第七話
ハヌルは率直な物言いをするタイプの人物だから、ソラに対してもいつも「愛してます」とか「かっこいいです」とかを素直に伝えてきた。隠し事も得意ではなくて、嘘をつくことも苦手だから、何かを言いよどんだり誤魔化したりすることはそうなかった。
しかしソラには、ハヌルに不自然に話を終わらせられたと感じたことが、幾度かあった。話題は毎回同じだった。
「マリーモンド?」
「そうです」
首を傾げるソラに、ハヌルが答える。
「韓国発祥のブランドで、人権擁護に力を入れてるんです。児童虐待被害者の支援とか、性暴力被害者の支援とか……もともとは日本軍『慰安婦』問題に取り組む団体なんですけど」
と、ハヌルは持っていたマグカップをくるくる回して花の柄を眺めて言った。
まだソラが聖水洞のマンションに住んでいた頃のことで、その日は仕事帰りにハヌルと食事をすることになり、自宅へ招いたのだった。ソラは料理が得意で上手なので、こうして振る舞うことがよくあった。ハヌルも毎回喜んでくれる。
二つもらったのでひとつあげますと、モクレンの花を模した絵柄のマグカップを、ハヌルは持ってきていた。食事に入る前にざっとキッチンを片付けて、ソラもダイニングテーブルにつく。
ハヌルはマグカップをじっくり眺めて、やわく微笑んでいた。
「そのマグカップがその、マリーモンド? の物なのか?」
「そうです」
「ふうん……」
「前はスマホケースもここの物を使ってたんです。種類がたくさんあるんですよ」
ハヌルは寂しげに続けた。
「でも最近、活動休止になっちゃったので買えなくて。このマグカップはファンの方が贈ってくださったものなんです。どこで買ったんだろう」
ソラはカップを受け取り、まじまじと見た。白地の陶器に、クリーム色と赤色、濃い緑色でやわらかな手書きのタッチで模様が描かれていて、あたたかく優しい雰囲気の綺麗なマグカップだった。
使おうと思いながら、ソラは言った。
「これ、日本のファンはいい反応しないんじゃないか」
「え?」
「いや、だって『慰安婦』問題ってデリケートな話題だし」
ハヌルの周囲だけ時が止まったようになったので、ソラは多少気まずい思いで付け足した。
「反日だなんだってすぐ言われるだろ。おまえには日本人のファンも多いんだから、あんまりこういう物には触れないほうがいいんじゃないかって」
「は、反日」
そこの単語は日本語で言ったが、ハヌルには伝わったようだった。
「僕が『慰安婦』被害者を支援する企業のものを使ったら反日になるんですか?」
「そう受け取る日本人もいるってことだよ」
「どうして?」
「よく知らないけど、そういう人が多い。それより食べないか? せっかく作りたてなのに冷める……」
「ヒョンも僕を反日だと思うんですか?」
「いや俺は」
「どう思いますか?」
「……」
「ヒョン」
食べることが大好きなハヌルが箸に手をつけようともせず、切迫した目で訴えてくるので、ソラは参った気持ちになりうーんと唸った。
この手の話題は苦手だった。
歴史は義務教育のレベルでしか勉強してこなかったし、日韓の関係となるとさらに敬遠してしまう。実際にこの二国間の仲が良いとは思えないし、これまで父親を始めとする多くの大人たちが、韓国のことを反日国だと揶揄しているのを見聞きしてきた。
どっちがどう悪いとか、良いとか、正直よくわからない。とにかくその具体的な話題を避けるという方法でしか、これまで対処してこられなかった。
「……」
「……」
何も言えなくなったソラを目の前に、ハヌルも黙った。
ハヌルはそれ以降、「慰安婦」問題の話もマリーモンドの話も二度としてこなかった。微妙にその話になりそうな気配がすると遠回りして避けて、ソラとの会話の中でそこに触れることがないよう気を回しているようだった。
