第八話
「ハヌルに連絡は取れますか」
「え? 今ですか? 無理ですねえ」
電波の向こうで、ハヌルのマネージャーがきびきび言う。
空は六本木のホテルから韓国に電話をかけていた。
「入隊中って、電話できる時間帯が限られてるんですよ。それに他の人と共有の軍の電話しか使えないから、場合によっちゃ自分の番がこないうちに時間切れになったりするし……」
「……そうですか」
「あ、でも今ってもっと緩くなったんだっけ? 携帯も使えるようになったとか聞いたことあります。僕の頃は厳しかったんですけどねー」
「はあ……」
「ハヌルから電話するよう伝えておきましょうか? あなたにだったらすぐ電話してくれるでしょう。親友みたいなものですもんね?」
親友か。
とにかく、マネージャーはソラとの電話のあとハヌルに一報入れてくれたようで、数分後、メッセージアプリにその旨の報告が送られてきた。何時に電話がかかってくるかはわからないらしい。
ソラはスマートフォンのマナーモードを解除し、念入りに握っておく。
これは賭けでもあった。おそらく対話を諦めてなにも言わずに入隊してしまった彼が、また空と意思を交わそうと思ってくれるかどうかは、彼の手に委ねられている。
思い立って新大久保へ向かった。
ここは、牧野が「行ってみたらおもしろいんじゃない?」と言っていた場所だった。
空自身も昔、一度くらいは行ったことがあるような気がするが、着いてみるとそこに空の知る新大久保はもうなかった。
まず若者が多い。そして随分と賑やかだ。駅から少し歩くと韓国料理店が散見されるようになり、韓国コスメやKポップアイドルのグッズが展示されている店舗が増え、気付くとコリアンタウンの中にいた。
アイドルたちのポップやポスターが多い店々に目を向けると、ちょうど今日誕生日を迎えたどこかのグループの誰かがいるようで、透明感のある綺麗な写真で作られたグッズが山積みになっていて、その周囲にはカラフルな文字バルーンで「ハッピーバースデー」と象られていた。
その他にも様々なアイドルたちで彩られたショーウィンドウがたくさんあり、誕生日だろうとそうではなかろうと、とにかく祝福されているようだった。
ハヌルのゾーンも当然あった。店の一角を、すべていろいろな種類のハヌルの写真で埋め尽くし、入隊中の無事を願うメッセージが書き込まれていたり、数ヶ月前の誕生日を祝った形跡があったりした。
こちらに向かって笑いかけてくる大量のハヌルを前に、空は立ち尽くした。
バケットハットのつばの影で黒くなった顔の中で、瞳だけが生気を帯びて光っている。空の見つめる先のハヌルは動かず、ただ柔らかに微笑み続けている。
誰かが撮影した、ライブ中のハヌルの写真があった。化粧水の瓶を持っている広告のハヌルもあった。そうだ、あいつはあのメーカーの化粧水を本当に普段使いしていたから、広告の仕事を受けたとき嬉しそうだった。空は思い出す。最新アルバムのコンセプトフォトのポスターもあった。あれを撮影した現場に空はいなかったが、あの衣装で使った暗い銀河のような柄のシャツを彼はいたく気に入って、スタイリストにねだって持ち帰ってきていた。アイスクリームを持っている等身大パネルもあった。等身大のはずが実物より大きく感じた。
棒立ちの空と紙状のハヌルの間を、若者たちが横切っていく。
若者たちはみなアイドルのキーリングをつけた鞄を持っていたり、韓国グルメを食べていたり、グッズやライトスティックを抱えていたりした。
「あのー」
呼びかけられ、バチッと我に返った。
「写真撮らないなら、先に撮ってもいいですか?」
トートバッグに可愛らしいマスコットをぶら下げた、制服姿の子だった。両手で持ったスマートフォンのケースには花柄が刻まれていて、「ハヌル」と韓国語で書かれた手作りのキーリングが揺れている。
空が場所を譲ると、その学生はぺこりとお礼をしてから、ハヌルが大量に飾られているゾーンの写真を撮影し始めた。同じポスターや等身大パネルを、あらゆる角度や画角で何枚も撮っていた。
