍。試験栽培が成功すれば、領地全体に広げられるわ」


私は種子の袋を受け取り、中身を確認した。粒が大きく、艶がある。品質は申し分ない。


「お嬢様」


マーサが小声で耳打ちした。


「あちらに、見慣れぬ馬車が」


視線を向けると、畑の入口に黒塗りの馬車が停まっていた。紋章は——見覚えがない。少なくとも、この国のものではない。


「隣国の紋章ですわ。ヴェルディア王家の」


マーサが眉を寄せる。


「なぜこのような場所に……」


馬車から降り立ったのは、あの夜の青年だった。


黒髪に深緑の瞳。精悍な顔立ち。社交界の煌びやかな装いではなく、実用的な旅装に身を包んでいる。ブーツには泥がついていた。長旅をしてきたのだろう。


「突然の訪問を許されたい」


青年は軽く頭を下げた。その仕草に、不思議な誠実さがあった。


「私はカイル・レオンハルト・ヴェルディア。隣国の——まあ、末席の王族だ」


「……存じております」


私は泥のついた手を腰のタオルで拭いながら、姿勢を正した。


第二王子。王位継承権は低いが、外交と内政改革に手腕を発揮する実務家——書簡のやり取りで、その名は何度か目にしていた。貿易交渉の相手方として、彼の署名が入った文書を幾度となく読んだ記憶がある。


「何のご用でしょうか、殿下」


「視察だ」


カイル王子は真っ直ぐに私を見つめた。


「貴女の、だが」


「——私の?」


「ああ。『影の宰相』の噂は、国境を越えて届いていた。三つの赤字領地を黒字化させ、十二カ国との貿易網を構築した女性。その人物が、婚約破棄されて故郷で農地改革を始めたと聞いた」


王子の視線が、私のズボン姿を捉える。


また「淑女らしくない」と言われるのだろうか。「侯爵家の恥」と同じ言葉を投げかけられるのだろうか。


けれど——


「なるほど」


王子は小さく笑った。


「噂通りだ。いや、噂以上かもしれない」


「……何がでしょうか」


「貴女は今、領主の令嬢として馬車から指示を出すこともできる。なのに自ら畑に立ち、土に触れ、農夫と言葉を交わしている」


王子が一歩、近づいた。


「そのズボンは——現場を知るためのものだろう。机上の空論ではなく、実際に見て、触れて、考える。だからこその成果だ」


私は、少しだけ目を見開いた。


七年間、誰も言ってくれなかった言葉。


「視察先の様子を見せてもらえないだろうか」


王子が言う。


「私の国にも、改革を必要とする領地がある。貴女のやり方を、学ばせてほしい」


(この人は——)


私のズボンを「恥」ではなく、「理由あるもの」として見ている。


「……よろしければ、ご案内いたします」


私は小さく頷いた。


「ただし、泥で靴が汚れますが」


「構わない」


王子は迷いなく答えた。


「現場を知らずに何が分かる」


その言葉に、私の心の奥で——何かが、小さく動いた。



視察は三時間に及んだ。


北区画の灌漑システム。傾斜を計算し直し、水の流れを最適化した水路。東区画の試験農場。新品種の麦と、従来品種の比較栽培区画。西区画の開墾地。女性でも扱いやすい新型の農具と、動きやすい作業着を着た女性たちが働く姿。


「これは……」


カイル王子は、開墾地の前で足を止めた。


「女性用の作業着か?」


「はい。従来の長いスカートでは、農作業の効率が著しく落ちます。膝丈のキュロットと、動きやすいブラウス。これだけで作業効率は一・四倍になりました」


「一・四倍……」


王子が目を見開く。


「服装を変えるだけで?」


「服装だけではありません。女性が働きやすい環境を整えれば、労働力は単純に倍になります。この領地では、女性も男性と同じ賃金を支払っています。そうすれば、優秀な人材が集まる」