今思えば、韓国語話者のハヌルが「反日」なんて日本語を知っていた時点で、立ち止まるべきだったのだ。
ソラの中に多くの日本人の大人の声ですり込まれていたこの単語が、父親の声ですり込まれていたこの単語が、鋭利なナイフの刃のように腹の底を刺してくる。
父のようにはなりたくなかった。彼はソラの夢――韓国で音楽がやりたいという夢――を知ってからというもの、なにかにつけて反日と言いソラを貶してきて、まるで反日という言葉自体が殺傷能力を持っているかのように何度も何度も口にしてきたが、ソラは自分がハヌルに対して、父親にされてきたのと同じことをしてしまったのではないかと気にかかっていた。
だからといって「慰安婦」問題にコミットする理由はよくわからない。
ハヌルに日本人ファンが多いことは事実だし、日本の風土だって理解しているのだから、わざわざ火事の種になりそうなものを持ち込んでくる必要はないではないか。事実、これまでも、光復節を祝うコメントをしたことで日本のファンから批判され、インターネット上で炎上した韓国アイドルもいた。そうならないよう努めるのはスターとして当然のことだろう。
それに、韓国人のハヌルと日本人のソラが付き合っていくにあたっては、別にこの部分の不透明さは解消しようがしまいが関係ないはずだった。過去にそれぞれの国で何かがあったとしても、今、穏やかに暮らせているなら問題などない。
湖畔の新居にもマリーモンドのマグカップは持ってきた。
ソラは何事もなかったかのように使っているが、ハヌルはソラの前でそれを見ようともしなかった。その態度がずっと引っかかっていて、今回の帰省で父にまた反日と罵られたことで記憶がよみがえり、空はどうしたものかと悩んだ。
東京へ戻る前日、佐月に連絡をして一緒に夕食を取った。
佐月は空の韓国人の恋人に興味を示し、どんな人か、いつ知り合ったのかなど聞き込んできたが、それもそのはず、彼女は韓国文学をよく読むため韓国の文化に興味があるのだ。『82年生まれ、キム・ジヨン』の作者を見かけたことがあると話すと、フェミニズムがどうだとか家父長制がどうだ、日韓の政治がうんたらかんたらと捲し立てて大興奮した。
それで、ずっと引っかかっていたマグカップの件を打ち明けた。相談するなら佐月だと思った。
佐月は静かに話を聞いていた。空が一部始終を話し終えると、うんうんと頷いてしばらく物思いに耽ったあとに、歴史を学ぼう、と言った。
新宿へ向かい、佐月が紹介してくれた施設を目指した。
人通りのまばらな住宅街を進み、ゆるやかな傾斜になっている歩道を背中を丸めながら歩く。
大学が近いのか、すれ違ったり道の反対側で集まっていたりする人達はみな若く、活発そうな様子だった。グーグルマップを見ながら歩いたが、教えられた住所に辿り着くまでに道に迷い、何度か行ったり来たりして辺りを見回した。
目的の施設が収容されている建物は数階ほどのビルで、ぼんやり歩いていると通り過ぎてしまいそうな場所に位置していて、ここかと確信して扉を潜るまでにまたしばらく時間が経過した。
エレベーターに乗り込み、二階へ行く。出て曲がると、すぐに『女たちの戦争と平和資料館』と標識があるのが見えた。
静かなフロアだった。奥から人の談笑する気配がした。広い廊下の壁一面に女性達の写真がずらりと並んでいて、ぎくりとした。佐月と一緒に来れば良かったと思った。
彼女には、
「『慰安婦』問題を知りたいならまずここだよ。被害と加害の資料だけじゃなくて、裁判の記録とか当事者の証言とかぜーんぶあるから。韓国に帰る前に絶対に行ってみて」
と力説され、強く背中を押されたのだった。
空はいつもの黒いバケットハットを深くかぶり直し、扉を抜けて中へ入った。
