第九話
愛は消耗品ではない。
愛はあちらから自発的に芽生えるものだが、それの存在を維持させたいのなら、咲いたらあとは勝手にどうぞとしていいものではなく、日々丁寧に水をやり続けないといけないものだ。相手だけではなく、自分の植木鉢にも自分でじょうろを手向けて懇々と育んでいく、その努力がいる。
それさえ怠らなければ、きっと距離が開いて相手の姿が見えなくなろうと、すれ違いが起きて相手の感情や思いを見失おうと、何も問題は起こらないはずだ。
相手の領域を守ること。愛情を行動にした自分を信じること。お互いの自由を保障して、お互いを解放するような関係性でいること。
枯れぬよう。明日も咲くよう。
兵役の義務に就いた青年がその期間を終えて、一般社会に復帰することを、転役するという。除隊という言い方もあるが、入隊の期間を終えても軍人としての身分が終わるわけではなく、現役兵から八年間の予備軍に転換されることになるので、転役という言い方を使うことも多い。その後は、四十歳まで平時の兵役義務対象期間が続く。
ハヌル転役の日、ソラは迎えには行かなかった。
湖の畔の自宅に帰って、リビングに飾ってある観葉植物の世話をしていた。
その日は曇りで、昼間だというのにずっと薄暗く、少し肌寒かったから、ソラは薄手のカーディガンを羽織って珍しくココアを飲んでいた。午前中のウェブミーティングを快調に終わらせて、やりたかった作業もひととおり終えて、すっきりした心持ちだった。
ソラは韓国に戻ってきてから、また自宅を中心に仕事をこなすルーティンを粛々と続けていた。
機会に恵まれず、結局、入隊期間中にハヌルに会うことは一度もなかった。そうこうしているうちに満期転役のときがきて、今日、ハヌルが帰ってくる。
先月ほど前からハヌル転役のニュースは世間を騒がせているものの、当日の今日は特にしっかり報道されていた。メディアのライブ映像も、ユーチューブで配信されている。
ファンもメディアも、人はみんな、ハヌルがどこへ行くのかを知りたがった。しかし空は、ハヌルがどこへ帰るのかがいつも気になる。
大切なひとのことは縛りつけるより解き放つほうが勇気がいる。どんなに高く飛んでも、どんなに遠く羽ばたいても、地に戻ったときにまた俺を呼んでくれるなら、俺はおまえの家になるためになんだってしよう――空は思う。
献身ではない。自己犠牲でもない。俺はただ誰とどこにいようと、おまえがその体に抱えている生命の数々がどうか今日もこの世界で呼吸をしていますようにと、そう祈っているだけなのだ。
満期転役といっても、彼がひとりの兵士になったことには今後も変わりない。有事の際には前線に立ち、実際に戦争の中で戦闘をするのだ。朝鮮半島はいまだ統一されていない。
その要因に日本の過ちが大きく関係していることも、今のソラは理解して受け止めていた。昨日も会社に用事があった帰りに、駅前のデモに参加してきた。
スリッパの底が磨かれたタイルを撫でる。ゆっくり、リビングのひらけた空間の中心に置いてあるグランドピアノに近寄り、白い鍵盤のひとつを唐突に指で跳ねた。ぽーんと音が伸び、溶け、消えた。
テーブルの上には香りのないキャンドルが灯っていて、ゆらゆら覚束ない雰囲気で光の輪を揺らして、明るかった。ずっと見ていると視線を反らしたときに視界に影の痕ができて、少し目にしみた。痛くはなかったが涙が出た。
木の葉が触れ合う薄い音の向こうに人の気配を感じた気がして、顔を上げた。湖を囲うように立っている木々が風に踊り、緑の葉を宙に浮かせていた。波のない水面は群青色のゼリーのように、たまに左右にだけ動いていた。
玄関が開く音が聞こえた。
ソラは瞼を伏せた。
次に目を上げたときにはハヌルがそこに立っていて、湖はまだ揺れていた。
「おかえり」
ソラは笑った。
「おかえり、ハヌラ」
「ただいま。空ヒョン」
と、ハヌルが微笑む。
彼はまた身体が立派になったようだった。どれだけ過酷で厳しい訓練を乗り越えてきたのか、空には想像することしかできない。
どちらともなく歩み寄って、肩を抱き寄せた。
ソラはハヌルの肩口に頬をこすりつけて、彼の匂いを肺いっぱいに吸い込んだ。後頭部を優しく手で押されて、もっと深くまで沈んだ。
ハヌルのほうも鼻先をソラの髪に埋めてその香りに目をつむっていて、冬の森林の幹のような模様の玄関先で、汚れたままの服を着ていることも忘れて、しばらく黙って抱きしめ合っていた。
