花あかり 香りに揺るる 古の夢
―――千花。
優しい声が、燭台の細い灯りだけしかない暗い部屋に響く。灯りを背にした男の顔は逆光で見えないが、揶揄いが混じる声から笑っているのが分かる。
この男の名前も顔も覚えていないが、私はこの男を「あなた」と呼んでいた。
この男は前世の夫だから……いや、「あなた」は強要されてだったな。うん。
私には前世の記憶というのが朧気にある。
これはその記憶が見せる夢なのだろうが……今夜はやけに生々しい。桜餅を食べからだろうか。においは記憶を呼び起こすというし。
桜餅は、電車に乗る前に大学前の白梅庵で買ったもの。
定番の饅頭で間違いのない美味しさを楽しもうと思っていたのに、箱を開けたら桜餅が入っていた。桜餅は嫌いではないが、饅頭の舌になっていた……まあ、食べたけれど。もったいないじゃない。
眠るときも、この街の駅前にあるビジネスホテルらしい生活感のない部屋の中には桜の香りが漂っていた。
―― どこを見ておる?
夢の中の夫は不満そうだが、お互い様だったと記憶している。義務だから体を重ねただけ。いま私の服を脱がせる所作にも、『さっさとすませたい』というせっかちな感じがしている。
しかし、わが夢ながら今夜はやけに成人向けだ。
旅先だから?
仕事が楽しくて碌に休みも取らずに仕事をしていたら上司に休みをとるように言われた。
―― 僕がパワハラ上司みたいに見えるから、休んで、3日、連続で、明日から。
あの圧……十分パワーを感じたが、二児の父である上司がクビになったらその家族にもうしわけない。急だったけれど休みをとった。急だからか、やりたいことはなかった。
休みの日になにをしようかとぼやいていたら、彼氏のいないつまらない生活を送っているからだと上司は笑った。こちらのほうがセクハラ発言でまずいと思った。
―― ここの桜はキレイだよ。心を洗っておいで。
この街の住民らしい人物のブログを見て、いいなと思ったから来てみた。ネットの口コミを見たらホテルの数が少ないらしいから、駅前のビジネスホテルを連泊でとった。これで二日は予定ができたと浮かれる私を上司は可哀そうな者を見る目で見ていた。
いま思えば、洗う必要があるほど心が汚れて見えたのだろうか。
ちなみにその上司は毎年家族でここの桜を見にきているらしい。いいお父さんだ……。
――― なにを考えている?
肌を噛まれたと思った瞬間、夢ではあるが前世の夫に組み伏せられた状態だったことを思い出した。この状況で考え事ができるなんて、私ったら図太い。
――― よそ見をするほど余裕があるなら、これからは手加減をしなくてよいな。
いいえ、それはしてください!
「無理だから! ……って……」
ここはビジネスホテルの部屋。
時代劇のセットのような広い和室ではない……あれ、昔の寝室だったのかな。端から端まで転がったら気持ちよさそう。
それにしても、なんて夢を見たんだ。
チェックインして、少し休もうと桜餅とコンビニで買ってきた日本酒を飲んで……仕事の疲れが溜まっていたんだな。
――― 千花。
イヤイヤ、そちらは溜まっておりません……しばらく桜餅か日本酒はやめよう。
時計を見たら19時を過ぎていた。チェックインしたのは15時ちょうどだったから、4時間も昼寝をしていたらしい。
――― 千花。
ぐっすり寝ていた!
寝ていたもんね!
そもそも私は千花ではない。私は栖原 阿月。ほら、「ち」も「か」もない素敵な名前でしょう……情緒不安定だ、私。
◇
頭を冷やすために夜桜見学に向かうことにした。
フロントでもらった地元のマップを片手に、コンビニで日本酒とペットボトルの水を買った。日本酒断ちの誓いは『花見』というパワーワードを前に頓挫した。
通りの人たちは、みな桜並木が目当てなのか一方通行のようになっている。大体は行楽スタイル。私も……自分なりに行楽スタイル。しかし、なぜか私の前を歩いている男性はスーツ姿。
ときおりキョロキョロと周りを見るから、顔はチェック済み。
百戦錬磨っぽい見た目のイケメンだ。
「ケバケバしすぎ……」
おおう?