ハヌルの熱心なファンらしく、よく見たら制服のシャツの上に羽織っているパーカーはハヌルのワールドツアーの時のグッズだったし、トートバッグのマスコットはハヌルが挿入歌を担当した映画に出てくるキャラクターだった。
事務所では、ハヌルの「軍白期」にその穴をどう埋めるかばかりが議論されていた。
空は会社経営に関する事項には関心がなく、プロに任せておこうというスタンスのため、そのような議論の場に出ることはまずない。だが、ハヌルの音楽性に関わる部分について助言を求められることはよくあり、それが純粋な音楽性に根ざしたものであればいいものの、より売れるものをという観点から意見を求められると、辟易してしまう。そのたび「奇を衒ってラップでも入れてみますか」とか「国外のアーティストとコラボするとかどうすか」とか適当なことを言って逃れていた。
目の前の小さなファンを見て、確信する。
やはりそうだ。「軍白期」だからといってお金の動きばかりに注目していると初心を忘れる。様々なポーズのハヌルを撮りまくる目の前の学生を眺め、空は久しぶりに穏やかに口元をゆるめた。
「撮りましょうか、写真」
「えっ?」
「ツーショットで」
声をかけると、学生は勢いよく振り向き、何度も感謝の言葉を繰り返しながら恥ずかしそうに等身大のハヌルパネルの隣に並び、ピースをした。
「連写で撮ってもらえますか?」
「れん……?」
「あっ、あの、連写で」
学生は急いで戻ってきて、ぽかんとしている空の手元でスイスイとスマートフォンを操作し、ここを押せば自動で連写になるのでそれで撮ってください、と言った。明るく上気した調子で言うので、いじらしくてつい笑ってしまう。
動かないハヌルの隣でポーズを取るその子にレンズを向けて、教えてもらった部分を押すと、カシャシャシャシャという確かに連写したような音が鳴った。
撮り終えて端末を返したとき、学生はありがとうございますの「ざ」あたりで口ごもり、空の顔をまじまじと見た。そしてハッとする。
バケットハットの下で、あ、これは、と思っていると、ずばり言い当てられてしまった。
「も、もしかして、ソラ……フジエダソラさんですか?」
「……あ、あー」
「違ったらごめんなさい! そうですよね、よく考えたら日本にいるはずないし……」
「ええと」
「そっくりさんですか? え、めっちゃ似てます!」
そっくりな別人だと思われたままでもよかったが、このときの空はなんとなく間違いを訂正したい思いだった。
ハットとマスクで顔を隠していて、しかも日本にいるのにすぐにわかるだなんて驚く。どんな姿格好をしていようと、どこにいようと、いつだって自分は自分でしかあり得ないのに、見つけて認めてもらえただけで今は嬉しい。
本当にハヌルの活動をよく見て応援してくれているのだろうと感じ入ったし、別の観点からも、心からありがとうと思った。
「あの、そっくりさんじゃなくて俺、そうです。藤枝空です」
「へっ?」
「ハヌルのファンでいてくれてるんですね」
「え? え、でも、韓国に住んでるんじゃ……」
「帰省中なんです」
「ほんとうに? ほんとにソラさんなんですか?」
「スタッフ証とか見せれば信じてもらえますか? これ……」
「ぎゃー!」
その学生は、会社に出入りするための証明証に空の名前と写真を確認すると、文字通り飛び上がって両手で顔を覆った。
「ごめんなさい、私びっくりして! あ! あの、いつも曲聞いてます、私ハヌルが大好きで、でも、ハヌルの歌う曲が最高なのはソラさんがいるからだと思っていて、ええと……」
学生は手でぱたぱたと顔を煽いだ。
「こ、これからもハヌルをよろしくお願いします! っていや、なんか親みたいなこと言っちゃいましたけど、そうじゃなくて! っあの、最新アルバムも全部最高でした、私ずっと聞いて……今も!」