何分が経過しただろうか。ハヌルの手の中でスマートフォンの端末がブー、ブー、と震え出して、二人はやっと現実世界に戻ってきた。
ハヌルはすぐに離れようと動いたが、ソラがそれをぐっと引き止めた。
「ごめん」
ソラが言う。
「ごめん。ほんとうに」
胸の中でハヌルはごそごそ身動きすると、二本の腕をすぽんと引っこ抜いて、流れるような手つきでソラの頬を両手に包んだ。それから顔ごと自分のほうに引き寄せてキスをして、次の言葉を待つようにじっと目を見つめた。
眠そうに垂れた目尻が、前髪の影でもっと緩んだ。
「おまえだけだよ」
と、ソラが。
ハヌルは微笑んだ。
ソラが目を覚ますと、シーツの海の上で、ハヌルの胸が波打つ海面のように上下しながら呼吸を繰り返していた。
その向こうには、浅瀬のような水色をした空が見えた。不安定な線状になって並ぶ雲は打ち寄せる波だ。ベッドに投げ出されたハヌルの腕の肌には、優しい強度の朝の日光が降り注いでいて、汗でしっとりした素肌に宿る命の輝きを真珠のようにさせていた。
自宅の寝室だった。
もう朝か。
ぐっすり眠れた感覚はずいぶん久々で、すぐに冴える脳に驚いた。視力がよくなった気さえする。
どうやらハヌルのほうを向いて寝ていたようで、目を開けるとすぐ彼の横顔が見えた。
眠そうな角度で天井を見上げている瞳、細かく震えるまつ毛、力なく薄く開かれた唇、そこから漏れる植物の息吹みたいな呼吸、少し伸びかかった黒の髪。裸の四肢は彫刻のようだが、そこに確かに息づいている生命はまるで、全身を使ってこの星の自然を体現しているかのようではっとする。
瞼に引っかかっていた毛布のほこりを指先ですくい、引っかかりを取ってやると、ハヌルはゆっくり隣に顔を向けてソラと目を合わせた。潤む虹彩は天然の鉱石だ。
ぼうっと、かすれた声でそして、ハヌルは「早起きしちゃいました」と微笑んだ。
今、俺が見ているこの世界の永遠の光景を、そのままハヌルにも見せてあげられたらいいのに――ソラは思った。
切なくてたまらなくなって、何も言わないまま抱きしめた。放り出されていた手を手で包む。腕の筋肉の隆起はソラより立派で、胸筋も、太腿も、どこもかしこも生きとし生けるものの生命力の強かさを表していた。
どんな装飾の語を駆使しても、表現しつくすことなど到底できまい。今や世界中の芸術家が彼を絵画にしたがり、石像に彫りたがり、フィルムに撮影したがり、譜面に落としたがっている。彼の声は天使の賛美歌で、死神の鎮魂歌だ。
ソラは美術に明るいわけではないし、話術に長けているわけでもない。
だから、様々な記事やレビューでハヌルについて熱弁する評論家のように彼のことを言い表すのは難しいが、ハヌルに触れているという事実を前にしては、長けた知識だろうが優れた話術だろうが、他の何もかもが非力だった。
音楽家にとってハヌルは完成品そのもので、芸術家にとってハヌルはアートそのものなのかもしれない。
しかし、今のソラにとってハヌルはハヌルでしかなく、それ以上でもそれ以下でもない、今ただ愛する人を見つめているという事実がここにあるだけだった。
ソラがわかるのはただひとつだ。何がどうなろうと、ハヌルはしかしチェ・ハヌルでしかないし、自分も藤枝空でしかない。その真実だけだった。
柔らかい髪に鼻の先をうずめて息を吸うと、どうしても深呼吸になってしまって少しだけ恥じ入った。他人の皮膚のにおいが落ち着くというのは、一体どういうことだろう。兄弟でも家族でもないのに。
「ヒョン」
ハヌルが言う。
ソラは体を離し、彼の話に耳を傾けた。
「今日、ファンの皆さんに転役の挨拶をするんですけど」
「うん。事務所で生放送するんだっけ?」
「はい」
ハヌルは仰向けに寝て天井を見上げながら、静かに話した。
「そのとき、カミングアウトします」
「……そっか。ついにか」
「代表もさすがに折れてくれました。僕が言いたい、言いたいってあんまりにもしつこいから」
ハヌルは笑う。
そしてすぐにすっと表情を落ち着け、続けた。
「それで……、もしヒョンさえよければ、今付き合ってる人がいて、それが藤枝空さんですっていう話も、一緒にしたいんです」
「え?」
「もしよければ、ですけど」
ハヌルがカミングアウトしたがっていることは知っていたが、恋人を公表したいと思っていたとは全く気付かずにいた。想定外だった。