それは少し前にいて、ちらちらイケメンを見ている女性の集団のことかな?
それとも……私か?
いや、私はケバケバしいというより……。
「いえ、違います。桜、桜、夜桜のことです」
「あ、はい……」
私を見てあたふたと言い訳をするイケメン……女を食い荒らしていそうなんて思ってしまってすみません。タイプではないけれど、見た目と違ってとても誠実そうな人だ。
そのイケメン、私の持っていたコンビニの袋に気づいた。
『俺も酒が飲みたい』と顔に書いてあったので、少し戻ることになるが来た道でコンビニがあったことを教えるとそちらに向かっていった。
あのイケメンの言った通り、目の前の桜並木は観光色が強く華やかにライトアップしてあって派手だ。ホテルでもらったマップには戦国時代、隣の領地と併合しここに城を築いた城主が民と共にここに桜を植えたとあった。
想像が膨らむ。
500年以上の前の話。灯りといえば行灯か灯篭で、この樹もその頃はまだ若木で、城主は自分の背丈よりも低い桜を見つめる。花あかりが映し出す白皙の美貌……絵になる。
白く滑らかな肌は当時の美人の特徴。
そんな彼にはそれはもう沢山のお嫁さんがいて、正室と側室たちでドロドロの血で血を洗う争いがあって……。
「桜の下に死体の1つや2つあっても……」
思わず口にした言葉にヤバさに慌て……。
「妄想です!」
この瞬間、周囲の雑踏が私から2メートルくらい距離をとった。息苦しさは減ったが、同時に大切な何かを失った気がしたので脇道に逃げ込んだ。
知らない街の脇道、わくわくする……ということにしよう。
普段ならこんな軽率なことはしない。女一人で暗い道を歩くのは危険。でも、私も桜に酔ったのか気分が高揚している。いや、ホテルで飲んでいた日本酒が残っているのかな。
とにかく、もう少しこの街を散策してみよう。
なんかこの街の香りは好きだ。
周りに人がいないのをいいことに、日本酒のはいったカップの蓋を開けてチビチビと飲む。ほろ酔いの、わずかに揺れる酩酊感が気持ちいい。
覚束ない足取りで歩いていると、角から急に人が出てきた。
いや、急じゃないかも。
酔っていて反応が悪かっただけかも。
「……っと」
避けようと思いきりのけ反った体を、ぶつかりそうになったイケメンが支えてくれた。本日2人目のイケメン。1人目とは違って、さっき桜並木の下で妄想したような白皙の美貌タイプのイケメン。
「すみません、大丈夫ですか?」
「はい……あの、支えてくれてありがとうございます」
「いいえ」
……この声、聞き覚えがあるような。
「俳優さんか、声優さんかですか?」
「一会社員です」
会社員?
「勿体ない。顔も声もいいのに」
「あはは、ありがとうございます」
誉め言葉がさら~っと流された。褒められ慣れてるな、この人。
「そんな胡散臭げな顔をしなくても。確かに褒められ慣れていますけれど、何の利もなく素直に褒められるのって滅多になくて」
「滅多にって、どのくらい?」
「前は、500年……いや、560、70年くらい前かな」
500年?
「え……幽霊?」
「あはは、まあ、確かに……幽霊みたいなものかもしれませんね」
それなら死霊か……初めて見た。まだ若くてイケメンなのに……ご愁傷様です。
それにしてもこの死霊、楽しそうに笑うな。なんでだろう……ジンッとする。楽しそうな笑い声……最近仕事仕事ばかりで気が狂ったみたいな笑い声しか聞いていなかったからかな。心が洗われそう。
「この世に未練が?」
「いや、未練があるのはこの世ではないのですが……妻を、探しているんです」
「『奥様』……ううう、泣かせるツボ……」
やだ、そういう話に弱いの。いま泣いちゃだめなのに。
「花粉症対策の眼鏡ってもはやゴーグルですね……涙が溜まっていますよ」
「マスクの下も鼻が……ううう、泣かせないでください」
「すみません」
「それで、どんな奥様だったんですか?」
死霊が首を傾げる。
「妻ってフレーズだけで泣いているのに聞くんですか?」
「恋バナは好きなの、人並みに。あ、でも、もしかして覚えていない……とか?」
死んだら記憶が朧気になることは自分で経験しているじゃない、バカバカ。
「いや、覚えていますよ。猫のように可愛らしくつれない妻でした。あの手この手で気を引こうとしたのですがねえ。俺が親の仇だったせいか心を開くことなく、こっちは惚れていたんで、まあ、妻でしたしあの手この手で囲い込みましたよ」
……ん?