と、スマートフォンの画面を明るくし、音楽ストリーミング配信アプリを見せる。
ハヌルの最も新しいアルバムに収録されている一曲だった。空が作詞作曲してプロデュースしたものだ。
「ありがとうございます。俺というより、ハヌルも感謝してると思います」
「いえ、あの、こちらこそありがとうございますというか、こちらがありがとうございますというか」
学生はとびきりの笑顔をみせた。
「ソラさんの音楽が大好きです!」
別れ際、その学生がずっと握りしめていたスマートフォンのケースの柄が何だったかを、不意に思い出した。
あれはモクレンの花だった。やわらかな手書きのタッチで描かれた、優しい絵だった。
ハヌルは歌手としての活動のみならず、有名ブランドの顔になったり、モデルをやってみたりと、ファッションに関する仕事に携わることもあり、以前、ファッションウィークの中でも特に注目されているブランドのショーに招かれたことがあった。
そのブランドのグローバルアンバサダーに新たに任命されたハヌルの名は、あらゆる国のあらゆる世代から人気のKポップ歌手としても知れ渡っているものだったし、彼の持つ気品とあふれる凜々しさ、人柄には、そのブランドの全てが合致していた。
国境を越えて、様々な場所から主要メディアが集結していた。誰もが、抱えたカメラのレンズにハヌルの姿をとらえることに命を賭けていた。一ミリでもハヌルが、ハヌルの体の一部が画角に収まればそれであっぱれだし、目線なんてもらえた暁にはその場ですぐさまSNSに投稿するようだ。
ハヌルの行く先の情報をどうにかして入手して、先回りして構えて、シャッターチャンスを逃すまいとみなが必死だった。
スポットライトに出ていく前のハヌルは、暗く陰っているレッドカーペット袖の隅で、韓国から一緒に渡仏してきたソラに向き合っていた。
普段であれば、ハヌルのファッションの仕事にソラが同行することはない。ただそのときは、フランスの歌番組に出演する予定があったうえに、新曲のミュージックビデオの生歌バージョンを収録する予定もあったから、音楽監督として一緒に来ていたのだ。
ハヌルの顔には緊張が窺えた。
彼はあくまで歌手であり、ファッションに関する仕事は本業ではないから、不安が大きいのだと前に吐露していた。ステージ裏ではあまり見ない種類の気の張り方が窺える。
その背後では、ジャケットを羽織った屈強なボディーガードたちが、ハヌルの行く先の安全を念入りに確認していた。
誰もが、ハヌルがどこへ行くのか知りたがった。これからどこへ向かうのか、その方向の情報を掴みたがった。
ハヌルは緊張を飲み込みながら深呼吸した。ついさっき車から降り立っただけですでに十年分の写真を撮られたような雰囲気だったが、そんなものでは許さない、と、静寂の中、レンズの数々がハヌルを待っていた。
腰の前でそっと、自分の体の影で隠すようにして、ハヌルの指がソラの指を引っかける。ソラが黒いサングラス越しに見つめると、目を爛々とさせたハヌルがもう一度深呼吸をしたところだった。
「いっておいで」
そう言うと、ハヌルは何も言い返さないまま、視線だけで頷いた。
指がゆっくり離れていく。彼はソラの虹彩の底の意思を見抜くように瞳をじっと見たまま、数歩後退して、やがてくるりと背を向けた。
ソラの手は、ハヌルの指に触れていたときの格好のまま固まって、しばらく動かなかった。
鈍い残像を落として動く人々の波々のなか、ハヌルの後頭部が現れては消え、現れては消えながら、どんどん小さくなっていった。
それがふとした拍子で立ち止まる。どうしたのかと思って目を見開くと、数メートル先で人混みに埋もれるハヌルが、誰かの肩と誰かの肩の間からソラのほうを振り返った。
時間の流れが止まる。
やがて照明の届く範囲が徐々に広がっていき、ハヌルが立っている位置を飲み込んで照らし始めた。そのおかげで、そこに立っている人がチェ・ハヌルだと気付いたカメラマンが、鋭いシャッターを切った。同調するようにして、向かいの報道機関もカメラを構える。シャッター音は一瞬にして世界中に広まった。