驚いて上半身をつい起こす。
「言いたいの?」
「言いたいです」
「どうして? 入隊前にあったあのスキャンダルのことで?」
「それもありますけど……」
ハヌルは考えるように沈黙し、少し目を泳がせてから、したたかに言った。
「この芸能界も、この社会自体も、個人の恋愛事情や人間関係について調べ上げられたり、探られたりして、それが事実であろうとデタラメであろうと、他の人から騒がれるのって変だと思いませんか?」
「それはたしかに変だよな」
「それで、誤解されないようにとか、騒ぎを鎮めたいとかの理由で、恋人の有無や性的指向をわざわざ公表しないといけない風潮ができてしまう。それは間違ってると思います。間違ってると思うから、僕は言います。言って戦わないとなくならないでしょう」
「うん……」
ソラは再び身を横たえた。
「他人のことは他人のこと、っていう意識があんまりないのかも。自分のようじゃない人が周りにたくさんいて、それぞれがそれぞれの人生を送っているっていう認識が薄いのかもしれないな」
「そうですよね」
ハヌルは同意する。
「カミングアウトもそうです。性自認も性的指向もみんな同じなわけがないし、限られた型に必ずしも当てはまるわけでもないのに、自分の想定と違うものが現れると拒絶してしまったりする。だから僕のような人がカミングアウトしていかないと、こういう人もいるんですと名乗らないと、何も変わらない」
それから、ハヌルはこう付け足した。
「もちろん、言いたくない人や言えない人に、同じようにしろと強制するものではないです。僕がそうしたいだけです。早く誰もカミングアウトする必要のない社会になればいいな……」
報道機関を通じてとか、スキャンダルを待ってとかではなく、ファンと交流するためのアプリで行なう生放送で発表したいと望んだのはハヌル自身で、ソラも同意した。いや、これに関してはハヌルの問題だから百パーセントハヌルの意見に従うつもりだったが、それでも一番いい方法だと心底思った。
さすがに緊張気味のハヌルは、生放送開始の直前まで、カメラの前で何度も水を飲んで落ち着こうとがんばっていた。
カメラの裏には、マネージャーやスタッフらが控えていたが、最低限の人数にしぼられていた。
ソラは隅のほうにちょこんと座る。普段、ソラがレコーディング室でもない現場にいることはほぼないので、どういう顔で何をしていればいいのかわからなかった。こちらをチラチラ盗み見てくるスタッフもいて落ち着かない。
放送の準備時間中、かつてハヌルとソラの関係性を親友みたいなものと言ったマネージャーがすすすと近寄ってきて、決めつけてしまってすみませんでした、とこうべを垂れた。
その胸にレインボーフラッグのピンバッチが光っているのに気が付いて、ああと思った。
こうやって世界は変わっていくのか。
こうやって世界はまわっていく。
「あの」
ソラはマネージャーを呼び止め、部屋の隅に置いておいた物を指差した。自宅から持ってきた段ボール箱だった。
「あれ、なんというか、俺からの差し入れなんですけど」
「差し入れ? うわあ、すみません。ありがとうございます。みんなで美味しくいただきます」
「ああでも、食べ物じゃないんです。マグカップで」
「マグカップ?」
段ボールには、ソラ宛ての国際郵便の送付票が貼り付けられたままだった。佐月の筆跡だった。
やがてカメラが回り始めて、ハヌル以外の人物はみな口をしっかり閉じた。
今日はみなさんに言いたいことがあって放送をつけました。――ハヌルが話し出す。
それから彼は、胸に手を当てて数回深呼吸をすると、膝の上で指を絡めて祈るようにしながら、胸を張って言った。
「僕はゲイです」
「僕は男性で、好きになるのも男性です」
「それから、僕には今、お付き合いしている男性がいます」
ソラも、震える指を絡めて太ももの間に挟み、そっと祈りのポーズを取った。
「ソラヒョン。みなさんも名前はご存知ですよね? 藤枝空ヒョンです」
「『true story』は、実はヒョンのことを思って書いた曲でした」
「同性婚ができるようになったら、結婚したいと思ってます」
「はあ……。ずっとこうやって話したかったです」
「やっと本当の僕でいられて、気分がいい……」
そう言ってハヌルは微笑み、自分の指で涙を拭った。