あ……この死霊、ヤバイ!
奥様を探すのを手伝おうかなんて言ったら思いきりパラサイトしてきそう。
人畜無害そうな顔に騙されたらだめ、肌は白くても絶対この人の腹の中は真っ暗。
奥さん、逃げて!
私も、逃げる!
「あの、私、そろそろ……」
「良かったら一緒に……」
連れていかれる!
「いやあ!」
思わず悲鳴をあげると死霊は吃驚したけど健在、除霊できていない。
傍の建物から足音がする。がらりと扉が開いた。人間、やった……。
「何だ!? ……大樹、お前、何してるんだ?」
お知り合い、ということはこの人も死霊?
なんでこんなにいるの、お花見に来てるの?
あ、もしかしてここが天界との入口とか……やだ、連れていかれる! 死にたくない!
「間に合ってますう」
逃げろ!
❁ 大樹 ❁
「……間に合ってます、って何が?」
「なんだろうな」
面白い女。
花粉症なのかゴーグルのような眼鏡にマスクという出で立ちもそうだけど、反応がいちいち面白かった。素直というのか、とても可愛い。あの素直さはどこか前世の妻に似ていた。
俺には前世の記憶がバッチリある。
妹が前世の母、隣にいるこの居酒屋の大将が前世の側近であり親友だった男。そんなだから、俺の嫁も転生してここら辺にいるんじゃないかなって思っている。
今世でも妻と……とは別に思っていないけれど、周囲から結婚を薦められるようになってきて「結婚するなら」と相手を想像して真っ先に浮かんだのは前世の妻だった。それだけ。
前世の妻は、隣の領地の姫で名は千花。
幼い頃から俺の許嫁だったが、千花の一族が約束を反故にしてうちの領に攻め込み、その結果母が亡くなったから俺と千花の話は一旦暗礁に乗り上げた。
政略だったし、時代が時代だったため数回顔を合わせただけの仲。許嫁としての義務感から文のやりとりはしていたが、それだけだったので結婚の話がお蔵入りしても俺は全く構わなかった。それどころか母を殺した隣の領主一族など皆殺しにしてもいいと思ってさえいた。
でも父は千花を俺に娶らせた。
母とのことでギクシャクしていた俺は父と一層距離を置くようになった。母が千花をとても可愛がっており、そんな母の願いを叶えたことを知ったのは父の死後だった。口下手なのは知っていたけれど、言えよ、そういうことは。
そんなことも知らず、思い出すだけで恥ずかしさに身悶えしたくなるが、嫁いできた千花に向かって「そなたを愛することはない」を俺はやった。ライトノベルで定番のアレを、マジでやった。
それに対する千花の答えは「別に構いません」だった。
実際に侍女の何人かを愛人にしても本当に一切気にせず、逆に俺のほうが千花が気になって気になって堪らないというラノベの定番の展開を迎えた。そして花見をしながら、「お父上とお母上のお覚悟の欠片も分からぬうつけ」と罵られ、それが俺の何かにブスッと思いきり刺さり、そこからはガンガン押した。
ガンガン、ガンガン、使えるものは何でも使って押してみたが、押しまくって上手くいくのって多少なりとも情があってこそなんだよ。ゼロからは何も生まれない、この言葉って真理だと思う。
想いを伝えても「お気遣いなく」といなされ、恋焦がれる気持ちが伝わらないまま俺が先に死んだ。
前世の妻に、実花みたいに記憶がないことを願う。
そなたを愛することはないなんて言った俺を是非忘れていてほしい。
そうしたら最初から始められる。この母譲りの人畜無害な見た目を活かしてしっかり囲い込み、さっきのあの女みたいに逃げるような真似すらさせない。
「さあて、俺のお姫様はどこにいるのかねえ」
「実花ちゃんか? 空き地じゃないか? あそこの桜がお気に入りだからな」
おお、そっちの姫もいたな。
「それじゃあ迎えに行ってきますか」
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