「……合理的だ」


王子は深く頷いた。


「我が国では、まだそこまでの発想には至っていない」


「発想の問題ではありません」


私は言った。


「実行の問題です。『女性が働くなど』『淑女らしくない』——そういった声を無視できるかどうか。それだけの違いです」


王子の深緑の瞳が、私を見つめた。


「……貴女は、随分と声を無視されてきたようだな」


「ええ」


私は微笑んだ。


「七年間、ずっと」


沈黙が流れた。


麦畑を渡る風が、私の三つ編みを揺らす。遠くで農夫たちの笑い声が聞こえる。


「リーネ嬢」


王子が口を開いた。


「一つ、提案がある」


「何でしょうか」


「我が国の外交顧問として、働く気はないか」


私は目を瞠った。


「外交……顧問?」


「ああ。貴女の能力は、この小さな領地に収まるものではない。十二カ国との貿易網を構築した手腕、五カ国語を操る語学力、そして——現場を知ろうとする姿勢。全てが、我が国には必要だ」


「ですが、私は——」


「婚約破棄された令嬢?」


王子が遮った。


「そんなことは、どうでもいい。私が見ているのは、貴女の能力だ。——貴女自身だ」


その言葉が、胸に深く刺さった。


七年間、エドワードは一度も言ってくれなかった言葉。


「……考えさせてください」


私は静かに答えた。


「この領地の改革も、まだ道半ばですから」


「もちろんだ」


王子は頷いた。


「ただ、一つだけ覚えておいてほしい」


「何でしょうか」


「貴女のズボンは、弱さではない。強さの証だ」


その言葉を残して、王子は馬車に乗り込んだ。


黒塗りの馬車が遠ざかっていく。私はその背中を見送りながら、胸の中で何かが確かに変わっていくのを感じていた。



第四章 崩壊の足音


同じ頃、侯爵邸では——


「なんだこれは! 全く意味が分からん!」


エドワードが帳簿を床に叩きつけた。


執務室の机には、百四十七冊の帳簿が山と積まれている。どれもこれも、意味不明な数字と記号の羅列。リーネが残していった「暗号」だった。


「オスカー、お前には読めないのか」


「申し訳ございません、若様」


執事長オスカーが深々と頭を下げる。白髪を整え、常に完璧な身だしなみを保つ老練な使用人。その目に、微かな——軽蔑の色が滲んでいることに、エドワードは気づいていない。


「この暗号体系は、リーネ様が独自に構築されたものでございます。解読の鍵は——リーネ様のお頭の中にしかございません」


「馬鹿な……」


エドワードは青ざめた顔で椅子に崩れ落ちた。


二週間前、彼は勝ち誇っていた。「ズボンを履く女」を切り捨て、「真の淑女」であるソフィアを手に入れた。社交界の称賛を浴び、男としての威厳を示した——と思っていた。


ところが。


「若様、本日も三通の書簡が届いております」


オスカーが封筒を差し出す。


「ラヴェンナ商会より、『リーネ嬢不在のため、今期の羊毛取引は見送りたい』と。フィレンツェ織物組合より、『契約更新の交渉はリーネ嬢とのみ行う』と。それから——」


「もういい!」


エドワードは頭を抱えた。


十二カ国の取引先のうち、すでに七カ国から同様の通告が届いていた。「リーネ嬢がいないなら取引は見直す」——その言葉が、エドワードの脳裏にこびりついて離れない。


「あの女、一体何をしていたんだ……」


「全てでございます」


オスカーの声が、いつになく冷たく響いた。


「若様が社交に興じておられる間、リーネ様は帳簿を管理し、交渉をまとめ、領地を視察し、問題を解決しておいででした。——全て、でございます」


エドワードが顔を上げる。老執事の目に、初めて見る感情が宿っていた。


軽蔑、だ。


「……ソフィアを呼べ」


エドワードは震える声で命じた。


「彼女に帳簿を任せる」


オスカーは一瞬、目を伏せた。


「……かしこまりました」


その声に含まれた諦念に、エドワードは気づかなかった。



三日後。


「こんなの聞いていませんわ!」


ソフィアの悲鳴が執務室に響き渡った。


机の上には、彼女が「整理」しようとした帳簿の残骸。インクの染み、破れたページ、滅茶苦茶に書き込まれたメモ。


「数字なんて見たくもありませんの! これは淑女のする仕事ではありませんわ!」


「だが誰かがやらなければ——」


「私は侯爵夫人になるのです! 下働きをするために嫁ぐのではありませんわ!」


ソフィアは涙を流しながら部屋を飛び出していった。


残されたエドワードは、崩れ落ちた帳簿の山を見つめていた。


(まさか、本当に)


