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しじまの指  作者: 加藤
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第四話

 今回の帰省では、出身地である秋田県へ行き、実家に顔を出そうと思っていた。

 気は乗らないが、先日、名古屋にいる兄から「父さんの体調あんまり良くないから、死ぬ前に一度くらい顔見せてやりなよ」と連絡がきたため、半ば渋々そうしようと考えていたのだ。

 都内では仕事もしたが、秋田ではそういった予定は全くない。本当にただ実家に行くだけだ。気が重い。

 日本に到着してから数週間後、東京駅から新幹線に乗って仙台まで向かい、駅構内にある牛タン専門店で定食を食べて空腹を満たしてから、秋田駅を目指した。

 幸い、雪の季節まではまだ数ヶ月あったから、真っ白な道に足を取られて立ち往生したり吹雪に殴られたりすることなく、スムーズに秋田駅前までたどり着いた。大荷物は六本木に置いてきたから、身軽な鞄だけ身につけていた。

 実家に長く滞在するつもりは毛頭なかったので、秋田市内のビジネスホテルに泊まることにした。

 ほぼ十年ぶりの秋田市だ。道路は整備が進み、壁の綺麗な建物も増え、さすがに記憶上の風景とは違う部分が多かったが、それでも懐かしいと強く感じるくらいにはおもかげがあった。

 駅周辺の居酒屋へ入り、ひとりでゆっくり夕食を食べたあと、九時になる頃を見計らって会計を済ませた。その後、駅前通りから一、二本奥に入った道沿いにある、すっきりした外観のバーに入った。

 扉が軽い鈴の音を鳴らした。コツ、と踵を響かせながら中へ入ると、オレンジがかった照明がほの暗く降り注ぐ店内のカウンターで店主が顔を向け、いらっしゃいと穏やかに声をかけてきた。

 店主は入ってきた馴染みのない顔を眼鏡のレンズの上から観察しながら、直線形をしたカウンターの一番奥の席を勧めてきた。空は勧められるまま奥へ進み、腰の少し下ほどまで高さのある椅子に腰掛け、カクテルをひとつ注文した。店主は微笑むと浅く頭を下げ、さっそく基酒に向き合い始めた。

 バーは狭く落ち着いた雰囲気だった。木造のアイリッシュなショットバーで、音符の走りが静かなピアノの楽曲が流れている。

 店内には数人の先客がいた。空から数席離れたカウンター席には仕事帰りの営業職のような風貌の男性が一人、テーブル席には三つほどのグループが飲んでいて、誰もが楽しそうだった。