ひっきりなしに降る雷光のようにまばゆいフラッシュが炊かれ続けても、ハヌルはいつまでもソラの瞳の底から目を反らさないように思えた。が、ある瞬間にぷつりと視線を外して、一瞬にして人の波の中へ消えていった。
手を離すことに痛みがあるようではいけないと、理性では思う。その痛みがあるようでは、ハヌルをハヌルとして、自分ではない別の個体として尊重することが難しくなってしまう。
彼の感情も、言葉も、行動も、全てが彼だけのものであり、他人である空が所有できたりするものでは決してなく、強制しようとしていいものでも決してない。
空との対話を諦めて黙って去ることも、ハヌルだけの音楽を作って歌うことも、全部がハヌル次第でハヌルの自由だ。空は空だから、そこに干渉してはいけない。
彼の離れる自由も、変わる自由も受け入れて、穏やかに指を離しておく。
シャッター音がけたたましく鳴り響く中、パリにいる空が、ハヌルの指に触れていた手の形をゆっくり崩していく。スタッフのひとりが、ソラさん、とその固まった背中に呼びかけた。空は振り向いた。同時に、六本木のホテルの廊下を歩いていた空も背後を振り返った。たった今閉めた部屋の中から、携帯電話のバイブレーションの音が聞こえたような気がしたからだ。
ハヌルのマネージャーはすぐに電話がくるだろうと言っていたが、実際に着信があったのは、あれから数ヶ月が経ってからだった。
慌てて部屋に戻り、ベッドの上に放り投げていた電話を取って着信元を確認する。
ハヌルの番号だった。明日韓国へ帰ろうというタイミングで、ホテル上階のレストランでひとり夕食を取ろうとしていたときだった。
小刻みに震える手で耳に当てる。
「もしもし?」
久しぶりに韓国語を話した。
「……ヒョン?」
それは本当にハヌルの声だった。
電話をぎゅっと耳に押しつけた。
言葉が出なくなり、押し黙る。
「あれ、いま電話しちゃまずいタイミングでした? すみません」
そんなことないと咄嗟に弁解することもできず、空はベッドの脇に突っ立ったまま耳だけを澄まし、華やかな装飾が施してある照明とオブジェを横に、大きな窓に寄りかかって体重を支えた。
自分を抱き締めるように腕を掴む。
「ハヌラ」
「……はい」
「元気?」
「はい。死んではいません」
「冗談にならないことを言うな」
「こんな冗談でも言わないとやってられないですよ」
「……そうだよな」
「はは、やだなあ、冗談ですって。普段通り元気です」
「それなら、よかった」
「マネージャーから、ヒョンに電話するように言われたのでかけたんですけど。……すみません、遅くなって。仕事の話ですか?」
「いや、めちゃくちゃプライベートの話」
「なあんだ、そっか。じゃあ遅れてもよかったですね」
「いつだってよかったよ。忙しいんだろ?」
「うーん、電話する時間くらいはありますけど。ただ」
「ただ?」
「僕にも気持ちの整理が必要だったので」
彼は何も変わらなかった。ソラのよく知るハヌルのままだった。
この一年半、何度夢に見たかわからない。どれだけ謝りたくて、どれだけ隣に並びたかったか。消えていく指先の温度と一緒に祈り続けた。
ハヌルは胸を詰まらせる空には気付かず、まるで昨日も電話していましたみたいな調子で、飄々と雑談をし始めた。軍の寝具がどうだとか、訓練がこうだったとか、食事中にファンに会えたとか、云々。
最後あんな風に別れたことなどなかったかのように振る舞う彼の話を聞きながら、大人だな、と自然に思った。
「ヒョンは元気でしたか」
うんと空が応える。
「今、日本にいるんだ。おまえの入隊中、休暇をもらってて。……といっても明日からまた韓国で仕事だけど」
「ヒョンが帰国するなんて珍しいですね。初めて聞きました」
「韓国に渡ってから初めて帰った」
「どうでした?」
空は、東京の夜景に重なって窓に反射する自分の姿を見つめた。