なるほど佐月の言うように、資料がたっぷりあることは入ってすぐにわかった。広くはないスペースに衝立が何枚も立っていて、どの衝立にも、四方どの壁にも、ポートレートや記事、絵画などが展示してあり、奥の場所には書籍がぎっちり詰まった本棚が置いてある。資料を隅から隅まで見たら、とても一日では見終わらないほどの量だった。
「こんにちは」
右奥の作業机に座っていた婦人が、空に朗らかに声をかけた。
「ご見学でしたら受付をお願いしますね」
場違いではないかと緊張しながら、言われるがままに受付を済ませる。スタッフのその婦人は、空の様子を見て「初めて?」と聞いた。
「あ、はい」
「私達にはこれを次世代に継承していく義務があるから、若い方が来てくれると嬉しいし安心します。ゆっくりしていってね。荷物はそこのテーブルに置いておいて大丈夫ですから」
と、空の背後にあった大きな丸テーブルを指差す。空は言われたとおり荷物を置き、端から資料を見ていくことにした。
館内には、空のほかに三人ほど見学者がいた。
一人は、大きく重そうなリュックサックを背負った、長いブロンドの髪を三つ編みにしている青い目の若者で、仕草を見ている限り、スマートフォンの翻訳機能を使って展示物を見ているようだった。留学生だろうか。時折端末に向かって独り言を呟いたり、深く頷いたりしている。
もう一人は途中で帰っていったが、残りの一人はここによく来る人なのか関係者なのか、棚に軽く寄りかかってスタッフ達と親しげに喋っていた。ソヒョンと呼ばれていて、おやと思う。気になってそちらを見ると目が合い、微笑みかけられた。
「じっくり見ていってね」
ソヒョンは空より一回りほど年上のような雰囲気があった。
空はこくりと頷く。
「もし良ければ、軽く解説しましょうか? 戸惑うようだったら」
さっぱりとそう言われたので、空はまたこっくりした。何も分からない状態で来てしまったので、有り難い限りだった。
ソヒョンは壁伝いに一から説明してくれた。
そもそも日本軍「慰安婦」とは、日本軍がアジア諸国等の占領地に設けた慰安所において、軍人たちとの性行為を強制された女性たちを指す言葉であること。日本軍は駐屯したほとんどの地域に慰安所を作り、日本や、当時日本の植民地だった朝鮮、台湾などから女性たちを各地に送り出し、占領した各地で暮らす現地の女性たちも含めて「慰安婦」にしていったこと。「慰安婦」にされた被害者の多くが、「稼げる仕事がある」という言葉で騙されて慰安所に送りこまれたり、厳しい労働環境から逃げ出したところを掴まって連行されたりしたと、語っていること。慰安所の生活環境は劣悪で、中には、女性たちを連行して監禁し、部隊の兵士が輪かんをする「強かん所」としか言いようのない状況もあったこと。行為を拒否すれば暴力を振るわれる中で、明るくいることも強要され、中には極端な選択をする女性もいたこと。戦後、連行地に置き去りにされた「慰安婦」の中には、故郷に帰ることができずそのまま亡くなった人もいたこと。生き残っても心身に重い後遺症が残り、苦しんだこと。戦後も、「慰安婦」制度を設置した日本軍と政府の法的責任は問われなかったこと。性暴力の被害女性たちが日本政府に謝罪と賠償を求めた裁判は、全てが棄却されていること。……。
知らなかった、では済まされないほどの事実を目の当たりにして、空は絶句した。
ソヒョンはまるで、何度も繰り返してきたから慣れているというような調子で、淡々と説明をしていた。
展示されているパネルの中には、朝鮮人「慰安婦」たちの生涯の記録もあった。
被害者女性の証言の他に、加害者男性の証言を掲載したものもあった。
慰安所に並ぶ日本の軍人たちの笑う姿を撮った写真もあった。空は、その写真からしばらく目が離せなかった。
黄色く色褪せたモノクロの荒い画質の一枚の中に、今の自分とそう変わらない年代の男性が列を作って笑っている。その笑顔から目が離せなかった。先の建物の中にいたのが日本人だったのか、朝鮮人だったのか、また違う国の被害者だったのかはわからない。ただ、笑うその横顔の剥き出しの残虐性と無邪気な無知に面食らい、今の時代じゃこれは許されないはずだ、と思った。
