引き金に咲く花
プロローグ
朝焼けの光が、瓦礫の街を薄く照らしていた。
スコープ越しの世界はいつだって静かだ。血も、声も、命の鼓動も
――全部、遠くにある。
私の名前は時雨。コードネームは“リリィ”。
引き金をひくたび、心のどこかが欠けていく気がする。でも今更戻る場所なんて残っていない。
今日、撃つ相手は――
かつて「守りたい」と願った男。
息を殺し、風の音に溶け込む。撃てば終わる。撃たなければもっと終わる。
そんな人生を、私は選んだ。
第一章:決着をつけようか
ビルの屋上。冷たい鉄骨と、沈黙だけが支配する空間。灰色の空が、朝になるのを拒んでいるみたいだった。曇天の向こうに、微かに陽が滲む。街の息遣いはまだ遠く、眠ったふりを続けている。
私はNTWを静かに地面に伏せ、スコープを覗き込む。
距離――865メートル。風速、南西から2.8メートル。湿度73%。
息を吸って、脈を殺す。そこにいる。
あの男、九条迅。
一度は「背中を預ける」なんて、バカみたいなことを信じてしまった。一緒に笑って、一緒に戦って、「お前がいりゃ百人力」なんて、冗談交じりに言ってたくせに。
あの夜――
私を身代わりにしたあの日から、世界は音を立てて壊れた。
「引き金を引けない奴は、撃たれるだけだよ。そうだろ、時雨?」
お前の言葉が、今も頭にこびりついている。その通りだ。だから私は撃つ。“撃たれないために”じゃない。“お前を終わらせるために”。
スコープ越しに、目が合った気がした。多分気のせいではない。あいつも、どこかで気づいている。この終わりが、もう逃れられないことに。
「決着をつけようか、迅。……終わりにしてやる」
私は息を吐き、引き金に指をかける。心は、もうとっくに決まっている。
パン、と乾いた音が、世界を裂いた。
――だが、倒れない。
スコープの向こうで、男がゆっくりと顔を上げた。その表情は、笑っていた。
「おいおい。まだそんなに俺に未練があったのか、時雨」
心臓の鼓動が、一拍遅れて胸を叩く。風速、湿度、弾道――全て計算した。外す理由なんてなかった。
――そんな馬鹿な。
私は「確実に、撃ち抜いた」。だが迅は、生きている。撃たれることすら想定していた。
「相変わらず綺麗なフォームだな。でもさ、もう“私情”ってやつが乗ってんだよ。その弾には」
口の端をつり上げる、あの癖。変わっていない。でも今はもう、あの頃の迅じゃない。あいつは、私を売って生き延びて、その上、私を利用して遊んでる。
「なぁ時雨。もう一発、くれてやるよ」
耳元に、かすかな電子音。ジャミング。位置、バレてる。
私はすぐ銃をたたみ、立ち上がった。もう、ここは“狙撃手の席”じゃない。これはもう、近づいてくるやつの顔を見てから撃つ戦いだ。
「いいよ、迅。次は……外さない」
第二章;最後に名前を呼んだ人
「お前、名前は?」
彼女がこの世界に足を踏み入れたとき、本名を名乗ったのはそれで最後だった。まだコードネームを持っていなかった頃。“戦場”がどんなものか、何一つ知らなかった頃。空っぽの胃袋と、拾い物の小さな銃だけを持っていた少女に、声をかけてきたのが――師匠だった。
「弱そうで、殺せなさそうな目をしてるな。……いいよ、拾ってやる」
そう言って彼は、笑った。年齢不詳の男。武器の扱いにも情報にも長けていて、何より無駄がなかった。彼に名前を呼ばれるたびに、この世界に「存在を認められた」ような気がした。
「引き金ってのは、ためらっていい。撃たないって選択肢を残す奴の方が生き延びるんだよ」
それが師匠の教えだった。迅とはまるで逆だ。
その師匠が命を落としたのは――迅に裏切られ、時雨が囮にされた作戦のときだった。
「逃げろ、時雨」
それが、師匠が最後に言った言葉だった。銃声のなか、彼の身体が崩れ落ちるのをみたあの日から――
時雨は、心から誰かの名を呼ぶことをやめた。
「私は、師匠を撃てなかった。……でも今度は、撃つ。誰かを守るためじゃない。自分が、生き延びるために。」
任務対象として顔写真だけ渡され、会う前から「撃つべき敵」として認識していた。だが、実際に接触すると、柚葉は驚くほど冷静に――そして優しく時雨を迎える。