本当にリーネがいないと、何も回らないのか。


あの地味な女。ズボンを履いて畑を歩き回り、夜遅くまで帳簿と向き合い、社交界では影のように控えていた女。


彼女の不在が、こんなにも——


「若様」


オスカーが静かに告げた。


「父君がお呼びです。——今期の収支報告について」


エドワードの顔から、最後の血の気が引いた。



侯爵ハロルドの執務室は、重苦しい沈黙に満ちていた。


「説明しろ、エドワード」


父の声は、凍てつくように冷たかった。威厳ある風貌に、深い怒りが刻まれている。


「なぜ七つの取引先から契約破棄の通告が届いている。なぜ帳簿が全く読めない状態になっている。なぜ——」


「それは……」


「なぜ、リーネ嬢を手放した」


沈黙。


「父上、あの女はズボンを——」


「ズボンがなんだ!」


ハロルドが机を叩いた。


「ズボン一着と、十二カ国との貿易網、三つの領地の黒字化、百四十七冊の財務記録——どちらが重いか分からんのか!」


「しかし、淑女として——」


「淑女?」


ハロルドは冷笑した。


「お前が選んだ『淑女』は、帳簿の一冊も読めんそうだな。刺繍と社交辞令以外に何ができる? 領地経営の何が分かる?」


エドワードは唇を噛んだ。


「リーネ嬢を手放したのは、我が家最大の失策だった」


父の言葉が、判決のように響く。


「今すぐ謝罪し、復縁を——」


「無理です」


オスカーが静かに割って入った。


「本日入った情報によりますと、リーネ様は——隣国の第二王子カイル殿下の視察を受けておられるとのこと」


「……なんだと?」


「子爵領の農地改革が、隣国の注目を集めているようでございます。殿下自ら、何度も足を運んでおられるとか」


エドワードの顔が、醜く歪んだ。


あの女が——自分を捨てた女が——いや、自分が捨てた女が、他国の王子に見初められている?


「まだ間に合う」


エドワードは立ち上がった。


「私が直接行って、頭を下げれば——」


「お前に」


ハロルドが冷たく遮った。


「そんな器量があるとは思えんがな」


その言葉は、息子への信頼が完全に失われたことを意味していた。



一ヶ月が過ぎた。


侯爵家の状況は、悪化の一途を辿っていた。


十二カ国の取引先のうち、十カ国が契約を打ち切った。残る二カ国も、「リーネ嬢との交渉でなければ応じない」という姿勢を崩さない。


領地の収入は激減した。帳簿が読めないため、どの支出が無駄で、どの投資が必要かの判断すらつかない。


「若様、今月の給金が払えません」


使用人たちが次々と辞めていく。オスカーすら、辞表を提出した。


「長年お世話になりました。しかし、私はリーネ様の下で働くことを選びます」


「な——裏切るのか!」


「裏切る?」


オスカーは静かに首を振った。


「私は最初から、『有能な主人』に仕えていたのです。それがリーネ様であったというだけのこと」


老執事の背中が、執務室から消えていく。


エドワードは、一人取り残された。



二ヶ月後。


「エドワード」


父・ハロルドが、疲れ切った声で言った。


「社交界での我が家の評判は、地に落ちた。取引先は全て失った。このままでは——」


「分かっています」


エドワードは青ざめた顔で頷いた。


「だから、リーネに復縁を——」


「もう遅い」


ハロルドが書簡を投げてよこした。


「隣国から届いた報せだ。読め」


エドワードは震える手で書簡を開いた。


——リーネ・フォン・ヴァイスフェルト嬢、ヴェルディア王国外交顧問に就任。カイル・レオンハルト・ヴェルディア第二王子との婚約、近日発表予定——


「……嘘だ」


「嘘ではない」


ハロルドは疲れたように目を閉じた。


「お前が『恥』と呼んだ女性は、隣国の王妃候補になった。——我々が失ったものの大きさが、分かるか?」


エドワードは、書簡を握りしめたまま動けなかった。



第五章 強さの証


三ヶ月後——隣国ヴェルディアの王城。


私は新調された外交官服に袖を通していた。


濃紺の上着に、金糸の刺繍。胸元にはヴェルディア王国の紋章。そして——腰から下はズボン。


鏡に映る自分を見て、私は小さく微笑んだ。


(これが、今の私)