「あなたは日本人?」
唐突にソヒョンが聞いてくる。
空は何度か唾を飲み込んだ。
「はい」
並ぶ軍人の写真から力ずくで視線を外しながら、頷く。
「でも、普段は韓国に住んでます」
「そう」
「あなたは?」
「私は韓国人。でも普段は日本に住んでる」
それはどうして、と聞こうとしてやめた。
考えを読んだのか、ソヒョンはからっと付け足した。
「在日ではないの。パートナーが日本人でね、三年前から東京に住んでる」
「……そうですか」
「あなたはどうして韓国に?」
「仕事で。……最初は。今は大切な人が韓国にいるので、向こうに家も建てました」
「それは素敵」
「彼は今、兵役中です」
「そう」
ソヒョンは余裕を全身にまとったまま、髪をかき上げて悪戯に笑った。
「おおよそ、『慰安婦』関連のことで言い争いでもしたんでしょ? それでここに来たとか?」
「……」
「当たり?」
ソヒョンはクスクス笑った。
鼻から深くため息をつき、空は再び目の前のパネルを見上げた。
慰安所前に並ぶ日本兵たちが笑顔で立っている。いつかの時代の同年代の横顔。
「俺が無知だったんです」
空は静かに言った。
「彼に言ってはいけないことを言ってしまったと思う。……日本人として。正直、自分が日本人だってことを都合良く忘れてた。俺は俺なのに」
ソヒョンは近くに置いてあった椅子の背もたれ部分に腰を寄りかけ、タイトスカートの下で脚を交差させて腕を組んだ。
そして空の横顔を眺めて、そっと言う。
「どう思った? 今日、これを見て」
空の目線はまた日本兵の笑顔に捉えられていた。
「知りたくなかったです」
「……」
「忘れたい。忘れて彼に会いたいです。あれは俺じゃないし――と言い、空は並ぶ日本兵の写真を顎で指した――、過去に何があろうと関係ないってことを彼に話したい」
「そう。今まで向き合わないでこられたのね」
「え?」
「今まで、日本の朝鮮侵略や植民地支配について何も考えずに生きてこられた特権があったのね、って言ったの」
ソヒョンは微笑んでこそいたが、もう笑顔ではなかった。
「過去に何があろうと関係ないって、本当にそう思う?」
「……。はい。そうではないんですか」
空は言った。
「彼は、『慰安婦』被害者を支援する企業のグッズを使ったりして、支援する姿勢を見せていますけど、俺はその問題に触れないことが一番いいように思います。変に言い争いも起きないし、『慰安婦』問題は過去の話だし、政府は何かできることがあるのかもしれないけど、俺たちはなにもできない」
「なにもできないって、本当にそう思う? あなたも有権者でしょう?」
「それは……そうですけど」
「いつもは韓国に住んでるって言ってたけど、向こうの人達とこういう話題にはならないの?」
空は韓国での交友関係を思い返した。
「ならないですね……」
「そう」
ソヒョンは優しげに言った。
「『慰安婦』問題の話題で口論になって、そのまま喧嘩別れしちゃうような大学生とか、よくいるのよ。きっと、あなたが韓国で暮らしてるときの大切な彼や同僚は、あなたに気を遣って歴史の話をしなかったり、話が膨らまないようにその話題を避けたりしてたんじゃないかな。韓国にいるとき、あなたはもしかしたら、自分が日本人だということを意識する機会があまりなかったんじゃない?」
ソヒョンの言葉がぐさりと胸に突き刺さった。
この帰省中に、牧野と会って話していたときにもまさに感じたことだった。韓国にいるときに自分が日本人だと思い知ることはあまりないが、牧野相手のときのように、日本にいるときのほうが自分が日本人だと痛感する。
それは、韓国人の仲間達に気を遣われていたからだというのか?