 カウンターには初老のバーテンダーともう一人、胸元ほどまである長い髪を揺らした女性がいた。

 彼女は、今やって来た客にマスター同様「いらっしゃい」と声をかけると、声をかけたポーズで数秒固まった。口が「い」の形のまま数秒経ち、とたんに息を吸い込む。

「空?」

 空は深くかぶっていたバケットハットを脱ぎ、マスクを外した。

「うっそ。信じられない」

 彼女はヒールを鳴らしながら目の前まで飛んでくると、空の顔を覗き込んで肩を揺らした。

「空! 帰ってきてたの?」

「ちょっと前に」

「びっくりした! 久しぶり!」

 興味ありげにこちらを見ていたマスターに、彼女、佐月は空を紹介した。

「マスター、この人は藤枝空。昔ずっと一緒にバンドやってた私の幼馴染みなんです」

 空は改めてマスターに会釈をした。

「といってもこの人、高校卒業した次の日に韓国に行っちゃって、それ以来全然こっちに帰ってこないんで、私もめちゃくちゃ久しぶりに会うんですけど。何年ぶりの帰国?」

「十」

「十年? やば!」

 佐月は、紅潮した自分の頬を手の甲で冷やした。

「マスター、見てくださいよ。十年ぶりの帰国なのにこうやって涼しい顔しちゃって。この人、昔っからそうなんです。クールぶってるっていうか」

「韓国に住んでいらっしゃるんですか」

 マスターの口ぶりは上品だった。

 空に注文のカクテルを差し出しながら、のんびり聞いてくる。

「はい。あっちで仕事をしてるので」

「失礼でなければ、どういったご職業を?」

「音楽プロデューサーを」

「マスター、チェ・ハヌルって知ってます? Kポップアイドルの」

 佐月が言う。

「世界中で大人気の歌手なんですけど、その人の歌を作詞作曲して、おまけにプロデュースしてるのがこの人なんです」

「それは素敵ですね。Kポップって、いま若い子達にすごく人気でしょう」

 ハヌルの名前に反応して空のほうを窺ってきた若者がいて、若干気まずくなった。

 佐月は気を遣って声を落としてくれているものの、落ち着いた雰囲気のこのバーでは会話は筒抜け状態だ。

 佐月は慌てて話題をそらした。

「それより、なんで急に来たの? 来るならそう言ってくれればよかったじゃん。ついこないだもラインしてたのに」

「帰国自体急に決まったから。突然来てごめん」

「いいけどさあ」

 佐月はカウンターを挟んだ向かい側に座り、空と目を合わせた。

「元気そうだね」

「うん」

「私が韓国旅行に行ったときに飲んだ日、以来?」

「そう……かな?」

「絶対そう!」

「まあ、相変わらず元気そうでなによりだよ」

「うん、なにも変わらないよ。私もここも」

 佐月は髪を片耳にかけた。

 薬指に小さなハートマークのタトゥーがあるのが、チラと見えた。あれは高校生最後の夏、佐月が当時の彼女と一緒に彫ったものだった。

 視線の先に気付いたように、彼女は話し出した。

「去年、彼女ができたんだ」

「それはおめでとう」

「ありがとう。彼女、この東北の田舎で東京みたいなレインボープライドパレードとか主催しちゃう活動家でさ。ビアンだってこと全然隠さないで堂々としてて、頭良くてハキハキしてて超いい子で、すぐ好きになっちゃった」

「よかったじゃん」

「うん」

 釈然としない佐月の表情に、空が目線で先を促すと、彼女は長いため息をついてから続けた。

「親にカミングアウトしないことに決めたんだ。一生」

 佐月は、両親含めた家族が全員、性的マイノリティへの理解がないことに長らく悩んでいた。

 彼女自身は中学生の頃から自分がレズビアンだと自覚していて、当時から仲の良かった友人(空を含む)には打ち明けていたが、一番言いたい家族にだけはどうしても言えず、苦しんでいた。

 間接的にLGBTQIA+の話題を振ってみたり、同性愛者の出てくる映画を一緒に見てみたりしたものの、両親は頑として理解も興味も示さず、日常的な会話の中で差別発言さえ出てくる始末だった。それで、数年前に韓国で空と会ったときにも、いつかは言いたい、いつかはわかってほしいと悲しそうにしていた。

 それを、もう一生告げないことにしたと言った。

「私、結構頑張ったんだけどね。でもこれはもう絶対、言ったら勘当されると思って。彼女は家族にもきょうだいにもカムア済みで、彼女の家族は私にも本当に良くしてくれるんだけど、それ見てたらもういいかなってなっちゃった。十分だなって。私は自分の親のこと好きだし、今後介護もするつもりだから、だったらもうさ……、親ももう年だから、打ち明けて変にこじれるより、知らないまま墓場までいってくれたほうがお互い疲れないじゃん」