「やっと来たんだ。あたしのこと、殺しに来たんでしょ?」
逃げも隠れもしない。そして、誰の名前も出さなかった。最後まで“誰か”を庇っていた。時雨は任務通り引き金を引いたが、柚葉の最期の表情と言葉が今でも脳裏に焼き付いている。
「あたしね、あんたの目……なんか好きだったよ。本当は、もっと誰かを守るために使ってほしかったな」
そして今も時雨は、ときおり思いだす。あの瞬間、自分は「撃つべきだったのか」。
それとも――「あれもまた裏切りだったのか」。
第三章:またお前かよ、って顔してんな
カツン、と革靴の音が響く。暗い闇の奥から、皮肉げな声が聞こえた。
「またお前かよ、って顔してんな。まぁ実際そう思ってるんだけどさ――お前ほど、しつこくて綺麗な奴もいねぇわ」
九条迅。
相変わらず軽薄そうに笑っているが、その右手には静かに銃が下がっていた。
時雨は一言も返さない
部屋の空気は湿っていて、埃と火薬と、懐かしい“血の匂い”がした。
「あの時のこと、まだ根に持ってんの?仕方ねぇだろ、あれは仕事だったんだよ。誰かが死ぬしかなかった」
「だから私を選んだ」
「――そう。だって、お前は撃たないと思ったからな。……あの時、撃てなかった。だろ?」
時雨の目が細くなる。その通りだった。でもそれは、過去形だ。
「へぇ――じゃあ“引けよ”。その引き金。今度こそ、俺のこと、殺してみろよ」
一瞬の沈黙。張り詰めた空気
が、一発の銃声で引き裂かれた。――撃ったのは、迅だった。だが、時雨はすでに動いていた。着弾と同時に床を転がり、柱の陰へ。
「まだ躊躇うかと思ったよ。……ちょっとだけ、期待してたのにな」
時雨の返事は、鋭く、冷たい。
「引けなかった私があんたを殺す。それだけの話」
再び銃声。“この部屋にはもう、言い訳できる空気は残っていなかった。”
銃声が一発、また一発。鉄骨の柱を弾が砕き、コンクリート片が飛び散る。時雨は動いていた。無言で、無表情で。ただ冷静に、“殺すため”に――。
だが、すりガラス越しに銃を構えたその瞬間。――視界に差し込んだ光の中に、少女の影が浮かんだ。細い肩。色のない髪。あの日、血の海の中で、微笑みながら崩れた少女。
柚葉。
『本当は、もっと誰かを守るために使ってほしかったな』
時雨の手がわずかに震えた。その刹那――ガラスの向こうから銃弾が飛んだ。間一髪でかわす。跳弾が肩をかすめ、鮮やかに血が散った。
「……やっぱ、お前撃てねぇんだな」
迅の声。
「“罪悪感”ってやつはよ、隠しても匂うんだよ。
誰を殺して、誰に何も言えなかったのか――顔見りゃわかる」
「黙れ。あんたは、あの子のことを知らない」
「知る必要もねぇ。……俺に撃てなかったこと、悔しかったか?でも結局、“誰か”には撃てたんだよな?」
目の前の迅が、あの時の柚葉の顔と重なった。“撃たなければならない標的”と“本当は守りたかった少女”が、重なる――
「引き金に引いたのは私だ。後悔しても、それが“答え”」
そして再び、時雨の瞳が鋭く細められる。“今、私の中に迷いはない。”引き金に触れる。今撃つのは、“柚葉の影”ではない。
迅。
……お前を撃つ。
時雨の声は、まるで静かに降る雨のようだった。銃口は揺るがず、瞳にはもう、誰の影も映っていなかった。目の前にいるのは迅――あの過去の“裏切り”の象徴。
「へぇ……撃てるんだ?だったら、やってみろよ。俺を撃ったら、全部終わりだぜ?」
――それが目的だ。
時雨の心の中で誰かが囁いた気がした。優しく、悲しげな、けれどどこか誇らしげな声。
『今度は、“守れた”んだね――』
カシャン、とスライドが動く音。誰のものでもない、ただ冷たく整ったその一発が、まっすぐに標的へと走った。
銃声。
そして沈黙。
九条迅は、二度と笑わなかった。
照明の切れた廃ビルに、風が吹き込む。崩れた窓ガラスの破片が、陽に照らされてきらりと光る。時雨はゆっくりと銃を下ろした。その目には、何の感情も浮かんでいない。
ただ一つ、確かに言えることがある。
「撃ち損じは、二度としない」
それだけが、この世界で彼女が生き残ってきた意味だった。
「誰にも届かなくてもいい。それでも私は……綺麗なまま終わりたかった……」