「あなたの周りの人はとても優しい。あなただって優しい人のはず。でも、あなたがその大切な人をどんなに深く愛して、どんなに大事にしたとしても、日本がした加害の歴史がなくなるわけじゃない。被害者が救われるわけじゃない」
「でも」
声のボリュームが無意識に大きくなる。
空はソヒョンの話を遮った。
「でも、それとこれとは話が別ではないですか。俺が彼を愛していることと、俺の国が昔罪を犯したことは、別の話ですよね?」
「そうやって自分の個人的な感情と歴史は別物、と言えることが特権なの。まずはそこを自覚してほしいと、私は思う」
ソヒョンは、ハヌルのようなまっすぐな瞳で空を見つめた。
「あなたが自分の国の加害の歴史について何も知らずに生きているあいだ、被害者は毎日毎日、日本から被った害や傷について考えて、苦しんで、向き合ってる。向き合わざるを得ないの。
あなたがここに来るまで『慰安婦』問題についてよく知らなかったように、多くの日本人は自分の国がした加害について全然知らない。見ようともしないし、最悪なことに、『慰安婦』制度なんてなかったなんて言って、自分たちの都合の良いように歴史を変えようとする人だっている。そんな中、被害女性たちはずっと苦しんで、強制的に向き合わされ続けて、謝罪も賠償も受けないまま、暴力があったことすら認められずに亡くなっていっているの」
「……。暴力があったことすら、認められずに……」
空は呟いた。
佐月の家庭、空自身の両親、そしてハヌルのことを思い出した。
「そう」
ソヒョンは続ける。
「いまだに十分な謝罪も補償もしてない日本政府に対して、あなたはちゃんと責任を感じてる? なにもできないってさっき言ってたけど、なにもできないわけはないでしょう? あなたの国の政府なんだから。あなたたちが選んだ政治家なんだから」
「確かに、そうです。そのとおりです」
「うん。なかったことにしないで、きちんと向き合わないとね」
ソヒョンは静かに言った。
「戦争は終わってない。被害は消えてない。昔の話だから自分は関係ないと思うかもしれないけど、あなたは今、過去の加害行為が生んだ差別構造のある社会をそのままにして生きてるんだから、これは今を生きるあなたの問題でもあるの」
「差別構造のある社会?」
「日本はかつて、朝鮮半島を植民地支配してたでしょう? それなのに罪を認めずにのらりくらり逃れて、今でも……。文大統領の頃、日本の首相が朝鮮戦争終戦宣言案を突っぱねたこと、忘れられないな」
「……」
「知らなかった?」
「はい。これも特権、ですか」
「そうね。何を思って朝鮮戦争を終わらせたくないのか、私は知りたくもないけど、対等な立場の国だと思ってたらこんなこと言える?」
空は首を左右に振った。
「日本人の多くは、韓国がちょっとでも日本に刃向かうようなことをするとすぐに反日って言うでしょ? なんなんでしょうね、反日って? 植民地支配からの独立を祝うことが反日? 『慰安婦』被害者に寄り添って、性暴力に反対の立場を表明することが反日? いったい、どの立場から私たちの国を見ているのかと思うわ」
「……」
「あなたは、朝鮮半島が北と南で分断されてる理由に向き合ったことがある? 韓国に今でも徴兵制が敷かれている理由を調べたことがある?」
「……朝鮮戦争が理由ですよね。北朝鮮と今でも休戦状態だから、またいつ戦争が始まるかわからないから、それに備えるために」
「そうね。じゃあその朝鮮戦争が起こった原因は? 他の国が介入して韓国が戦場になってたとき、日本は何をしてた? 今、何をしてる? 日本は韓国の声を聞いてる?」
「……それは」
「あなたは今、韓国の声を聞いてる?」
空は何も言えなかった。
横の展示物を見ていた三つ編みの留学生が足を止め、翻訳用に端末を翳したままこちらを見ていた。フロアの奥ではまだスタッフ達が喋っていた。目の前のソヒョンはじっと空を見つめ、それ以上は何も言わなかった。