侯爵家の婚約者でも、子爵家の令嬢でもない。ヴェルディア王国外交顧問、リーネ・フォン・ヴァイスフェルト。それが、今の私の肩書きだった。


「リーネ」


カイル殿下が執務室に入ってきた。その手には、書類の束。


「フィレンツェ織物組合との交渉、見事だった。我が国にとって最も有利な条件を引き出してくれた」


「殿下のお力添えがあってこそです」


私は頭を下げる。けれどカイル殿下は、首を振った。


「貴女の実力だ。五カ国語を操り、各国の商習慣を熟知し、交渉相手の心理を読む——そんな外交官は、我が国には他にいない」


三ヶ月前、私は殿下からの招聘を受けた。


『貴女のような人こそ、我が国には必要だ』


あの言葉に、嘘はなかった。


殿下は私を「飾り」としてではなく、「実務者」として求めてくれた。私の提案を真剣に聞き、意見が対立すれば議論を重ね、正しいと認めれば採用する。


(対等なパートナー)


エドワードとの七年間には、一度もなかったもの。


「リーネ」


殿下が私の前に立った。深緑の瞳が、真っ直ぐに私を見つめている。


「ひとつ、報告がある」


「何でしょうか」


「昨日、ハーヴィスト侯爵家から書簡が届いた」


私の心臓が、小さく跳ねた。


「『リーネ嬢との復縁を仲介してほしい』という内容だ」


——来たか。


私は予想していた。三ヶ月。貿易契約の更新時期。あの暗号化された帳簿を、彼らが解読できるはずがない。


「お断りください」


「当然だ」


殿下は書簡を暖炉に投げ入れた。炎が紙を舐め、灰に変えていく。


「だが——近いうちに、本人が来るかもしれない」


「……そうでしょうね」


私は窓の外に目を向けた。


「エドワード様は、直接頭を下げれば何とかなるとお考えになる方ですから」


「貴女は、会うつもりはあるか」


殿下の問いに、私は少し考えてから答えた。


「会います」


「——いいのか」


「はい」


私は微笑んだ。


「最後に、はっきりとお伝えしなければなりませんから。——私はもう、戻らないと」


殿下は長い沈黙の後、静かに頷いた。


「分かった。だが、ひとつだけ条件がある」


「条件?」


「私も同席する」


殿下の声に、珍しく強い感情が滲んでいた。


「貴女を——二度と傷つけさせないために」


その言葉に、私の心臓が小さく跳ねた。



一週間後。


謁見の間に、エドワード・クレイトン・ハーヴィストが現れた。


三ヶ月前より、明らかに疲弊していた。金髪は乱れ、目の下には濃い隈。頬はこけ、服も皺だらけ。かつての自信に満ちた侯爵家嫡男の姿は、どこにもない。


「リーネ……」


彼の視線が、私を捉えた。


そして——凍りついた。


私はズボン姿で立っていた。ただし今度は、隣国の外交官服を纏って。胸には王国の紋章が輝き、腰には外交官の証である銀の帯剣。そして隣には、カイル殿下が立っている。


「お久しぶりです、エドワード様」


私は完璧な礼をした。


「本日は何のご用でしょうか」


「……戻ってきてくれ」


エドワードが膝をついた。


「頼む。帳簿が読めない。取引先が離れていく。使用人も辞めていく。このままでは侯爵家は——」


「ご承知の上で、私を切り捨てたのではありませんか」


私の声は、自分でも驚くほど平坦だった。


「『ズボンなんて履いている女性を妻にするわけがない』——そうおっしゃいましたね」


「あれは、その……ソフィアに唆されて——」


「ソフィア様のせいですか」


「違う、いや、しかし——」


「エドワード様」


私は一歩、前に出た。


「私は七年間、あなたのために働きました。馬に乗り、泥濘の道を歩き、農民と共に畑を見て回りました。その全てを可能にするために、ズボンを選びました」


「……」


「十二カ国との貿易交渉。百四十七冊の帳簿管理。五カ国語での書簡対応。三つの赤字領地の黒字化。——その全てを、あなたは『恥』と呼んだ」