 さっぱり未練ないように話そうとしているのを見て、たくさん考え抜いたのだろうことが皮膚に痛いほど伝わってきた。

 左手の薬指に浮かぶ小さなハートマークが、右手の親指と人差し指で神経質にこすられて上に下に伸びる。油性ペンの細いほうで悪戯書きしたみたいな線だった。

 空は、口に運んでいたアイリッシュコーヒーをテーブルに置き直した。

「実は今、男と付き合ってて」

「え!」

 佐月は大声を出してしまった口を自分で塞いだ。

「ほんとに?」

「ほんとに」

「今日びっくりすることだらけなんだけど。私、空はアロマなのかと思ってた」

「多分そうだった。けど、変わった」

「そっか。変化があったんだね」

「うん。ゲイになったのか、女性と付き合ったこともあるからバイセクシュアルなのか、他のなにか、パンセクシュアルとか別のものなのか、自分でもよくわかんないんだけど……、わかんないままでいいっていうか、決める必要もないかなと思ってる」

「クエスチョニングなんだ」

「ああ、そう。そう」

「相手は韓国の人?」

 頷く。

「そいつは堂々とゲイでいるんだけど、立場上、人に打ち明けられなくて不満に思ってて、ずっと悩んでるんだ。俺は家族なんていないようなものだし、友達も別に少ないし、正直カミングアウトしようがしまいがって感じだけど、そいつのこと見てると、言いたいのに言える環境がないことに腹が立つよ」

「うん」

 佐月は頬杖をついた手の甲に頬を滑らせて、微笑んだ。

「そうだよね」

「いや、まあ、根本的なことを言えばわざわざカミングアウトしなきゃならないのがおかしいんだけど」

「うん」

「でも周りがみんな異性を好きで当然で、結婚して当然で、親と仲良くて当然で……ってなると、わざわざこんな奴もいますよって言わないと俺らがいないことになる。社会が異性愛者用にできあがってるから、そうじゃないんですけどってわざわざ訂正しないと嘘をついてることになる。俺のパートナーはゲイだって言いたいのに言わせてもらえなくて、嘘をつき続けてることになってて……。おまえだってそうだろ、佐月の親が佐月だと思ってる奴は本当は佐月じゃないのに、佐月は本当の自分を隠して、嘘のほうの佐月のふりをして親と一緒にいなきゃならない」

「うん。わかるよ」

 佐月が言う。

「でも、それももういいやって思うの。嘘の私でいることでお母さんたちが残りの人生を安らかに過ごせるなら、それでいいよ、もう。もう私、疲れちゃった、理解してもらおうって望んで戦うことに」

「……おまえの親だって、理解したくなくて理解できないわけじゃないよ」

「わかるよ。全部、わかってんだ。親が理解してくれないのは、生きてきたのがそういう時代じゃなかったからだとか、受けてきた教育のせいだとか、見てきた社会のせいだとか、そういうこと全部わかってる」

 佐月は鼻から大きく息を吸い込んだ。

「そりゃあ本当は、私を誤解したまま穏やかに死ぬくらいなら、少しくらい一緒に戦ってほしかったよ。理解はしてくれなくたっていいから、せめてそういうものだと放っておいてほしかった。家で差別発言を聞くたび傷付いてた私の存在を、そこにあったんだねってただ思ってくれれば、それでよかったのに」

「うん。……そうだよな」

「でも、もういいんだ。私はすっきりしてる。カムアウトしないことに決めてから、心がすーっと軽いの! 拒絶される不安も消えたわけだしね!」

 佐月は泣かなかった。

 昔は泣き虫だった彼女の涙は、いつから理性に負けるようになったのだろう。

 十八の夏、「彼女ができたの」と報告してくれながら、しゃっくりが止まらなくなるくらい号泣していた彼女の制服姿を思い出した。

 今、目の前の佐月は、諦念をやさしい色で包んで甘んじて受け入れて、赦しを授ける女神のように微笑んでいた。

 なぜハートマークを左手の薬指に刻んだかなんて、理由を問わなくてもわかる。

 最後に思い切り泣いたのはいつだ。そのとき隣に誰かはいたか。

 空は何も言わず佐月の笑顔を眺め、少しだけ頬を緩めた。

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