それでわかった。
韓国で自分が日本人だと意識せずに暮らせていた傲慢さ、朝鮮戦争や「慰安婦」問題についてなにもできないと放り出していた無責任さ、個人的な感情と歴史は別物となんの疑いもなく考えていた自分の特権を。
そして、ハヌルが兵役について一言も相談せずに行ってしまったことの必然性を。彼は、空が日本人だから兵役の話をしなかったわけではなかったのだ。空が韓国の声を聞こうとしない、対話をしようとしない日本人だったから、もう何も言わなかったのだ。
両親にもう何も言えないと悟ったときの自分を思い出して、腹の底が痛み出した。あの灼熱の諦観を。またナイフの刃だった。
差別を前になにもしてこなかった自分を恥じた。「慰安婦」被害者を前に何も知らずにいた自分を反省した。そして、朝鮮戦争の終結を妨げている要因のひとつに自分の国がある事実を受け止め、噛みしめた。
全身から力が抜けて、ふらふらと後退した先の椅子にどさりと腰を下ろした。人ひとり座れる大きさのベンチだった。
最後に優しく微笑んで去って行ったソヒョンの背中を見送り、放心したまま顔を上げると、ベンチの前の壁に大きな世界地図が貼ってあるのが見えた。地図の中に、数え切れないほど大量の赤い丸が点在していた。それは主にアジア圏内に集中していて、朝鮮半島のみならず、中国やタイ、インドネシアの方面にも広く濃く記されていた。
浅い呼吸で説明文を見やる。
「日本軍『慰安所』マップ」と書かれていた。
あまりにも多すぎた。それは血の赤だった。かつてこの国が踏みつけてきた人の叫びが、鼓膜を震わせて吐き気を催させる。絶望と、悲しみと、申し訳なさと、怒りと、戸惑いがぐるぐるに混ざり、空は文字通り頭を抱えた。
そうか。ハヌルに銃を持たせているのは俺だったんだ。
どうして知らずに生きてこられたのだろう?
どうして反日だなんて言えたのだろう?
どうして今までこんなにも傲慢に生きてしまったのだろう!
韓国人の女性であるソヒョンに説明をさせていた自分の態度のグロテスクさにも目眩がした。自分はたしかに、日本人の男性だ。差別構造が目に見えるなら、今、確実に人を踏みつけて立っているはずだった。
とぐろを巻く黄土色の感情の渦が苦しくて、頭を掻きむしった。
誰かのあたたかい手がそっと肩に触れたのを感じた。顔を上げる勇気すらなくて、空はただ数回頷いて問題ないことを知らせた。しかし手は退かず、なかなかそこを離れなかった。
しばらくするとすぐ耳元で、機械の音声が無感情に日本語を話した。
「あなたは日本人です。しかし、日本はあなたではありません」
頭から手を離して恐る恐る見上げると、肩に手を置いてくれていたのはあの三つ編みの留学生だった。
片方の手でスマートフォンを持って、無表情のまま、もう一度翻訳機の読み上げ機能を起動させる。
「私はドイツ人です。しかし、ドイツは私ではありません」
翻訳機が続ける。
「私は戦争をしていないので、自分を責めることはしません。しかし、ナチスの過ちを繰り返さない責任が、私にはあります」
陽気にも聞こえる機械の女性の声がそう言い、ぶつりと切れた。
「……。ありがとう」
かろうじて伝えられた一言に、留学生は大きく頷いてキビキビと歩き去っていった。ついさっきまで見ていた展示物の前に戻り、また粛々と翻訳機を掲げ始める。
くしゃくしゃになった髪がはらりと落ちてきて、瞼をくすぐった。ずれ落ちていたマスクをしっかり上げて顔を覆い、ハットをしっかりかぶり直す。
空は立ち上がった。立ち上がるしかなかった。
それから閉館の時間まで、館内の資料を見てまわった。そこを去るときには空以外の客は誰もいなくなっていて、ソヒョンの姿すらなくて、彼女にきちんと感謝を伝えられなかったことを悔いた。
受付近くの丸テーブルに置かせてもらっていた荷物を取って、スタッフの婦人に礼を告げ、扉を潜ってエレベーターに乗り込む。
列に並ぶ日本兵の笑顔が、まだ脳にこびりついていた。