エドワードの顔が、絶望に歪んでいく。


「七年間、私は何だったのでしょうね」


私は静かに言った。


「あなたのお傍にいた私は。あなたのために働いた私は。あなたに愛されようと努力した私は」


「リーネ、私は——」


「もう遅いのです」


私は首を振った。


「私はもう、誰かに服装を指図される立場ではございませんの」


私はカイル殿下と視線を交わした。殿下が小さく頷く。私の手を取り、隣に並ぶ。


「そして——私のズボンを『強さの証』と呼んでくださる方を見つけましたから」


「なっ——」


エドワードが顔を上げる。その目に、ようやく真実が映ったようだった。私の隣に立つ王子。私の手を握る王子。私を——対等な存在として扱う王子。


「まさか、貴様ら——」


「昨日、正式に婚約いたしました」


カイル殿下が、静かに告げた。


「リーネは、私の国の外交顧問であり——そして、未来の妃だ」


エドワードの顔から、全ての色が消えた。


「そんな……そんな馬鹿な……」


「お引き取りください、ハーヴィスト殿」


殿下の声は、冷たく響いた。


「貴殿が捨てた宝石は、私が拾った。それだけの話だ」


エドワードは震える足で立ち上がった。何か言おうとして、けれど言葉が出てこない。


「最後に一つだけ、教えてあげましょう」


私は言った。


「あの帳簿の暗号——解読には、私の名前を鍵にしています。『リーネ』という文字を、古アルカディア語の数値に変換すれば読めますわ」


「……本当か」


「ええ。もっとも、古アルカディア語を読める方がいらっしゃれば、ですが」


私は微笑んだ。


「ソフィア様にお聞きになったら宜しいのではないかしら。淑女でいらっしゃいますもの」


エドワードの顔が、絶望で歪んだ。


古アルカディア語は、学者でも読める者が限られる古代語だ。ソフィアに読めるはずがない。エドワード自身にも読めるはずがない。


——つまり、帳簿は永遠に読めないまま。


「さようなら、エドワード様」


私は最後に、完璧な淑女の礼をした。


「どうぞ、お幸せに」



謁見の間を出ていくエドワードの背中を、私は静かに見送った。


七年間の終わり。


そして——新しい人生の始まり。


「リーネ」


殿下が私の肩を抱いた。


「よく耐えたな」


「……いいえ」


私は首を振った。


「耐えてなど、おりません」


「?」


「だって——」


私は殿下を見上げ、初めて——本当に初めて、心からの笑みを浮かべた。


「今、とても幸せですから」


殿下の深緑の瞳が、優しく細められた。



第六章 新たなる黎明——エピローグ


一年後——ヴェルディア王国、王城の中庭。


春の陽光が、色とりどりの花々を照らしている。噴水の水音が心地よく響き、庭園には穏やかな空気が流れていた。


「殿下、こちらが新品種の麦の収穫報告でございます」


私は書類を手に、カイルの執務室を訪れた。


——殿下、ではなく。今は『夫』と呼ぶべきだろうか。半年前、私たちは正式に婚姻を結んだ。


「三つの試験領地全てで、従来品種の一・三倍の収穫量を記録しました。来年度は全国展開が可能かと」


「素晴らしい」


カイルが書類を受け取り、目を通す。その横顔に、私は小さな幸福を感じていた。


「子爵領での成功が、そのまま我が国でも再現できたわけだ」


「土壌の違いで調整は必要でしたが、基本的な方法論は同じです。現場を見て、データを取り、最適解を探る。——それだけのことですわ」


「『それだけ』ができる人間が、どれだけいると思う?」


カイルが苦笑する。


「貴女を迎えてから、この国は変わった。外交も、農政も、そして——」


「服装規定も?」


「ああ」


カイルが別の書簡を取り出した。


「今日、議会を通過した。『機能性を重視した服装の選択は、性別に関わらず認められるべきである』——貴女の提案が、正式に法となった」