バケットハットとマスクで顔を隠していない自分の顔を、久しぶりに見た。健康そうにも見えたし、疲れているようにも見えた。
ただ紛れもなくそれは空自身で、どこまでも自分の姿だった。
「いい帰省だったと思う」
「それはよかったです」
「ただ、実家にはもう帰らないと思う」
「……そうですか」
「家族の話、全然してなかったよな」
「そうですね。聞きづらかったです、正直。この手の話題を避けてることには気付いてたので」
「あとで聞いてくれるか」
「もちろん」
「あ、そうだ、おまえにお土産があるんだっけ」
「お土産?」
「こないだマリーモンドのポップアップショップに行ってきて」
「え、……えっ? 何て?」
「マグカップはそこにはなかったけど、違う物をいくつか買ってきた。日本では製造続けてて買えるみたいで」
「……」
「おまえにマグカップ贈ってくれたファン、日本人だったのかもしれないな」
「……ヒョン」
「ハヌリ」
一瞬、誰かの肩と誰かの肩の間に消えていくハヌルの背中が脳裏に浮かんで、空は口をつぐんだ。
そして、それが遠くなっていくのを見送ってから、大きく息を吸う。
「ハヌリ、俺はおまえを――」
「待って待って!」
勢いをつけたところで止められて、空は急ブレーキを踏んだ。
ハヌルは電話の向こうで声量を抑えた。
「ヒョン、落ち着いて。こんな電話で何を言うつもりなんですか?」
「何って、言いたいことを」
「あとにしてもらえますか?」
「もしかして軍の電話で話してる?」
「いや、自分の携帯ですけど」
「じゃあなにが問題なの」
「だってそんな、ヒョンが僕に話したいことなんて、直接聞きたいじゃないですか。ヒョンの顔を見ながらちゃんと聞きたいです」
「おまえ……」
空は冷えた窓に額を押し付けた。
「おまえって、俺のことすごく好きなんだな……」
「はあ?」
ハヌルは素っ頓狂な声を出した。
「まだ伝わってなかったんですか?」
「辛抱強く俺を愛してくれてありがとう」
「……。僕は意外と一途なんですよ。知らなかったでしょう」
「知ってたよ。あの雨の夜に急に俺んちに来て恥ずかしいセリフ言ってたのは、何年前のおまえだったっけ」
「あーもう、意地悪に磨きがかかってますね」
世界でハヌルだけ全部の正解を知っているような、ハヌルだけ違う色で泳いでいるような、そんな感覚が空の全身を包んだ。
圧倒されるような出会いがいくつもあったし、忘れたくない孤独もたくさんあった。ごめんと言いたくて、ありがとうとも言いたくて、でもそれよりもずっとハヌルの言葉を聞いていたい。
消したくないのは、大きな歴史の一部に流れるこの未熟で無知な全身全霊が、愛おしい孤独を抱えたまま、それでも彼の隣に並んでいたいと祈る、この指だった。
「ヒョン、僕、あと三ヶ月で家に帰ります。待っていてくださいますか」
至極丁寧な敬語だった。
空の知らない海を泳ぐハヌルの歌が聞こえてきて、窓の外の深い夜空を、プリズムから伸びる多色が満たした。
「新曲、よかったよ。うまく書けてた。いい曲だ」
「……泣いてるの? ヒョン」
涙が止まらない。
どうにも喋ることができなくなったので、ぐちゃぐちゃになりながら電話を終えた。ハヌルは最後にソラを呼び止め、音の線が切れる直前にこう言った。
「僕はもう、僕があなただけというあかしなどいりません」
チェ・ハヌルはチェ・ハヌルであり、藤枝空は藤枝空であることを、二人はようやく噛みしめた。
しょせん他人だ。しょせん俺じゃない。
握った誰かの指はいずれ離さなければならない。涙を拭ってくれるのは誰かの指じゃない。自分の指だ。人生の終幕に指を握ってくれるのは、自分の指だ。
どんなに愛していても溶けられないし、溶け合えない。どうしようもなく個体同士だった。
結局俺たちは孤独のまま、わかりあえないまま傍にいるしかない。共に戦うことができる相手と、一緒の方向を見つめて、お互い孤独のまま隣に並ぶ。