私は息を呑んだ。


「本当ですか」


「ああ。これで、この国のどの女性も——畑で、工房で、執務室で、自分に合った服を選べる」


涙が、頬を伝った。


七年間、私は一人で戦っていた。


「ズボンを履く女」と蔑まれながら、それでも現場に立ち続けた。誰にも認められず、誰にも理解されず——それでも、正しいと信じたことを貫いた。


その全てが、今——実を結んだ。


「リーネ」


カイルが私の涙を拭った。


「貴女は、この国を変えた。そしてこれからも——」


「一緒に、変えていきましょう」


私は微笑んだ。



「それから——」


カイルが思い出したように言った。


「ハーヴィスト侯爵家から、また書簡が届いている」


「……まだ諦めていないのですね」


「いや、今回は違う」


カイルの声に、微かな皮肉が混じった。


「『破産手続きの仲介を依頼したい』という内容だ」


私は目を瞠った。


「破産……」


「貿易相手国との契約は全て打ち切られ、領地の収益は壊滅状態。負債が資産を上回り、爵位返上も視野に入っているらしい」


カイルが書簡を机に置く。


「かつて三つの赤字領地を黒字化させた『影の宰相』がいなくなれば、こうなることは分かっていたはずだが」


私は窓の外に目を向けた。


憎しみは、もうない。


悲しみも、後悔も。


ただ——因果応報という言葉が、胸の中で静かに響くだけ。


「仲介は、お断りしましょう」


「そうだな」


「彼らが選んだ道の結末です。私が手を差し伸べる理由はありません」


「……冷たいな」


「冷たい?」


私は首を傾げた。


「七年間尽くした相手に『恥』と呼ばれた女が、その相手を助ける義理があるとお思いですか?」


「いや」


カイルは苦笑した。


「貴女は正しい。——いつも」



窓の外では、春の風が麦畑を揺らしている。


黄金色の波が、どこまでも続いている。一年前、私が一人で始めた農地改革は、今や国全体に広がっていた。


「リーネ」


カイルが手を差し伸べた。


「午後からは、北部領地の視察だ。——一緒に行こう」


「はい」


私は夫の手を取り、歩き出した。


今日も私は、ズボンを履いている。


それは弱さではなく、強さの証。


現場を知り、民と共に歩み、自分の足で立つという決意の表れ。


そして——私を愛してくれる人が、それを誇りに思ってくれている。


「ねえ、カイル」


「なんだ?」


「私、ズボンを履いていて良かったわ」


「……急にどうした」


「だって」


私は微笑んだ。


「ズボンを履いていなかったら、あなたに見つけてもらえなかったもの」


カイルは一瞬目を見開き、それから——声を出して笑った。


「確かに。あの夜、貴女が堂々と歩き去る姿を見て、私は確信したんだ。——この人こそ、と」


「まあ。それは初耳ですわ」


「言わなかったか?」


「一度も」


「なら、これから毎日言おう」


カイルが私の手を握りしめた。


「貴女のズボンは、強さの証だ。——そして、私の誇りだ」


その言葉が、胸に深く沁みた。



一年前、私は全てを失ったと思った。


七年間の献身。婚約者という立場。社交界での居場所。


けれど本当は——全てを得るための第一歩だった。


私を認めてくれる人。私を愛してくれる人。私のありのままを受け入れてくれる人。


そして、私が私らしくいられる場所。


これが、「ズボンの令嬢」と呼ばれた私の物語。


そして——「最も賢明な王妃」と呼ばれる、これからの私の物語の始まり。


春の風が、私のズボンの裾を揺らす。


夫と並んで歩きながら、私は心の中で呟いた。


(ありがとう、エドワード様)


(あなたが私を捨ててくれたおかげで——私は、本当の幸せを見つけることができましたわ)



〈了〉

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